21.ひとつの決着

第1話 使者がもたらした秘密 ファルカス

 ブレンクラーレの使者を迎えるにあたって、陣内の馬や荷馬車を撤去させた一角が即席の謁見の間となった。最も大きい王の天幕でさえも、主だった将の全てを受け入れるには足りないから仕方ない。そもそも野戦にあっては軍議も空の下で行うのがイシュテンの倣い、今回が特別ということもない。


 ――人が集まり過ぎたか……? 女狐めの言い分を知りたい者は多いのだろうが……。


 王妃からの使者に対峙するならば、こちらもそれなりの名や地位を持った者を揃えるのは礼儀からも、威嚇、あるいは示威の面からも重要なこと。だが、イシュテンの体面を保つのに必要な面々以上に、物見高い兵たちまでもが人垣を作り始めているのを見て、ファルカスは密かに溜息を吐いた。


 使者が携えた王妃の言葉は、今の段階では予想もつかない。だが、この期に及んで降伏などとはあり得ないし、イシュテンが王妃への敵意によって士気を上げていることもあの女狐は承知しているはず。ならば、どのようにこちらの士気をくじくつもりなのか――何事かを仕掛けようということしか分からないだけに、必要以上に耳目を集めるのが果たして吉と出るか凶と出るか、判じることができないのが歯がゆかった。




「お目通りをお赦しいただき誠に光栄に存じます、陛下」

「女狐の言い訳も聞いてやろうと考えたまでのこと。つまらぬ話を聞かせたら舌を抜くくらいはしてやるからな、喜ぶのは早いと心得よ」


 ブレンクラーレ語の口上を通訳するのは、例によってイルレシュ伯だ。

 今回の遠征の途に就いて以来、この老臣の能力はイシュテンの諸侯にも評価され始めている。戦馬の神を奉じる民には本来馴染まない搦め手ではあったが、ブレンクラーレの民や将兵に自国の王妃への疑念を植え付ける策が思った以上に功を奏しているためだ。ミリアールトの出自の者が認められること、それ自体は歓迎すべき事態。だが、それによってイシュテンの者が異国に興味を持つ切っ掛けになるかも、と思うとファルカスとしては素直に喜ぶことはできなかった。側妃の婚家名――その意味を公にはどのように処理すべきか決めかねているからだ。


 ――それも、あの女を取り戻してから、だがな。


 今のシャスティエにとって、復讐とは何なのか。償いにしろ糾弾にしろ、彼に何を望むのか。今度こそあの女の本心を聞き出さねばなるまい。夫としてこれからも共にあることができるかどうかは、更にその先のことだ。


 ともかく――


「陛下は思い違いをなさっておられます。陛下がご存知でないことを――僭越ではございますが――お知らせするために、わたくしが遣わされたのでございます」


 通訳を介する以上、使者の言葉はファルカスの耳には意味をなさない音の響きに過ぎない。だが、言葉は通じずとも、使者の声の力強さははっきりと聞き取れる。屋根も壁もない野外で声を響かせるのは意外と気力と体力を必要とするもの。少なくとも、敵地で悪意ある視線に囲まれて委縮していてできることではない。内々に、ほぼふたりきりで呼び出したにもかかわらず虚勢を張るのに精いっぱいだったシュタインクリフの指揮官に比べると、この使者は大分手強いと見るべきだろう。


「イシュテンに乱を呼ぶべくティグリスに助力していた、と――当の本人から聞いたのだが。言い訳どころか知らぬ存ぜぬを通すとは図々しい。一度は結んだ者に見捨てられるとは、逆賊とはいえも哀れなものだ」


 まずはイシュテンの臣下の怒りを再燃させるべく、ファルカスはティグリスの名を出した。シャルバールの戦いに参加し、あるいはあの一戦で身内を喪った者は、例の策に関わったと思われる者に対して憎悪を隠さずにはいられまい。飢えた狼の牙に晒される思いを味わわせて、使者の余裕を崩そうという肚だった。


 事実、居並んだ者たちの間からは、呪詛のような怒りの声が漏れる。脅すように剣を鳴らす音も。ひやりとした殺気は冬の冴えた空気を一層凍らせ、見えない刃が辺りに張り巡らされたかのようにすら感じるほど。


「ティグリス王子がなぜそのようなことを述べられたのか、王妃陛下も大層不本意に、また不思議に思召しです」


 王妃の使者は、その剣呑な空気に気付かない振りで慇懃に頭を垂れるのだが。その態度で更に周囲が苛立つのを分かった上でやっているとしか思えないふてぶてしさに、ファルカスはまた次の手札を出さなければならなくなる。――あるいは出させられているのか。相手が彼の反応を計算しつくした上で挑発されているかのような、落ち着かない気分が拭えなかった。


「あくまでも証拠がないと言うか。――だが、鷲の巣城には今、他ならぬがいるのではないか? シュタインクリフの指揮官が、我が妃は女狐めの手中にいると、はっきり教えてくれたのだが」


 ティグリスの乱への関与については、ファルカスの持つ証拠はティグリスから聞いた言葉だけ。死人が証人になることはできない以上、この線で攻めても水掛け論にしかならない。だから、次は確かな証拠――攫われ、囚われている側妃に話が及ぶことはあまりにも明らかだ。シャスティエと胎の子を利用してミリアールトとイシュテンを支配しようとするならば、偽物などとうそぶくこともできまいに。追及されれば自らの不利になることは分かり切っているだろうに、アンネミーケ王妃は一体どのような理屈を捏ねるつもりなのだろう。


 相手の一挙手一投足を見逃すまいと目を凝らすファルカスを前に、使者はにこりと笑った。まるで、全てが筋書き通りに運んでいるのを心底喜んだかのように。


「ああ、陛下。まさにあの御方のことについてこそ、陛下は大変な誤解をなさっておられるのです! 確かにかの姫君を救い出したミリアールトの公子は、我が主を頼られました。ですが――恐らくは陛下が思われているように――無理矢理に攫われたということであれば、王妃陛下は姫君をご夫君のもとへお返ししていたことでしょう! 王妃陛下がそうはなさらなかったのは――」

「言葉に気をつけろ。貴様は我が妻を侮辱しようとしている……!」


 話の流れが不穏な方向へ向かうのを察して、そしてイルレシュ伯の通訳がやや遅れがちになったのを見て取って、ファルカスはわざと声を荒らげた。臣下たちに余計なことを聞かせたり気付かせたりしてはならない。王の勘気に目が向くようにしなければならない。


 ――女狐め、婚家名の意味を知ったか!?


 一段高く設けられた仮の玉座から立ち上がり、眼下の使者を睨みつける。だが、激昂している態を装いながら、ファルカスの心臓は不穏に高鳴り始めていた。使者は、鷲の巣城にはミリアールトの王族の生き残りもいると認めた。当然のようにミリアールト語を理解し、シャスティエを愛し、彼を憎んでいるであろう者が。そのような男が、シャスティエのイシュテンでの立場を慮る理由があるだろうか。女王の復讐の意図を尊重するならば秘しておくかもしれないが。だが、黒松館を襲った時点で、その男はシャスティエの意思を踏みにじっているのだ。


「大変にお美しい御方と聞き及んでおります。さぞやご寵愛も深いものとお察し申し上げます」


 使者はまたも頭を垂れるが、言葉は決して非礼を詫びることをしない。そして相変わらずの晴れやかで実のない笑顔で、何事かを語る――だが、その言葉がイシュテン語に翻訳されることは、なかった。ここまで滑らかに通訳を務めていたイルレシュ伯が、突然に口を閉ざしてしまったのだ。


「イルレシュ伯……? どうした?」


 伯爵の知識のほどは知っている。これまで難なく通訳をこなした実績もある。だから、単純に言葉の意味が分からなくて黙り込んだ、などということはあるまい。使者の言葉を伝えることができない理由が、あるとしたら。それは、この場で糾しても良いことなのか。だが、このまま沈黙を許すこともできるはずがない。


 ファルカスが一瞬対応に悩んだ時――イシュテン語の叫びが、高く響いた。ただしイルレシュ伯の声ではない。


「なぜ私の言葉を王に伝えてくださらない? 何か、都合の悪いことでもおありなのか!?」


 流暢なイシュテン語で老伯爵に問いかけるのは、ブレンクラーレの使者だった。勝ち誇るような笑みに、爛爛とぎらついて見開かれた目に、この状況こそが使者の――ひいてはアンネミーケ王妃の演出したものだと気付かされる。


「ならば私から直接にお伝えしよう。イシュテン王の妃として、ミリアールトの姫が名乗った名の意味を! あの方が秘めた本当の目的を!」

「貴様、イシュテン語を――」


 してやられた、と思った。マクシミリアン王子がイシュテンを訪れた際は、通訳を伴っていたのを思い出す。野蛮と見下されるイシュテンの言葉であっても、あるいは野蛮ゆえに他国の言葉を解する気がないのをよく承知しているからこそ、ブレンクラーレは隙なく修めさせているのだ。これもまた国力の差――だが、王の前で能力を偽る不実と非礼はまた別の話。通訳を介させることでこちらの反応を窺おうとするなど品性が卑しいにもほどがある。


 ――というか、使者の舌を止めるには、そこを責めて威圧するしかない。だが、ファルカスが剣に手を掛けるよりも、使者の声が響き渡る方が早かった。


「クリャースタ・メーシェとは、復讐を誓う、との意味だ! イシュテンが国を挙げて救い出そうとしているあの方は、貴公らへの報復を目論んでいるのだ!」


 使者が首を巡らして叫んだのは、イシュテンの諸侯に対して。先ほどまで異国の言葉を話していた者が意味を成す音を発したのに、理解が追いつかない者も多いようだが――だが、一度出た言葉をなかったことにすることなどできなかった。


 ざわめきが、広がっていく。ブレンクラーレへの敵意は揺らいで、戸惑いと疑念の呻きが口々に漏れ、探るような問いかけるような視線が交わされる。とはいえ、まだ使者の言葉を信じ切っている訳ではない。そこに、ファルカスは一縷の望みをかけた。


「鎮まれ! 証拠もない言葉に惑わされるな! 王の妃への謂れのない誹謗を許してはならぬ!」

「イルレシュ伯が黙されたのが何よりの証拠ではございませぬか、陛下!?」


 ファルカスの叱咤と、使者の詰問。どちらの言葉に重きを置くかに迷って、イシュテンの諸侯が首を左右させる。王と敵とを秤にかけている時点で、彼らはアンネミーケ王妃の手中に堕ちているかのようだった。


「ミリアールトの御方ならばお国の言葉は誰よりご存知のはず。言えぬ理由がないのでなければ、どうして通訳を止められた? 主たる方への疑いを晴らすためにも、あの方の御名の意味を明かされれば良いのではないか……!?」

「私は――」


 使者と、イシュテンの将兵と。その場の全員の視線に貫かれて、イルレシュ伯がさすがによろめいた。女王であるシャスティエを思えばこそ、この老臣が決して真実を口にすることができないのを、ファルカスはよく知っている。祖国と主を思えばこそ、老いた肉体を押してでも遠征に従い、遺恨を呑んででも仇の王に仕えているのだ。


「イルレシュ伯、言う必要はない」

「お分かりいただけましたか、陛下」


 イルレシュ伯を庇うように使者に立ちはだかったのは、だから、祖父のような歳の老人に加えられる心労を見かねてのことだ。だが、使者には――そして臣下たちの目にも――、彼が信じ、認めたように見えただろう。彼の妻についての、使者がもたらした秘密とやらを。


「王妃陛下は姫君の御心を汲んで庇護することを決意されたのです。無論、嫁がれた時に姫君が今日の事態を全て予想していたとまでは申しませぬが。陛下としても、御子まで儲けた御方を想われるのは当然のことと存じます」


 使者の口上は、もはや詩でも読み上げるかのようだった。美声を誇る詩人にでもなったつもりかと疑うほどに陶酔して、声を張り上げて抑揚をつけて。


「ですが、どうか真実に御目を向けてくださいますよう……! 王妃陛下は貴国の乱にも姫君の誘拐にも関わっておりません。そして姫君ご自身が救われることをお望みでないとしたら、此度の遠征にどのような大義がございましょう!?」

「黙れ……!」


 その声も、勝ち誇って笑みを刻んだ表情も、歌い上げる内容も、全てが気に障って仕方なかった。イシュテン側の動揺に紛れて、王妃の陰謀を言い逃れようという肚が見えるのも。アンネミーケ王妃は、女狐と呼ばれるだけのことはあった。言葉によって追い詰められても、また言葉によってこちらの士気を挫いて見せるとは。


「ご不快なことを申し上げたこの私を、お斬りになるのも良いでしょう。ですが、臣下の方々についてはどうなさいます? お心に適わぬ者をことごとく斬り捨てることなどできますまい? 繰り返しますが、王妃陛下はイシュテンに対して卑劣な行いなどしておりません。ですが、降りかかる火の粉を払うのはまた別のことでございます!」


 彼が思わず剣の柄に手を掛けたのを見て取って、使者の目に真摯さが宿る。命を賭してでも主のために務めを果たそうという気概を持って、この者は役目を買って出たのだろう。その覚悟は、イシュテンの諸侯にも更に動揺を呼び、疑いを強めさせたようだった。


「陛下……! この者の申すことが真実ならば――」

「我らは、欺かれていたということでは……!?」

「動じるなと言っている!」


 声を上げながら、ファルカスは軍が瓦解していく時のような弱気と怯えを、まざまざと感じ取っていた。数は少ないが、彼も負け戦というものを経験したことはあるのだ。軍が崩れる時には、兵の心がまず崩れるもの。数や地形の利があっても、心が負ければもう敵に立ち向かうことはできない。――心の問題だから、再び戦意を奮い立たせることができれば、また勝ち目はあるのだが。そしてそのように兵を鼓舞するのも、将の、王の務めなのだが。


 ――どうすれば良い? どう切り抜ける……!?


 イルレシュ伯の動揺は、確かに動かぬ証拠になってしまった。使者の言葉を嘘偽りと断じても臣下は信じないだろう。何より側妃の婚家名の意味が使者の述べた通りであることを、彼は既に知っている。この場で取り繕うことができたとしても、後になって真実が露見すれば更に側妃の立場は更に脅かされることになるだろう。


 ――ならば。


「側妃の名が復讐を意味する、と――それが何だというのだ?」


 虚勢に過ぎなかったが――ファルカスは、唇を吊り上げて嗤ってみせた。小手先の嘘を述べたところで益はない。ならば逆に認めてしまえ。そうすれば、復讐の誓いなど秘密でも弱みでもなくなるのだ。


「陛下。ですが――」


 彼の反問を、無駄な足掻きとでも思ったのだろうか。使者の笑みは崩れなかった。忌々しいその余裕を、刃ではなく言葉で叩き斬るべく、ファルカスはまず使者を指先ひとつで黙らせた。死の覚悟など、どれほどのものだ。彼は実際に幾度となく死線を潜り抜けて生き抜いてきたのだ。恐らくは文官であろう相手を、気迫だけで圧倒できなくて何とする。


「そのようなこと、俺はとうに知っている。知った上で、許したのだ。一体どのような了見で、我が妻の名を貶める……!?」

「は……?」


 ぽかんと口を開けた使者の顔は、大層間抜けなものだった。それを見て、ファルカスはやっと笑みを心からのものにすることができた。

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