第20話 急行 ラヨシュ

 坂を駆け降りる馬体が、溝でも避けたのか大きく跳ねた。馬を御すアンドラーシにしがみつくラヨシュには内臓が下に引きずり出される感覚が伝わる。ついで全身を襲う衝撃に、歯を固く食いしばる。舌を噛む恐れがあるのと、それに何より意気地なしなどと思われたくないから、悲鳴を上げるなど思いもよらない。

 冬の夜風が頬に突き刺さり、絶え間ない揺れによる疲れと相まって手足の感覚を奪っていく。だが、泣き言は言うな、落ちても助けないとあらかじめ言われている以上、彼には黙って耐えるしかできない。ただでさえ余計な荷物なのだ。少しでも邪魔にならないように努めなければならない。こうしてアンドラーシに同乗するのを許されたことさえ破格の厚意なのだから。




 フェリツィア王女への贈り物を携えてバラージュ家を訪ねた使者たちは、アンドラーシの指図によって監禁された。しかし、ラヨシュは彼らと同じ場所に閉じ込められはしなかった。子供だからと手心を加えてくれたのだとしたら、素直に喜べることではなかったけれど。でも、とにかくもそのお陰でアンドラーシが出発する前に直談判する機会を得ることはできたのだ。


 側妃に仕えていたのを見たことがある、金茶の髪の女に連れられて屋敷の奥へと案内されようとしていた時、慌ただしく彼の横を過ぎ去ろうとしたアンドラーシの姿を見て、彼は思わず飛び出していた。


『王宮に行かれるのでしょう。私も連れて行ってください!』


 ミリアールトの女が、あ、と慌てた声を上げて彼の肩に手を添えた。逃げようとしているとでも心配したのだろうか。王宮からもティゼンハロム侯爵領からも離れたこの地で、ひとり逃げたとしても何にもならないと、分からないとでも思われたのなら心外だ。第一、女の細腕ならともかく、アンドラーシがやすやすと彼を逃がしたりしないだろう。


 だから、彼はあくまでも乞い、交渉するつもりだった。急いでいたであろうところを邪魔されて、アンドラーシは露骨に顔を顰めて彼を見下ろしていたけれど。答えも不機嫌な吐き捨てるようなもので、取り付く島もないのではと恐れさせたけれど。


『お前に何ができる。大体、使いを任されたのは、お前を危険に巻き込みたくなかったからだろう。王妃様のお心遣いを無駄にするな』

『ですが……!』


 王妃のことを引き合いに出されるのも辛いことだった。相手の指摘も、恐らくは事実だろうと思えるだけに。しかも、王妃の心遣いと分かった上で、彼はそれに感謝することができなかったのだ。


 ――王妃様はこの男に助けを求めた……侯爵様から守って欲しいと訴えたなんて……!


 母と王妃が話して、口論のようになっていたのは察していた。母はその時に、侯爵が王妃たちをつもりだと漏らしたのかもしれない。母は王妃のために良かれと思って言ったはずだ。側妃に心を傾ける王よりも、侯爵の方が王妃たちを――血を分けた娘と孫を、真摯に案じているのだから。

 だが、王妃はそうは思わなかったらしい。それどころか、侯爵と母の動きを彼らのに報せさえしていた。そのことが、ラヨシュの頭を揺さぶり、足元も覚束ないようなふわふわとした心地にさせるのだ。


 ――母様が、これを知ったら?


 母は、常々忠誠の見返りを求めてはならないと言っていた。主の幸せを願うのはしもべとして当然のこと、恩着せがましく感謝を求めてはならないのだ、と。だが、それは僕の行いによって主が笑っていてくれるからこそ、その笑顔を見返りにして一層励むことができるということではないのだろうか。

 王妃のためにこそ、母は幼い息子を置いて王宮に務めていたのだろうに。夫である王よりも、あの方のことを案じていたのに。――でも、そう思って母を哀れむことさえも、傲慢になってしまうのだろうか。

 何ものにも優先して王妃に仕えろ、という母の命を守って、彼は誰にも言わずに託された手紙を届けた。そこに何が記されているか、想像もしないで。母にひと言でも相談していたら、こんな事態にはならなかっただろうか。それとも、母は彼の不心得を叱っただろうか。ちゃんと母の命にも王妃の命にも従ったというのに、どうしてこのように不安で居たたまれない気持ちになるのだろう。まるで、大恩ある侯爵家を裏切ってしまったかのような。


 侯爵家と王妃と王女は、それぞれ同じもののように考えていたけれど、それが間違っていたのだろうか。ならば彼は、これから何を信じ、誰に仕えれば良いのだろう。


 混乱した頭ではまともな答えを出すことはできなかった。ただ、脳裏に小さな影が浮かぶ。彼が悲しませてしまった方、だからこそ身命を賭すと決めたその方のために、ラヨシュは必死に舌を動かした。


『王女様は、お庭で遊ばれているかも……! 小さいお身体で茂みにでも紛れていらっしゃったら、簡単には見つからないのでは!? 私なら、どこにいらっしゃるか見当がつきます!』


 マリカ王女は、今頃は王宮の庭園で彼をひとり待っているはずだった。おじい様のところへ連れて行って差し上げる、と約束したから。母に言ってその手はずは整えていたし、ラヨシュとしても使いの役目を果たしたらすぐに王女に会えるものだと思っていた。急にアンドラーシが兵を率いて現れたら、あの方はきっと怯えて隠れてしまうだろう。


 王女のお転婆は、臣下の間でも知られているのだろう。広大な庭園から少女ひとりを探し出す手間を想像してか顔を顰めたアンドラーシに、ラヨシュは畳みかけるように訴えた


『それに……それに、使用人が使う通路や出入り口も、私はよく知っています。裏手も見張るとか、そちらからも回り込むとか――そういうことも、大事なのではないでしょうか……』


 ならばそれらの通路について教えろ、と言われれば彼にはもうなす術はなかった。偽りを述べたとしても恐らくは大した時間稼ぎにならないだろうし、そもそもアンドラーシの邪魔をすることが彼の望みなのかどうかも分からない。王妃のため、母のため、侯爵家のため――王女のため。何のために着いて行こうとしているのかさえ、分からなかった。ただ、行かなければ、と駆り立てられるように思っただけだ。


『……ならば邪魔にならないようにしろ』


 ラヨシュの思いが伝わった、などということはないのだろうが。アンドラーシは眉を顰めたまま軽く息を吐いた。


『俺の馬に乗せてやるからせいぜい必死に掴まっていろ。――何か、凍えないように毛皮でも用意してもらえるか』

『あ……はい……!』


 アンドラーシの言葉の後半は、ミリアールトの侍女へと向けたものだった。金茶の髪を揺らして女が頷く間に、アンドラーシはまた足早にどこかへと去って行った。

 それ以上に詳しい説明はなかったから、ラヨシュが同行を許されたと理解するのに、数秒を要してしまった。




 月と星の明かりのもと、馬が駆ける。バラージュ家がすぐに動かせるという二百の兵の中でも精鋭の一団だという。夜の闇の中でも全力で駆けることができる馬と乗り手。残りは、より念入りに装備を整えて追いかける手はずらしい。王妃と王女を乗せるための馬車が用意されているのも、彼は出発の前に目にしていた。


 軽い革の鎧を着せられた上に狐の毛皮の外套で包まれて、手袋まで与えられたから、身体では寒さはほとんど感じない。けれどラヨシュの心臓は冷たい不安に凍るようだ。

 風の早さで王宮に着いたとして、何が待っているのだろう。侯爵家の手勢が、まだ辿り着いていなければ良い。あるいは王妃たちを――どうしてこんな表現をしてしまうのか分からないけど――攫った、後ならば。それなら、王女の前で恐ろしい争いが起きることはないだろうし、それに、彼も何をすべきか迷うこともない――はずだ。




 何かに祈るような思いで馬上で揺さぶられるうちに、空が白み始めた。一行が王都に辿り着いたのもその時刻だった。行きは馬車でのんびりと来た道を、驚くほどの速さで帰ったことになる。もちろん王都の城門はまだ閉ざされているが、王から授かった委任状を示してアンドラーシが開門させる。門番の眠たげな顔をちらりと見て、それでもラヨシュの胸の鼓動は収まらない。


 ――何事も起きていない……? それとも、侯爵様は昨日のうちに手勢を潜ませていた……?


 王宮の門でも先ほどと同様のやり取りが行われる。日も上り切らない早朝に、武装し殺気だった一団はいかにも怪しいだろう。それでも、そもそも王妃の護衛を言い付かっていたアンドラーシが相手とあって、結局は入城を許された。


 王宮の奥、妃たちが住まう一角は、もうラヨシュも見慣れた景色が広がる。ただ、夜明け間近の薄闇の中では、建物も木々も常とは違う余所余所しさを纏っていた。あるいは、ラヨシュの目の方が緊張に曇っているのか。


「騒がしいな……」


 剣の柄に手を掛けながら足早に進むアンドラーシの呟きが、ラヨシュの胸に刺さった。確かに、厨房など一部の使用人だけがこっそりと起き出しているだけのはずの時間の割に、どこか空気がざわついている。複数の人間が、息を潜めて建物の間や木陰を行き来する気配が戦の経験のないラヨシュの肌さえもくすぐるのだ。


「裏口とやらはどこにある? そちらも警戒せねばならぬな」

「あ、はい……」


 ここで初めて存在を思い出したかのように声を掛けられて、ラヨシュは小さく飛び跳ねた。嘘偽りを教える、などという余裕はもはや存在しない。見たこともないほど張り詰めた――抜身の刃のように鋭い目に、つかえながら使用人が使う主だった通路を挙げるだけだ。


 ――もう、侯爵様の遣わした人たちがいる……? 王妃様たちは……?


 既に王妃たちが侯爵邸に連れられているのだとしたら、諍いが起きるようなことはないだろうか。王妃の手紙を思うと、単純に安心して良いのか分からない。それに、その場合は、彼の境遇はどうなるのだろう。

 アンドラーシに命じられた数名ずつが一行を離れて、ラヨシュの告げた方向へと夜明けの薄闇の中へと消えて行った。共に行動する人間が減るのは、身を守る鎧が薄くなったような不安を覚えさせる。アンドラーシの配下など、彼が頼るべき者かどうかも分からないのに。


 王妃たちの起居する建物に近づくにつれて、ラヨシュの緊張は高まり、胸に渦巻く不安で吐き気を堪えるのに必死になるほど。一歩一歩が――ひと晩中馬に揺られ続けた疲れを別にしても――重い。王妃がまだいるのかどうか、この不穏な空気をあの方が、王女が察しているのかどうか。知りたくないけれど、知らなければならない。そしてその瞬間が、一秒ごとに近づいているのだ。


 誰もが口を結んで、狩りをする肉食の獣のように気配を足音を極力殺していた。その、痛いほどの沈黙を破ったのは、女性の高い声だった。


「マリカがいないのなら、私は決して行きません!」


 聞き誤るはずもない王妃の声は、明らかに怯えと緊張を孕んでいた。更に続けて、宥めるような調子の男の声が、言葉ははっきりとは分からないが聞こえてくる。


 ――王妃様……!


「鉢合わせたか。――踏み込むぞ。王妃の御前だし証人にもなる、なるべく殺さず取り押さえろ」


 アンドラーシを見上げれば、ラヨシュには一瞥もくれずに配下の者たちに呼びかけている。無言のうちに頷く男たちは、既に戦場で共に戦った経験もあるのだろうか、言葉を尽くさずとも意思を伝えあっているようだった。


「あ、あの……私、は……?」


 そんな中で声を発することは、ひどく勇気のいることだった。ラヨシュなど必要とされていない、お荷物だと分かっているからなおのこと。ただ、情けなくなるほど掠れた声も、何とか剣や鎧が擦れ合う音に掻き消されずに済んだようだった。


「下手に手を出される方が危うい。外で大人しくしていろ」


 そうして与えられた命は、決して喜べるものではなかったけれど。でも、恐らく最も的確な指示だったのだろう。




 冬の早朝の切りつけるような寒さの中、ラヨシュは、待った。屋内から聞こえる悲鳴に王妃のものが混ざっていないか、耳に神経を集中しながら。肌に感じる寒さよりも、肉と鉄がぶつかり合う――人が殴り合い斬り合って争う物音に恐怖を感じながら。

 幾らか訓練を積んだところで、実戦の、命を奪う経験のなさはどうしようもないのだ。貴族の子弟ならば、幼い頃から狩りに親しんで命のやり取りにも慣れるのだろうが。


 ――私に……何ができるのだろう……。


 必死に食い下がって同行を許されたからといって、待つことしかできないなら意味がなかったのではないか。ただ、気を紛らわせたかったというだけで、邪魔になってしまったのではないだろうか。それならば、彼の行動は何だったのだろう。全て無駄、だったとしたら。


 言いようのない不安に身体の芯から凍える思いをして、俯いて待った時間は、それでも多分そう長いものではなかっただろう。ラヨシュはふと、自身に近づく足音に気付いて顔を上げた。


「余計なことをしないで、よく待っていたな」


 同時に鼻をくすぐる、鉄錆のような臭い――それが、血臭だと認識するのに一瞬掛かってしまった。彼を迎えに――というか、逃げていないか確かめに、なのか――現われたアンドラーシは、装備を汚す赤黒い色と纏う血の臭いとは裏腹に、晴れやかに笑っていた。それで上首尾に終わったのだと分かって、ラヨシュはまたどう思えば良いか分からなくなる。これで侯爵の手勢は取り押さえられて、王妃たちはバラージュ家にされることになるのだ。


「王妃様もお前の働きを褒めてくださるだろう。中へ、来るが良い」

「はい……いえ!」


 初めて間近に感じた戦いの気配に気圧され、大人しく頷きそうになって――ラヨシュは慌てて声を上げた。


「王女様は? 王妃様のお声が、いらっしゃらないと……!」


 足を一歩踏み出してアンドラーシに詰め寄ると、血の臭いが一層濃く鼻を刺激した。だが、構ってはいられない。褒められるべきことをしたとは思えていないのに王妃の前に上がるのも躊躇われるが、何よりもまず、王女の安否を確かめたかった。


 ラヨシュの剣幕には頓着せず、相手は軽くああ、と呟いた。肩を竦める仕草も貴い姫君を軽んじているようで、久しぶりに激しい怒りでもって睨め上げてしまう。


「……夜明け前の闇に紛れて迎えに来るとリカードから連絡があったとか。それで、我らが間に合わなかった時のために時間を稼ごうと、王女様を庭にお出ししていたそうだ。賊が近づいているから隠れているように、と」


 言葉を紡ぐうち、彼の目つきにアンドラーシも無礼な物言いに気付いたらしい。口元を苦笑に緩めると、これで良いか、と言わんばかりに言葉遣いをやや丁寧なものに改めた。それでもラヨシュが大きく目を見開いたのを、咎められたとでも思ったのだろうか。宥めるように、背を曲げて目線を彼に合わせて言い行かせてくる。


「リカードがこちらの動きに気付くにはまだ時間が掛かるだろう。これから皆で手分けして探して――」

「いえ、王女様は決して出てこないと思います。知らない者に呼ばれて、あの方がみすみす姿を現すはずがない」


 首を振りながら思うのは、一体いつから、ということ。それに、王宮の奥に入った時から感じていた空気のざわめき。ティゼンハロム侯爵の手の者たちも、きっと王女を探して庭をうろついていたのだろう。たとえ慕っている祖父君の使いだとしても、マリカ王女にはそれが分からない。母君の言いつけを守って、同時に母君を案じつつ、闇の中でうずくまっていたに違いないのだ。あの幼く小さな方が!


 ――マリカ様……どれだけ不安でいらっしゃるか……!


「私がお探しします。このために、私は来たのですから……!」


 アンドラーシに直訴した時は、このように痛ましい事態を想像していた訳ではない。つい先ほどまで、この場にいることを何かとんでもない間違いのように感じていたくらいだ。でも、今こそ分かった。王女を無事に見つけ出すことこそが、今、彼が果たすべき役目なのだ。


「待て。まだリカードの手の者がいるかも――」


 だから、アンドラーシが伸ばした手を掻い潜って、ラヨシュは駆けた。まだ薄闇で青く煙る、木々の間へ。

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