第19話 貧乏くじ アンドラーシ

 王妃の使いがバラージュ家に届いたと聞いた時、アンドラーシは最初少し苛立った。最近の塞ぎ込んだ様子からして、心細い、早く戻って欲しい、とでも言って急かすつもりかと考えたのだ。


 ――こちらだって遊んでいる訳ではないというのに……。


 妻に会える嬉しいがあるのは否定しないが、王の不在の間に国が乱れることがないよう、カーロイらとはかるのも臣下の重要な務めだろうに。何より、王妃への感情はともかくとして、王から直々に賜った命を疎かにするつもりは彼には毛頭ない。催促されるまでもなく、そろそろ王宮への帰途につこうという頃だったのだ。なのにあの女はその僅かな時間も待てないのか、と思うと考えの浅さにうんざりさせられる。


 フェリツィア王女のために菓子や玩具や衣類などを用意した、と聞かされてもその気分は変わらなかった。王妃自身が側妃の御子を害そうとする、などとは彼もさすがに思わないが、贈り物の用意をしたのはどうせ実家のティゼンハロム侯爵家の者なのだろう。毒や針でも仕込まれているのではないかと疑うとバカ正直に王女に与えることなどできはしない。かといって王妃から贈られた品を無碍にするのも難しいとなれば、グルーシャを始めバラージュ家の者たちの悩みの種になるに違いない。


 珍しく自発的に動いたかと思えば、他者の都合を考えず迷惑になることばかり。王妃である以上、そんな女でも一応は丁重に扱わなければならないとは。ブレンクラーレ遠征に加わることができなかったことと併せて、貧乏くじを引いたとしか思えなかった。


「――これを、必ず直にお渡しするようにと仰せつかっています」

「そうか」


 隠すつもりもないから、彼の内心は表情にも出ていただろう。王妃直筆の手紙とやらを差し出してきたラヨシュの顔には、はっきりと不敬を咎める棘があった。この子供も王妃に振り回されていることになるのに、忠義心の篤いことだ、と思う。それから――手に触れた時に、肉刺まめが潰れているのと掌の皮が大分厚くなっているのに気がついた。彼の目が届かない間も、怠けることなく鍛錬に励んでいるようなのは、まあ、褒めても良いところだろう。


 王妃のためというよりは、の働きに報いるために、アンドラーシは丁寧に施された封を破った。そして手紙を開き、最初の文を一読し――眉を寄せた。


『突然お騒がせして申し訳ありません。信用できないでしょうから、お届けした品はどうかフェリツィア様には使わせないで』


 彼の心の裡を見透かしたかのような文章に、思わず声が漏れる。


「何だ、これは」


 王妃は何も知らない女だと侮っていた。最低限の敬意は払っていたつもりだし、王もそれで咎めることはなかったから十分だと考えていた。だが、あの女も他人の悪意に気付くということがあったのか。嫌われていると知っていて、彼に手紙を寄越すようなことができる女とは思ってもみなかった。――否、だからといって今回の贈り物の不可解さが消える訳ではない。王妃に自覚があるならなおのことだ。


「王妃様は、何と……?」


 自らが届けた手紙の内容は聞かされてはいないのだろう、もの問いたげに見上げてくるラヨシュを無視して、手紙の続きを指でなぞる。ただでさえ文字を読むのは得意ではないというのに、予想もつかず訳も分からない内容に、早くも頭痛がし始めていた。




 王妃の手紙を読み終えた瞬間、アンドラーシは意識して指先に力を込めた。そうしないと、折角の手紙を拳で握りつぶしてしまいそうだった。全く、王妃は厄介な事態を呼び寄せてくれた。だが、苛立つ暇さえ今の彼には許されない。王妃の記したことが事実ならば、一秒たりとも無駄にすることはできないたろう。


「カーロイ!」


 王妃の使いを迎えるべく同席していた義弟に、アンドラーシは鋭く呼びかけた。


「すぐに動かせる兵はどれほどだ!?」

「は? ええと……二百、程度になるでしょうか……」

「ならばその二百、直ちに出発の支度を整えさせろ。同時に、領内から更に兵をかき集めるのだ。王妃の使いをここに留め置き、王女殿下の守りを固めるために」


 急な問いに目を瞬かせる義弟にカーロイに口を挟む隙を与えず、捲し立てる。果たしてこの対応で足りるのかどうか、緊張と――認めたくはないが――不安に鼓動が早くなるのを感じながら。彼が戦いにおいて怯んだことなど一度もないが、戦いのに状況を左右する決断に関わったこともまた、経験のないことだったのだ。


 ――この俺が指揮官、になるのか? バカバカしい……!


 彼の務めは王の命に愚直に従うことと心得ていたのに。自分の頭で考えさせられるこの状況は、絶対に何かが間違っていると思えてならない。だが、いかに不似合いな立場と自分では思っても、カーロイは指示を求めて彼を見てくる。


「はい。……ですが、なぜです!?」

「リカードが娘と孫を取り戻すべく力に訴えるつもりだと。王妃が助けを求めている。俺の不在が狙われているから、急いで戻って欲しい、と」

「な……っ、は、はい!」


 驚きに目を瞠ったのも一瞬のこと、カーロイは素早く状況を呑み込んだらしい。威勢の良い返事と共に空の右袖を翻し、指示に応えるべく足早に去って行った。


 カーロイが去った後に残されたのは、アンドラーシの他はラヨシュと、王妃の使いの者たち。女の使いの気楽な役目のはずが思わぬ方向に話が転んで、一様に顔を引き攣らせている。この者たちにも何も言わず悟らせなかったなら、王妃も意外と演技が得意なのかもしれない。――あるいは、彼と同様、誰もあの女が自分の頭で考えるなど想像もしていなかっただけか。


 敵を、状況を見誤るな。それは、戦いにおいて何よりも重要なことのはずなのに。戦場でのことならば、彼も油断はしなかっただろうに。今まで侮っていた王妃が一気に事態を動かしたこと――素直に歓迎するよりも、なぜかしてやられた、という気分になってしまう。


「そういうことだ。お前たちには悪いが、ここから出す訳には行かぬ。ゆっくりしていってくれ」


 やり場のない苛立ちに似た感情をぶつける先は、動揺から立ち直ることができずに立ち竦んでいる使者たちだ。自棄ヤケのように、あえて余裕ぶって皮肉をまぶした言葉を叩きつけて笑いかける。

 かくして、ティゼンハロム侯爵家の息のかかった一団は、バラージュ家の屋敷の一角に監禁されることになった。




 王妃の使いがバラージュ家に到着したのは、午前のそう遅くない時間だった。そして王妃の手紙を読んだ後、カーロイの補佐を受けつつ兵を組織し、留守中の諸々を手配する。できる限り急いだつもりでも、出立の支度が整う頃には時刻は既に夕刻になっていた。冬の、日が最も短い季節だからでもあるが、王宮に向けて夜通し駆けることになりそうだった。


「出発は明日になさっては……? ティゼンハロム侯爵も、こちらが動くとはまだ知らないのでしょうし……」

「とはいえ夜陰に乗じて王妃たちを攫おうとしている恐れもある。早く発つに越したことはないだろう」


 武装を纏うのを手伝いながら、グルーシャが珍しく弱気なことを言ってくるのがアンドラーシには不思議だった。クリャースタ妃と併せて彼の女に対する見方を変えてくれたのが、この賢く気丈な妻だというのに。黒松館が襲われた夜など、グルーシャ自身も星明りを頼りに馬を御していたと聞いているのに。


「はい。……ですが、あまりに急ですから」

「なんだ、心配してくれているのか」


 そういえば結婚してから戦いに赴くのは初めてだった、と思い至ってアンドラーシは思わず笑った。グルーシャとの縁が深まったのはティグリス王子の乱の後、そして今回の遠征に対しても彼はを仰せつかっている。大軍がぶつかり合うような戦争ではなく、せいぜいが小競り合い程度の争いでも、夫を待つ身には不安に思えるものなのだろうか。

 大げさに思える妻の不安も愛情の裏返しかと思うと嬉しくて、つい、手を取って指先に口づける。すると明らかに頬を染めるのがまた可愛らしかった。


「はい、それはもう。それに、出来過ぎているような気もして……」


 それでも、甘い雰囲気に流されることがないのが彼の妻なのだが。


「これも策だと? 王妃のか、それともリカードか……」


 グルーシャは王の不在の間、諸侯を纏めるのに王妃の力を借りるよう進言してきたこともある。だから恐らくは後者を疑っているのだろうとアンドラーシは考え、事実妻は小さく頷いた。


「王妃様が望んで他人を陥れるようなことはない……、と思います。でも、父君様には逆らわない方ですから。ご自覚のないまま、侯爵の思い通りに振る舞うように仕向けられているのでは、とか……」


 つまりは父親に操られる愚かな女、と言っているのも同然の評に、グルーシャは後ろめたそうに目を伏せた。王妃に仕えたこともある彼女でさえ、その善良さは信じていても頭の方は信じていないということだ。驚き戸惑っているのが彼だけではない、と知らされて、アンドラーシの気分もわずかに上向いた。

 それに、妻であり、男たちが不在の間屋敷を預かるグルーシャには、打ち明けておいた方が良いだろう。そう判断して、アンドラーシは声を低めると妻の耳元に口を寄せた。


「正直言って、俺も信じがたかったのだが。だが、今回のことはどうやらあの御方が陛下のために心を砕いてくださったらしい」


 言いながらグルーシャに示すのは、王妃の手紙――その、だ。

 父に攫われる、助けて欲しいと記していた一枚目にも、王妃の署名はされていた。まるで、その一枚で用件が完結しているかのように。ひとつの封筒に二枚の手紙。王妃がアンドラーシに何としても伝えたかった本題は、その二枚目の方にこそ記されていたのだ。


「これは……!」


 グルーシャは彼よりもよほど文字を読むのが早い。目が左右して文を追い、次第に大きく見開かれていく。




『父が王である夫に対して不忠を重ねていること、娘として大変申し訳なく思っています』


 王妃の二枚目の手紙は、まず謝罪から始まっていた。誰もが承知しているが、王妃だけは気付いていないだろうと考えられていたことについて。親の罪を諫めるべき子が何も知らないように見えたから、アンドラーシはあの女が好きではなかった。王妃に自分というものがないなら、つまりはリカードの分身というか人形のようなものだと思っていたから。だが、王妃はまず彼の思い込みを壊してくれた。


『特に懐妊中の側妃様に対して為したこと、罪のない子、それも王の子を害そうとする企みは許されてはならないものと思います。罪を逃れるために、ティゼンハロム侯爵家の紋章すら利用したことも。栄誉ある家名を大逆のために汚すなど――私が言えることではないのでしょうが――この上なく恐ろしく悲しく忌まわしいことです』


 王妃とクリャースタ妃は意外にも親しいらしいが、名を綴らずに側妃と呼んだのは、多分綴りが分からなかったからだろう。王妃の筆はそこで一瞬悩んだようで、紙には黒い染みが残されていた。あるいは、王の――夫の、自分以外の妻に言及することで心が乱れたのか。王妃の心の裡など、彼は慮りたくもないのだが。


『父が未だに裁かれていないのは、罪に問うだけの証拠がないから。あの方がもみ消してしまうから。そして今も、父は夫に背くための企みを続けているのでしょう』


 側妃に堕胎薬を盛ろうとした件については、グルーシャとカーロイの姉弟もリカードに出し抜かれている。あの古狸の手先になった振りで毒を受け取り、それを依頼した証拠までせしめたと思ったのに、リカードはしっかりと先手を打って――それも何十年も前から! ――その証拠をに貶めたのだ。

 その時のことを思い出したのか、グルーシャの形の良い眉が微かに寄せられた。アンドラーシがその部分を一読した時は、王妃がしおらしいことを言っても何の益もないだろうに、とまた苛立ちを感じたものだが。妻ならもう少し優しい感想になりそうだと思う。


 グルーシャが何か言いたげに目を上げたのに応えて、先を読めとやはり目で促す。王妃の手紙の、もっとも重要な部分まで読めば、彼が出発を急ぐ理由も分かるだろう。


『だから私は、父の反逆の証拠を造ろうと思います。実家に、迎えに来て欲しいと使いを出しました。ただし伝言という形で、こちらの証拠は残らないように。公に残るのは、同封したもの――貴方様に助けを求めたものだけです。王宮から無理に王妃と王女を攫おうとしたとなれば、十分に叛意ありと見做せるのではないでしょうか』


 手紙を全て読み終えたのだろう、グルーシャが深々と息を吐いた。


「王妃様……あの方は、ご自身を囮にしようとなさっているのですか……!?」

「そのようだ。しかもこの書き方ではリカードには既に伝えているのだろう。一刻の猶予もならないと、分かってくれたか?」

「はい……それはもう。……ですが――」

「だが、何だ?」


 グルーシャが言いよどんだ理由を察して、アンドラーシは微笑んだ。妻が彼をよく理解してくれていることが嬉しかった。それに、他の誰にも言うことはできなくても、妻に心の裡を明かしておくことができるのが――多少、気恥ずかしくはあるが、悪くない。


「あの……よく、王妃様をお救いする決断をなさったと……。あの方のことを、お好きではないように見えましたのに」

「確かにな」


 果たして、グルーシャが彼の一瞬の逡巡を言い当ててくれたのでアンドラーシの笑みは深まった。


 王妃がリカードのもとにのを、放っておくという手もあったのだ。そうすれば、王妃は夫よりも父を選んだと見做されることになっていたはず。クリャースタ妃が無事に帰るかはまだ分からないとしても、王もひとり目の妃のことは諦めたかもしれない。今までのアンドラーシならば、そちらを選んでいてもおかしくはなかった。だが――


「陛下への忠誠を持ち出されれば、動かない訳には行くまいよ」


 王妃は信じている、と書いていたのだ。


『父の娘であり、何も知らず諫めることもできなかった私のことをさぞお嫌いなのでしょう。でも、私は信じています。貴方様は、夫からの命令を蔑ろにすることはないと』


 文章で断言するほど、王妃に確信があったかどうかは分からない。だが、王妃だから助けろと命じるのではなく、王の命に従って欲しいと乞う態度は好ましいと思った。王が心を傾けるのに相応しくない女だと長年考えてきたが、彼は思い違いをしていたのかもしれない。リカードよりも王を選び、そのために戦うというなら、助力を拒む理由は何もない。――今回力を貸したからといって、クリャースタ妃の立場を脅かすことには、とりあえずはならないだろうし。


「……王妃と王女の無事を、陛下が望まれるのも間違いないこと。お前には負担だろうが、おふたりをお迎えする用意を整えておいてくれ」

「はい。アンドラーシ様は、くれぐれもお気をつけて」

「うん」


 王妃と王女を確保することができなければ、それは即ち内乱の始まりを意味している。リカードは娘と孫を保護しただけだとうそぶくであろう一方で、こちらは王妃の手紙を証拠に糾弾するしかない。

 そして首尾よく間に合ったとしても、それで終わりになるはずもない。今度はリカードが誘拐と糾弾するだろうし、事態が不明な中ではどちらにつくべきか判断を迷う者も出るだろう。ならば日和見の連中を説得して味方を募るのはアンドラーシの役目になるし、バラージュ家には敵も味方も諸々の思惑が集まるだろう。王の帰還まで、彼が矢面に立って事態に当たらなければならないかと思うと、想像するだけで目眩がする。遠征から取り残されたのとは比べものにならない貧乏くじとしか言いようがない。


 だが、面倒だからやらない、などと言ってもいられないのだ。アンドラーシは妻を抱きしめ、その温もりを味わうことで自らを奮い立たせた。

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