第21話 裏切り ラヨシュ

 王女の姿を探してラヨシュは走る。あの方と花を眺めた花壇、石を投げて遊んだ池のほとり、密かに剣を教えた空き地。艶やかな黒髪や、青灰の目の煌きが見えはしないかと、しきりに首を上下左右に動かして。寒さに手足が上手く動いてくれなかったのも最初だけのこと、庭園を走り回るうちにすぐに身体は温まり、口からは白い息が漏れた。


 王女を見つけることができないでいる間に日は完全に昇り、薄暗いうちはさくさくと踏み砕いていた霜も解け崩れて足元を汚す。心当たりが減る度に、王女に何か不測の事態が起きたのでは、とラヨシュの鼓動は早まっていく。大声を出して呼び掛けたいが、アンドラーシの配下も、侯爵家から遣わされた者たちも、辺りにいるかもしれない。彼らに――どちらになのか、それとも両方になのか、彼自身も分からなかったけれど――見つかってはならない、と辛うじて口を結んで耐えていた。


 心当たりのほとんどが空振りに終わり、不安に心臓が張り裂けるのではないかと思い始めた時に辿り着いた――そこは、犬のアルニェクとよく遊んだ場所だった。木々が少し拓けた空き地になっていて、棒を投げたりしてやったものだ。ラヨシュが密かに抱える罪悪感ゆえに、後回しにしてしまった場所――でも、王女が慣れ親しんだ場所で、周囲の建物からはほどよく離れた死角になっていた。だからここなら、という一抹の期待も確かにあった。


 そして、果たして。空き地をぐるりと見渡した時に、視界の端に動くものを見つけて、ラヨシュは声を上げた。この間に頭に思い描いていた通りの黒い髪の房が、風に揺れて木の陰から覗き見えたのだ。


「王女様!」

「ラヨシュ……」


 辛うじて声量を落とすことは忘れず、けれどほとんど叫ぶように呼び掛けると、応えはいつもの溌溂さとは程遠い、弱々しい声だった。よろめくようにラヨシュの方へ駆けよる王女は、しっかりと毛皮に包まれている。白銀に輝く外套は、多分白貂のもの。そして首回りを守る狐の襟巻は、王が自ら愛娘のために狩ったものだとか。そこまで万全の防寒具に身を固めていても、ラヨシュに飛びついてきた王女の頬は冷え切っていた。もちろん、高貴な姫君の肌にわざと触れようなどとは思わない。それでも、ようやく寄る辺を見つけた安堵によってか、王女がしきりに彼の胸に頭を擦りつけるので、冷えた頬の気配を首筋辺りに感じてしまうのだ。


 幼いとはいえ、王女が使用人と気安く触れ合って良いはずがない。だからそっと離れていただこうとするのだが、肩に触れてみれば王女が震えていることが分かる。しかも、それは恐らくは寒さのためだけではない。暗い中にひとりで放り出された不安と恐怖が察せられて、ラヨシュは後ろめたさを感じつつも王女の背を撫でて宥めようとした。


「お母様が、隠れていなさいって……。でも、知らない人が沢山来ているみたいだし、何があったの……お母様は!?」


 何よりもまず母君のことを案じる王女は、やはり優しく強い方だった。同時に、言いつけ通りに隠れていてくれたことは僥倖でもある、と思う。王妃を守るために剣を習うと言い出したこの方のこと、王女を探しに庭園をうろついていた者たちに、飛び掛かっていてもおかしくはなかったのだ。


 ――いや、それなら王妃様と王女様は侯爵邸に戻れたはず……。


 自分の考えを、慌てて自ら否定する。自分が何を望み何を恐れているのか、彼自身にもまた分からなくなってしまう。


「もう大丈夫です。すぐに、安全な場所へお連れいたしますから」


 王女の頬を汚し始めた涙を拭いながら、ラヨシュは心中の混乱は置いて懸命に言葉を紡いだ。安全な場所、というのがどこのことか、まだ彼自身にも分かっていなかったけれど。


 ――あの男のもとにお連れすれば良いのか……侯爵様の手の者が、まだ捕まっていないということもあるのか……?


 王女に手を差し出すと、ぎゅっと握り返された。遊び相手として気に入られていたと言っても、このように触れ合ったことなどなかったのに。どれほど不安だったのかと思うと早く母君のもとに帰って安心していただきたいと思う。でも、ラヨシュは既に王女と約束しているのだ。祖父君と会わせて差し上げる、と。


 今の王女は、母君の無事を確かめることを何よりも望んでいるのだろう。だが、それを叶えれば祖父君を訪ねることは非常に難しくなる。アンドラーシやバラージュ家の者たちが、王妃と王女を逃がすはずがないのだから。


 ――侯爵様の手の者に会えないか……それとも、王女様をお連れして王宮を出ることは、できるか……?


 ラヨシュの心臓を冷たい迷いが鷲掴み、王女を探していた時とは違う理由で鼓動が暴れ出していた。彼に事態を動かすことができるとしたら、今、この瞬間しかない。手袋に包まれた掌に汗が滲み、王女の手が滑り落ちそうになるのを握り直す。


 王女と王妃のことだけでなく、彼自身にも関わることだ。もしも王妃のもとに帰れば、彼は母と二度と会えなくなるかもしれない。先ほどの戦闘で、女の悲鳴は王妃のものしか聞こえなかった、と思う。ならば母は侯爵邸で王妃たちを待っているのだろうか。主たちを迎える期待と喜びが裏切られた時、母は息子にも裏切られたと知るのだろうか。母を失望させることは、彼には何より辛いことだ。


 ――違う! 何より大事なのは王妃様と王女様にお仕えすること……!


 そう、だから彼は迷わず王妃の願いに従うべきなのだ。いや、でも母は王妃自身よりも王妃のためになることが分かっていると言っていた。ならば母が望むであろうことを汲むべきなのか。でも――


「ラヨシュ……? どうしたの……?」


 王女の消え入るような声に、ラヨシュはすっかり足を止めてしまったことに気付いた。彼を不安げに見上げる青灰の目に、彼が怖がらせてしまったのを知って、胸が痛む。


「大丈夫です。ご心配には及びませんから」

「うん……」


 多分、彼の笑顔は引き攣ってしまっただろうが。王女はそれでも微笑み返してくれた。その笑顔に励まされて、ラヨシュはやっと足を前に踏み出した。




「ああ、マリカ……!」

「お母様!」


 王妃の姿を見るなり、王女はラヨシュの手を振りほどいて駆け出した。娘の身を案じていたのだろう、寒い中で屋外で待っていた母に、王女はラヨシュに対してとは比べものにならない強さ激しさで抱きついた。


「ごめんなさい、怖い思いをさせて……! もう、大丈夫だから……」

「お母様ぁ」


 緊張の糸が切れたのか、堰を切ったように泣き始める王女を、王妃は優しく抱きしめる。母君の目にも涙が浮かんでいるようで――だから、ラヨシュの選択は正しかったのだろう、と思う。否、思いたかった。侯爵家に行けば王女も母君に会えなくなってしまうと考えたことは、間違いではなかったはずだ。


「良くやった。飛び出した時はどうなるかと思ったが……」


 抱き合う母娘を呆然と眺めるラヨシュの頭に、軽い感触が置かれた。アンドラーシに頭を撫でられた、と気づいても、子供扱いに憤るどころではなかったし、褒められたと分かっても喜ぶことはできなかった。


「いえ……」


 彼は賞賛に足るようなことなどしていない、と思えてならなかった。王妃に対して忠節を尽くしたとしても、彼は同時に侯爵家を――それに母を、裏切ってしまっている。更に、彼は王妃の信頼に完全に応えたとは言い難い。ここに戻るまでの道中も、侯爵家の手勢と行き会わないかと期待していた。王妃の策が潰えることを願ってしまっていた。こんな半端者、むしろ誰かに思い切り詰って欲しいのに。


「何だ、緊張が緩んだか」


 アンドラーシの声が、笑っている。ラヨシュの頬を涙が伝っているからだ。夜中からの緊張の糸が切れたのだと、都合よく解釈しているのだろう。あからさまに揶揄うことがないのは、この男にしては気を遣っているのだろうか。


「……っ、く……っ」


 恥じ入る思いも強いけれど、溢れる涙を堪えることはできなかった。


 王女の無事が嬉しいのか、王妃の使いを果たせたことが誇らしいのか。これからの身の振り方が分からなくて怖いのか、侯爵家を恐らく裏切ったことになって悔いているのか。──母と会えなくなったことが悲しいのか。その感情のどれが一番強いのか、どれも間違っているのか、彼には何も分からない。


 ただ、泣きたくて仕方なかった。

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