第2話 復讐の剣の向かう先 ファルカス
「は……?」
「ご存知であった、と……なぜ……?」
復讐を誓う――側妃の名の不穏な意味を知っていた。そう告げたファルカスの言葉に、
「バカな!」
そして彼の言葉は、ブレンクラーレの使者からはまた違った反応を引き出していた。挑発するような余裕の笑みも、死を覚悟したかのような鋭く定まった眼差しも、見る影もなく揺らいでいた。イシュテンの諸侯以上に驚きを露にし、頬を紅潮させている。足を踏み鳴らすさまは、子供の駄々のようですらあった。
「知っていながら、許しただと!? あり得ない! 叛意を知った上での寵愛など――」
この男の先ほどまでの笑みの理由がよく分かる気がした。相手の知らない情報で驚かせるということは大層気分が良いものだ。先が見えないという不安を与えることで、今度はファルカスの方こそ余裕と、場の主導権を得ることができた。それに何より、考える時間を。たとえ
――この線で行くしか、ないか……!?
頭蓋の内側を、稲妻を駆けるような思いがした。閃光の早さで思考が巡り、次に言うべき言葉を浮かび上がらせる。ほとんど出まかせとも言えるが、この場を収めるため――臣下を安堵させ、ブレンクラーレの使者の意気を挫くための理屈を、とにかくも披露しなければならないのだ。
王が諸侯に対して隙を見せてはならないのはイシュテンにおいては常のこと。だから、内心の焦りとは裏腹に、強気と自信を装うことはできるはずだ。
「妻のことでどうして夫が知らないことがある? あり得ないと断じることこそあり得ないだろう! 第一、どうしてあの者の名が叛意に当たると思うのだ?」
問いに問いで返して嗤いながら、しかし、彼自身の言葉がファルカスの胸を刺した。彼は妻の心の裡など何ひとつ知らなかったし慮ろうとしなかった。ならば彼はシャスティエの夫としては失格だ。陰謀を巡らせ詭弁を弄するアンネミーケ王妃を憎む思いはあるが、付け込む隙を許したのは紛れもなく彼の咎だった。――ならば、今の窮地も甘んじて受けなければならないのか。
妻と――妻たちと、もっと話しておくべきだった、と思っても今さらどうにもならない。これからその機会を得るには、勝利を収めるには、これ以上の隙は決して見せてはならない。シャスティエの帰る場所を守るための、これもまた戦いだった。剣を抜いてひと息に叩き斬るという訳にはいかないのが歯がゆいところだが。
「復讐、と――祖国を滅ぼされたことへの復讐の誓いを名乗ったのですぞ!? 陛下の傍にありながら復讐の機を窺っていたということなのに……!」
使者はまだ完全に負けを認めてはいない。ファルカスによる
人質の女の美貌に溺れて、その本性を見抜くことができなかった、と。一面では真実であるから笑い飛ばす振りを保つのにも苦労する。剣や槍の刃や
――だが、見た目だけに溺れた訳ではないぞ……!
むしろ、外見だけしか知らなかった時は氷の像のようなつまらない女だと思ったものだ。幾度か言葉を交わしただけだった時も、可愛げのない強情さ狷介さには閉口した。理屈を振りかざすのも、碧い目が苛立つと煌くようなのも、唇を引き結ぶと顎に力が入るのが見て取れるのも。顔を合わせる度に、自ら立てた安全を保障するという誓いを破るのではないかと懸念するほどに目障りだった。
それが変わったのはいつからだったか――思いを辿れば、口にすべきことは自ずと分かる。
「貴公らはあの女が側妃になった経緯を覚えていよう。ミリアールトの乱を収めることの褒美として、あの女は側妃の地位を望んだのだ。俺の手中から逃れたのを幸いと、祖国の兵を鼓舞することもできたものを、復讐の機会を自ら逃したのだ。真冬のミリアールトでの戦いを免れさせたこと――イシュテンに益をもたらしたとさえ言えよう!」
言いながらひとりひとり、目を合わせるのは、あの時ミリアールトに従軍した者たちだ。酷寒の冬の厳しさを肌で知った者たちは、シャスティエによって命を救われたも同然であると分かっているだろう。戦いの勝敗以前に、戦わずに済んだこと自体が何よりの僥倖――そしてその幸運を招いたのはひとりの女の覚悟なのだ。
首を刎ねられるべく引き出されておきながら、気丈に微笑んで祖国の乱を言葉で収める機会を勝ち取った。死を賭して戦う覚悟を決めたイルレシュ伯らを前に、仇に従うように説得し従わせた。高すぎる矜持しか持ち合わせない短気な女と思っていた相手が、いつの間にか強かさも忍耐も身につけていた。そこに気付いてから、ファルカスはあの女に――苛立ちばかりでなく――興味を覚えるようになったのだ。
「ですが――あの方が、その――意味の、御名を選ばれたのはまさにそのミリアールトの後のことでございました! 目的を果たすために、一度は従って見せたということでは……!?」
臣下から声が上がったのを、ファルカスは悪い兆しとは捉えなかった。たとえその問いかけが真実を――シャスティエが密かに企んでいた復讐のことを、突いていたとしても。ブレンクラーレの使者の言葉に呑まれるだけでなく、自らの頭で考え始めたということだから。つまりは、ここで納得させることができれば、アンネミーケ王妃の謀など恐るるに足りない。
「まだ足りぬというならばマズルークのことも思い出してやるが良い。船で兵馬を運ぶ策は、イシュテンにはありえないものだった。女の身ゆえに伏せてはいたが、察している者もいよう。あの策を献じたのも、側妃であると! イルレシュ伯は何度となくイシュテンのために戦ってもいる。あの女がイシュテンにもたらしたことで、何か害があったことがあるか!?」
目の端でイルレシュ伯を窺えば、動揺から立ち直ったようで真っ直ぐに立ち、イシュテンの者たちの視線を受け止めているのが頼もしい。イルレシュ伯と共にマズルークの軍を退けたカーロイ・バラージュは語っていた。ミリアールトとも国境を接する敵国の将兵が、伯の掲げる紋章に恐れをなして列を乱したと。ミリアールトで築いた武名を、イシュテンのために惜しみなく使ったことは、広く知れ渡っているのだ。
ここまでの途上での働きも記憶に新しいのだろう、声を発した臣下の表情は僅かに和らぎ、疑いを薄れさせることに成功したようだった。その一方で、ブレンクラーレの使者は明らかに動揺し焦りを募らせていた。――ファルカスにとっては良い流れだ。
「だが、名の意味は真実だ! イルレシュ伯の反応こそ動かぬ証拠……たとえ言い逃れようとしても、こちらには辞書も学者も――」
「迂遠なことを言う。証拠というなら側妃本人を連れ出せば良いのだ。貴様はあの女に会っていないな? 美しさを聞き及んでいると、先ほど確かに言っていた。つまりはあの者に直接会ってはいないのだろう!」
「それが……何だと……」
「貴様の──女狐めの言い分が真実ならば、あの女は自らの口でそれを述べていたであろう。イシュテンやミリアールトでしたように、復讐とやらを叶えるために、ブレンクラーレでも弁舌の限りを尽くしてイシュテンへの戦意を煽り立てていたはずだ」
そうしなかったのならば──使者が述べるのは、決してシャスティエの本心などではないのだ。
彼の言外の声を確かに聞いたのだろう、先ほどまで不敵な笑みを纏っていた使者の頬が明らかに強張った。相手の論理に
「シュタインクリフの指揮官もそうだったが、ブレンクラーレの者たちがどうして自ら手の内を明かしてくれるのか不思議でならぬ。貴公らもそう思うであろう? あの女が、復讐などという大事を他人に任せるはずがない。乱の説得を買って出た時も、ミリアールトでのことも。いつぞやの宴では王妃の代わりに毒杯を受けたこともあったな。自らの言葉と気概で道を拓いてきた、あれの勇ましさを思い出せ!」
アンネミーケ王妃は、シャスティエを鷲の巣城の奥深くに隠しているらしい。身重の身体を大事にしてのことかもしれないが、生まれていない我が子への心配も尽きないが、それはブレンクラーレの臣下の前でシャスティエに口を開かせることができないということだ。自らの言葉で語る機会を得た時、あの女はいかに舌鋒鋭く自らの正義を唱え不正を糾弾することか。あの強情さに手を焼いているのは、今は女狐の方に違いない。
「ミリアールトの乱の鎮圧に赴いた者は直に見ただろう。戦場であの金の髪がいかに
馬のことに話が及ぶと、イシュテンの諸侯の間から確かにああ、と納得したような声が漏れた。自らの馬に乗ることを許すなど、相当に信用していなければできることではない。そしてあの女がその信を得たのは美貌によってではなく行動によるものだと――分かる者には、分かったのだ。それを確かめて、ファルカスはわずかに息を吐き出した。一抹の安堵によって。そして、ここでしくじってはならないと、覚悟を定める意味を込めて。そして息を整えると、再び声を張り上げる。ブレンクラーレの使者は無視したまま、あくまでも彼の臣下に語りかける。
「側妃の名は確かに復讐の意味を持つ。だがそれは夫たる俺とイシュテンと、そしてミリアールトを損なう者への復讐だ。恐らくはうるさく言う者もいるであろうがゆえに、声高に広めることはしなかったが。それゆえに貴公らに不安を与えたことは詫びよう。だが、側妃の為したことを思い返せば、謂れのない中傷だと分かるだろう! この上側妃に対して疑いを持つ者があれば、この場で名乗り出るが良い!」
側妃に復讐などと名乗らせたと知ったら、リカードが責め立てていただろう、と。ファルカスはこの場に居ない政敵についでに咎をなすりつけた。彼自身が、黒松館に頻繁に通ったことで臣下の不信を積み重ねた落ち度もある。これで全員を完全に納得させられたとは限らないが――言われてすぐに彼に詰め寄るほどの強い確信を持つ者は、とりあえずはいないだろうと思いたかった。
「確かに……」
「夫君の敵に対する復讐とは――」
「あの方ならば分からぬでもない、……か?」
「いや、しかし……」
事実、臣下の間から漏れる声は、対応に戸惑うような弱気なものばかり。それでも王の宣言に対して疑義を呈する者は現れなかった。ファルカスは、ひとまずは乗り切ることに成功したのだ。
――後は、女狐に敵意を押し付けてしまえ。
アンネミーケ王妃が遣わした使者は、主が思い描いた通りに事態が動いていない――もはや、動かすことができないことを悟ったらしく、表情を強張らせている。先ほどまでは頬に血が昇っていたのが、今や一転して青褪めさせているほど。
十分に時間を取って待ち、異を唱える者が現れないことを確かめた上で、ファルカスはやや強引に総括した。
「――であれば、この戦の大義は変わらない。イシュテンに不当に干渉し、王族同士を争わせ、王の子を宿した妃を攫った。しかもその非を嘘で取り繕おうとした。女狐めへの復讐を、側妃も望んでいることだろう……! 手始めに、このような言いがかりをもたらした者も相応の罰を受けるべきだと思うが」
改めて使者に目をひたと合わせて睨みつければ、相手の喉が唾を呑み込んで動くのがよく見えた。主のため、祖国のためなら命を惜しまぬ覚悟は見事だったが、策に失敗して先行きが見えない状況で死を賜るのはどのような気分がするものだろう。死という結果が同じならば、さほど気にすることでもないかもしれないが。
「このような――」
「貴様自身には罪がないのは承知しているが。主君の罪を負うのも使者の務めと心得るが良い。――シャルバールでの恨みがある者はいるか? この者では大した憂さ晴らしにはならぬだろうが、復讐の機会を与えてやろう」
イシュテンの王である以上、ファルカスが語りかけるのはやはりイシュテンの諸侯に対してだった。アンネミーケ王妃の使者と話すことはこれ以上ない。側妃の名の意味を明かされることで軍内に満ちてしまった不安を払拭するには、シャルバールでの遺恨を負って死んでもらうのが良いだろう。ブレンクラーレはイシュテンに対して卑劣な策を巡らせている、と――臣下たちに思い出させて戦いへの士気を高めさせるのだ。
「では、私が――」
「うむ。任せた」
ブレンクラーレの使者が引きずられていった後、ファルカスの前に進み出たのはイルレシュ伯だった。老いた身で遠征にも耐えた頑健さを持つはずが、一気に老け込んだように疲れた顔をしていた。
「陛下――」
「側妃が戻れば全て分かることだ。主への非礼に一瞬言葉を失ったとしても、咎めるつもりはない」
今の顛末に、言いたいことがあるであろうことは分かっていた。同時に、他の臣下の前では決してその用件を悟られてはならないことも。この場は何とか上手く収めることができたとしても、シャスティエは何も知らないのだ。自身がいない場で復讐の意味が捻じ曲げられたことも、婚家名に余計な意図が付け加えられたことも。助け出した後で口裏を合わせる機会が得られること、彼が咄嗟に描いた筋書きに同意してくれることを願うばかりだ。
「――は。まことにもったいないお気遣いと存じます」
今は何も言うな、という意図はどうやら伝わったらしく、イルレシュ伯は静かに目を伏せた。
――気遣いか……。果たして、あの者もそのように考えてくれるかどうか……。
クリャースタ・メーシェ。復讐の誓い。シャスティエが望んだ復讐は確かに彼に対するものだったと、ファルカスはイルレシュ伯から聞かされている。それを、よりにもよって彼の
臣下たちの手前、仕方がなかった、などと言って許されるのかどうか。はなはだ不安ではあるが――彼は戦うしかできないのだ。戦って、勝って。シャスティエと再会しないことには、詰られることさえできないのだから。
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