第22話 牙を剥く悪意 シャスティエ
アンネミーケ王妃とレフが去った後、シャスティエは直ちに王太子妃を招く使いを出した。囚われの身の分際で図々しいと思われるのは間違いないが、かつて夫妻で訪ねてきた時に、王太子がいつでも気晴らしに呼んで欲しいと言っていたのだ。その時は、実行に移すのはあまりに不躾だし、正直に言って敢えて会いたい相手でもないと思っていたのだが。今となっては
彼女に採ることができる手段がごく限られているのを度外視しても、見込みのあることでは全くないのも承知の上だ。少し前までならば、マクシミリアン王子は喜んでシャスティエを訪ねてきたかもしれない。でも、今はイシュテンとの対戦に向けて一層多忙になっているだろうし、アンネミーケ王妃もシャスティエの動向を警戒しているだろう。まして相手がギーゼラ妃となると。あの方がシャスティエのことを嫌っているのは――理由はよく分からないけれど――明白、彼女からの呼び出しに応えてくれるとは期待しづらかった。
けれど――
「王太子妃殿下のお出ましです」
彼女の招待が届く前に動いたのではないかと疑うほど早く、ギーゼラ妃はシャスティエを訪ねて来た。
「まあ……わざわざお越しいただいて、光栄ですわ」
やや慌てながらも礼を取るべく腰を落としたシャスティエの目線の先を、ギーゼラ妃は目敏く見咎めたようだった。
「今日はアマーリエは連れてきていないのよ。残念ね」
「いえ……私は妃殿下にお会いしたかったのですもの」
「本当にそうなのかしら?」
「……はい」
ギーゼラ妃の意地悪げな微笑みに鼻白んで、シャスティエは一瞬言葉を失い、同時に非礼に恥じ入った。自分から招いておきながら、当のその方ではなく付き従う侍女の中に目当ての者がいると見透かされてしまうなど、あってはならないことだった。たとえ追い詰められた状況だとはいえ、だからこそ、相手の機嫌を損ねてはならないはずなのに。
――あの女に会いたかったのは確かに事実……でも、こうして来てくださったからには、王太子妃殿下も私を利用したいと思っているはずよ……。
ライムント伯爵夫人を名乗った女が今日は王太子妃に従っていないのは、シャスティエを利用して王妃を追い落とす策を諦めたのかもしれない。復讐を誓う――クリャースタ・メーシェの婚家名が暴かれた今となっては、イシュテンとの戦いは避けられないことだから、と。
だが、シャスティエはまだ間に合うと信じたかった。少なくとも彼女は一度、命を懸けて乱に臨んだ者たちを止めたことがある。あの時彼女の説得に応じてくれたのはミリアールトの臣下たちで、名ばかりとはいえ女王である彼女の意思を尊重してくれたという事実は大きいけれど。今シャスティエが
それでも、王太子妃に対しては切り札がないこともないはずだった。王太子妃に席を勧め、茶菓を供するか否かのうちに、シャスティエは慌ただしく口を開いた。
「……王太子妃殿下の御心は、とても僭越な物言いとは承知しておりますが、お察し申し上げることができると思います。我が子と離れる辛さは、私も身を持って存じておりますから……!」
王太子妃は、アマーリエのついでで呼ばれたと捉えて気分を害しているかもしれない。この場に来たことさえ、シャスティエが消沈しているところを眺めようという
「妃殿下と王子殿下を分かつのは、何よりも王妃陛下であると理解しております。先だってあの女を連れて来てくださったのも、あの者が王妃陛下の……あの、御力を削ごうとしているから」
その証拠に、王妃への反逆としか見えないアマーリエの言葉を、ギーゼラ妃は咎めることもなく聞き捨てていた。そもそもあの女も、ギーゼラ妃に乞うてシャスティエとの面会を実現させたと言っていた。つまりはこの方も、我が子のために行動を起こそうとしていたということになる。
ギーゼラ妃は、仮面のような微笑みを保ってシャスティエの口上を聞いている。その笑みの意味を計りかねながら、シャスティエは必死に舌を動かした。
「ですから、あの者と謀っていた通りに、どうか私を夫のもとへ返してくださいませ。王妃陛下が次にどのような策をとるおつもりか、存じてはおりますけれど。でも――私は、夫を信じております。ふたりの子を
本当は、このように余裕なく乞うのではなく、もっと対等な取引にしたかった。彼女自身のことはともかく、赤子のジョフィアと胎の子が安全に父のもとに帰れるように。今となっては腰を低くして懇願しなければならないのが不本意で――そして、不安だった。ギーゼラ妃はあくまでも微笑んだまま言葉を発さず、シャスティエを焦らすように沈黙を守っている。
「王太子妃殿下……どうか……殿下にとっても、危険のあることとは承知しておりますが……」
――まさか、これは罠だとか? 王妃陛下の御意思で、私の本心を聞き出そうとしているとか……?
ギーゼラ妃の沈黙に、埒もない不安が過ぎる。アンネミーケ王妃もシャスティエがこの境遇を喜んでいないことなど分かっているであろう以上、そのようなことはあり得ないと、分かり切っているはずなのに。
「あの……」
「大丈夫よ。仰っていることは分かりますから。――私も、貴女を助けて差し上げに来たのです」
沈黙に耐え切れなくなって、シャスティエが椅子から腰を上げて跪こうとした、ちょうどその瞬間――ギーゼラ妃が優しくその動作を制した。
「ご夫君のことなら大丈夫。アマーリエたちが、お義母様を止めているから。もう少しは時間を稼げるはずよ。だから、逃げるなら今のうちに。すぐに発った方が良いわ」
ギーゼラ妃はそっと手を伸ばして、シャスティエの手を取りさえした。先日は口論めいた顛末になったというのを忘れたかのような仕草に、思わず手を引こうとして、でも、しっかりと握りしめられてしまう。
「すぐに……? ですが……」
「ええ。急がないといつお義母様の使者が発ってしまうか分からないから。あの赤ちゃんも一緒に、早く……!」
急がなければいけないのは、分かる。王太子妃が待ち構えていたかのように訪ねて来たのも、一刻の猶予もない状況ということなら当然なのかもしれない。でも、シャスティエの手を握るギーゼラ妃の指先の強さは、まるで逃がさないとでも言っているかのようで、すぐに頷くことはできなかった。
「本当に? 私はともかく、ジョフィアは――」
「服もご飯も用意させたから! 大丈夫よ!」
叱りつけるような剣幕でシャスティエを怒鳴りつけると同時に、ギーゼラ妃は伴ってきた者たちに目配せをした。するとその視線を受けて、幾人かがジョフィアが眠る部屋の方へと進む。そして残りの者たちは、シャスティエを取り囲んで人の檻を作り出す。
「待って! あの子は寝ているのよ!? 妃殿下、どうしてこんなに急に……!?」
「大丈夫と言ったでしょう。ほら、抱いてあげて。泣き声で知られてしまうかもしれないから」
ギーゼラ妃に抗議の声を上げるシャスティエに、四方から手が伸びて毛皮の外套が着せられ、更に寝ていたところを動かされてぐずるジョフィアが押し付けられた。夫のもとに帰してくれるというのは願ってもないことだけど――これでは、あまりに拙速すぎる。
――着の身着のままで追い出そうというなんて……!
不審と非難を込めた視線さえも顧みられることはなかった。ジョフィアを抱きしめれば、毛皮の暖かさ滑らかさ柔らかさに安心したのかすぐにぐずるのを止めてはくれたけど。この子を――この子たちを守り切れるのかどうか、不安ばかりが募っていく。
「馬車を用意してあるの。王太子妃の紋章があれば城壁を出ることも簡単だから。――イシュテン軍は、もうすぐそこまで来ているそうよ」
ギーゼラ妃の微笑みは、もはや仮面のような冷たく硬いものではなかった。心底嬉しそうで、声も弾んで。でも、それがこの状況には不似合いで、嫌な予感をいや増させる。
それでも赤子を抱えて周囲を人に囲まれては逆らうことはできなかった。声を上げれば、アンネミーケ王妃にも逃亡未遂が知られてしまうかもしれないし。
――でも、本当に逃げられるの……!?
屋外に出ると、果たして豪奢な馬車が用意されていた。窓は厚手の布で塞がれて、乗客の姿が外から窺えないようになっている。――つまりは、中の者も行き先を知ることができないということだが。
この状況への疑問は尽きないまま、シャスティエはジョフィアと共に半ば強引に馬車に押し込まれてしまった。そして扉が閉められるという段になって、ギーゼラ妃は周囲の者たちに命じた。
「お見送りをしたいから、少し離れていてちょうだい」
馬車の扉を塞ぐような位置に陣取ったギーゼラ妃は、薄暗い車内から見ると逆光でどこか歪んだ表情に見えた。口元は相変わらず笑っているのに、おかしなことのはずなのだが。
そんな、奇妙な微笑みのまま、ギーゼラ妃はぐいとシャスティエに顔を近づけ、囁く。
「アマーリエが頑張っているなんて、嘘。あの人はもう諦めているわ。それにお義母様の使者はもうとっくに出発している」
「なっ……」
シャスティエは声を上げようとして――でも、ギーゼラ妃に肩を突かれてまた馬車の席に押し戻された。乱暴な動作につれて、高貴なはずの女性の声も高まって。
「イシュテン軍がちょうど怒りに
怒鳴ると同時に、ギーゼラ妃は素早く後ずさると叩きつけるように馬車の扉を閉めた。すぐに鍵が掛けられる音、それにギーゼラ妃の命令が続く。
「馬に鞭を! 早く行って!」
命令に従って鞭が空気を鳴らし、ほぼ同時に車輪が動いて車体を揺らす。
「待って! 止めて!」
シャスティエの叫びも、窓や壁を叩く音も、もはや誰の耳に届くこともなかった。
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