第2話 ティゼンハロム家 エルジェーベト
晩夏の晴れた日。王宮の奧まった一角で、国王一家が団欒している。
珍しく昼から奧宮を訪れた王に、王妃は上機嫌だ。あえて田舎風に造られて、野の花が咲き乱れる庭では王女が走っては転げて笑っている。
マリカ王女のために花を摘みながら、エルジェーベトは王と王妃の会話に耳をそばだてた。
「シャスティエ様に教えていただきました。ミリアールトの冬はあまりに寒くて空気さえも凍ってしまうのだそうです」
「そうか」
「風のない晴れた朝には細かな氷の粒が宝石のように輝くのだそうです。降り積もった雪はあらゆる音を吸い込んで、静謐な世界に無数の光がきらめいて、夢のように美しい……宝石箱を散りばめたような光景なのだとか」
「あの娘がそう言ったのか? そのように甘い言葉を使うとは思わなかった」
「とても綺麗な表現だったので、覚えるまで繰り返していただきました。
――私もそんな景色が見てみたいです。マリカも夢中になって聞いていました。
ファルカス様、冬になったら私たちもミリアールトに連れて行ってくださいますよう、お許しいただけませんか?」
王妃は少女のように頬を染めて王に語りかける。王の答えは素っ気ないようでいてちゃんと妻の言葉に耳を傾けているし、その目は蝶と戯れる娘を追っている。
いつもならば微笑ましく思う光景だが、話題があの女のこととなると忌々しい。花を摘む手が、むしり取るように荒々しくなってしまう。
――ミーナ様は優しすぎる。もっとお怒りになっても良いところなのに。
王はミリアールト遠征で王妃と王女に寂しい思いをさせた上、若い女を王宮に連れ込んだ。あの女は高慢に取り澄まして周囲を見下している。エルジェーベトは許し難く思っているのだが、口惜しいことに主にはそうは見えないらしい。
――我慢ならない無礼な女だと言ってやれば良いのに……。
何の気まぐれか、王は元王女に決して危害を加えさせないという誓いを立てたという。それでも、妻子が侮辱されたとなれば処遇を考え直す気にもなるだろう。あの金の髪の小娘、見た目が良いのは確かに認めざるを得ないが、言動がどうにも生意気だ。
「宝石箱を散りばめたような朝」の話にしてもそうだった。王妃の取り巻きの一人が、ミリアールトは冬になると夜がいつまでも続く陰気な国だと言ったのに対して、あの女は挑戦的に小首を傾げて答えたのだ。
『確かに
そしてあの女が語った輝く細氷の光景や、吹き付ける雪をまとって伝説の獣のような姿になる木々の描写に、ミーナもマリカも聞き入っていた。
『それから、極光というものがございます。夜空に青や赤、緑色の光の幕が降りるのです。光の河のように幅広のもの、縞状のものと様々な形がありますが、薄い色の
最初にミリアールトを陰気だと言った女の顔は引きつっていた。それを見返すあの女の微笑みの、なんと憎らしかったことか。虜囚の分際をわきまえて、黙って頭を下げて卑屈にしていれば良いものを、いちいちひけらかすような真似をして可愛げがない。大体、全天にドレスの中を見せびらかす女神などとんだ売女ではないか。
エルジェーベトは憤りを反芻しながら摘んだ花を冠に仕上げていく。その間にも、王と王妃の会話は続いている。
「あちらの様子はまだ落ち着かないと聞いている。少なくとも今年の冬は無理だろう」
「それは残念です。シャスティエ様もお国が懐かしいことと思いますのに」
王は重いため息をついた。
「お前はよほどあの娘が気に入ったと見える。
前にも言ったが、あれは大事な人質。安易に外に出すわけにはいかないし、国に返すなど論外だ」
「……分かっています。申し訳ありません」
しゅんとする王妃の姿を見て、エルジェーベトの怒りの矛先は王にも向かう。
――お前の勝手で連れてきた女でしょう! ティゼンハロム家の力がなければ王になれなかったくせに、ミーナ様を悲しませる権利なんてないわ!
もちろん、口に出して糾弾することはかなわない。代わりに彼女は出来上がった花冠を掲げるとマリカを呼んだ。駆け寄ってきた王女に冠をかぶせて言い聞かせる。
「マリカ様、とてもお似合いですよ。お母様とお父様に見せてごらんにいれましょう」
「うん!」
王女は幼児ならではの危うさで両親の元へ走る。均衡を崩して転びそうになった瞬間、気づいた王が立ち上がって小さな身体を抱き上げた。マリカの笑い声がはじけて、王妃の顔にも微笑みが戻る。
その様子にひとまず安心し、エルジェーベトは思う。
――分かっているわ。ミーナ様は他の者を悪く思うなんてできない方。そして他の者からの悪意もお気づきにならない。
でも、それで良い。ミーナ様が見るもの聞くものは全て優しく心地良いものでなければ。
エルジェーベトは目を細めて王をうかがった。ミーナを丁重に扱っている、とは思う。マリカに見せる愛情も父親としては及第点と言って良い。あの女に関しても、人質に対するもの以上の関心は持っていないようだ。
――でも信用ならない……。
若く美しい女を前にした男の愛情や誠実さなどあてにならない。そもそもミリアールトを攻めるのを決めたのも王の独断だったという。まさか物語のように美女目当てで、ということはないだろうが。だが、もし王がミーナとティゼンハロムへの恩義を忘れたというなら――
――傀儡の王、お前はそれを後悔することになる。
低く、鋭く、心の中で。エルジェーベトは王に警告した。
娘を王家に嫁がせて未来の王の祖父となるのがティゼンハロム侯爵リカードの夢だった。広大な領地も並ぶもののない財力も玉座の栄光に比べれば霞むらしい。
故にミーナは何人かいる王子の誰かに嫁ぐのが決まっていた。とはいえリカードは王位を熱望するのと同じ程度に娘を溺愛していたから、誰を選ぶかはミーナの自由に委ねられた。リカードには誰であっても王位に押し上げる自信もあっただろう。
そしてミーナが恋したのがファルカスだった。傍で見ていたエルジェーベトにしてみれば、愛想もないし目つきの悪い少年で、主人の趣味を疑ったものだった。
それならばどんな男なら良かったのか、と自問すると、結局ミーナに相応しい男などいない、という結論になるのだが。
愛する相手と結ばれたミーナ。王家との縁を結んだリカード。玉座への後ろ盾を得たファルカス。誰にとっても幸せな取引のはずだったのだ。
――お前が王になれたのはミーナ様のおかげのはず。
エルジェーベトは非力な女に過ぎないが、ミーナに対する忠誠心は誰よりも強い。何しろ彼女は生まれる前からミーナに仕えることが決まっていたのだ。
二人が生まれる直前、ティゼンハロム侯は、同じ頃に月が満ちる女を乳母として探していた。その乳母として雇われた女に宿っていたのがエルジェーベトだ。
幼い頃から愛らしく天真爛漫だったミーナ――ウィルヘルミナは婚家名なので当時は違う名で呼ばれていたが――は、父ティゼンハロム侯リカードを始め一族の者たちを魅了した。
エルジェーベトはミーナよりわずか数日先に生まれただけだが、母や主家に倣ってミーナを慈しんだ。ミーナも彼女によく懐いて、彼女のことを「もう一人のお母様」「お姉様」と呼ぶことさえあった。
ティゼンハロム家の権力と財力をあげて溺愛されたミーナは、この世の一切の悩みと苦しみを知らずに育ち、王妃となり一児の母となった今も変わらず無邪気で善意に溢れている。
ミーナの美しく完全な世界を守ること――それこそが自分の使命だとエルジェーベトは信じている。
――そのためなら、何だってするわ。
当面の懸念はあの生意気な元王女だ。あの女がミーナの世界を脅かすことがないように。手を打たなければなるまい。
そしてそれは王への牽制にもなるはずだ。
その夜、エルジェーベトは王都のティゼンハロム邸を訪れた。彼女はリカードが王宮に配した「目」でもある。王宮の奥の様子を報告するのはよくあることだった。王宮にいる娘や孫を、父であり祖父であるリカードが案じるのは当然のこと。彼女が王宮と侯爵邸を行き来することを疑問に思うものは誰もいない。
「ミーナの様子はどうだ。婿殿と仲良くやっているか」
自国の王をつかまえて傲慢に婿と呼ぶのはティゼンハロム侯リカードその人だ。六十を過ぎた老人で、頭髪は半分以上白くなっているが、堂々とした体躯は健在で、夜の色の瞳に宿る眼光も衰えることを知らない。
彼の宿願が叶うのは曾孫の代になる公算が高いが、きっとその日まで軒昂な肉体と精神を保つつもりなのだろう。
エルジェーベトは跪き頭を垂れて答える。
「王が戻ってミーナ様は大変喜んでいらっしゃいます。王も変わらずミーナ様とマリカ様を慈しんでいらっしゃいます」
余計なことか、と思いながらもつい付け足す。
「ミリアールト遠征の件でミーナ様を何ヶ月も放っておかれたことへの埋め合わせには到底足りぬとは存じますが」
「ミリアールトか」
王を咎めてくれたら良い、という期待とは逆に、リカードは穏やかに苦笑しただけだった。
「婿殿の目論見はわかっている。他国を滅ぼすことで力のある王だと誇示したいのだろうよ。実際、王を支持しようかと迷っている者もいるらしいからな。
しかし、側近を残してまともに統治するつもりのようだが青いことだ。領土を広げた王と呼ばれたいのか――早晩反抗にあって戦果を失うことになるだろうにな」
「あの金の髪の小娘についても取るに足らぬとお考えでしょうか」
これにはリカードの表情が不快げに歪んだ。それを上目遣いで確認して、エルジェーベトは安堵する。折角の強大な権力を、ミーナを守るために使わず何に使うというのか。
だめ押しとばかりに付け加える。
「いつまでも自身が王女であるかのような振る舞いで、女たちも腹に据えかねております」
あの女はさぞイシュテンの女を見下しているのだろう。だが、彼女たちとてあの女が思っているほど愚かではないのだ。突然王が若く美しい娘を連れてきたとなれば不審に思う。そして、それぞれの夫に報告した結果、あの女が生意気にも女王を名乗って王に口答えしたことは女たちの間でも周知のこととなった。王が彼女を外に出すことを許さず、王宮の奧に隠しているのも不穏な憶測を呼んだ。
つまり、彼女を側妃に迎えようとしているのではないか、と。今では、あの女の高慢さもあいまって、ティゼンハロム侯爵家ゆかりの女たちはあの女への敵意で一致団結している。
「確かに剣を向けられても顔色一つ変えない気の強い女という話だったが……王妃に対してもその態度とは。
王の例の誓いがなければいかようにもできるものを。まさかあの若造、取り巻きどもに乗せられてその娘に手を出そうというのではあるまいな」
――力ない王の誓いが何だというの。
主の態度が弱気に見えてエルジェーベトは歯噛みする。
「誓いとやらは重々承知しておりますが、せめて王宮から追い出すことはできないのでしょうか。殿様はミーナ様のためならば何者も恐れぬお方と思っておりましたのに」
「何だと」
鋭い口調に、放言を咎められるかと身体を縮める。憤りのあまり、口を滑らせてしまったと思ったのだ。
「出過ぎた言でございました。お許し下さい」
「いや、お前の言うとおりだ!」
だがリカードは声を立てて笑った。
「なにも危害を加える必要はない。その娘を王とミーナから遠ざければ足りるのだ」
眉を寄せて顔を上げたエルジェーベトの前で、彼は考えをまとめようとするかのように、半ば独り言のように続ける。
「ミリアールトの元王女のことは一族の若者の間でも噂になっている。なにせ王が厳重に隠しているからな。月の光のように美しいというのは本当か、それとも毛色が珍しいというだけの小娘か。いずれにしても王家の血を引く得難い女には違いない。王に楯突いたというのが事実なら、イシュテンの流儀で躾なおしてやる必要があるだろう」
彼の顔に浮かぶ好色な笑みを見て、エルジェーベトは何となく言わんとすることを察する。美しいという娘の噂だけでこうも想像を逞しくできるとは。やはり男は皆こういうものかと思うとうんざりする。
「若様方があの女を望まれていると? 王が許しませんでしょう」
懐疑的な彼女の声音に対し、リカードは自信に満ちた表情で笑う。傲然と胸を反らして立つ姿はまるで既に王者のようだった。
「王を狩りに招く。その娘も連れて来させる。一番の獲物を仕留めた者が褒美として娘をねだるように伝えておこう」
そう上手くいくだろうか。先ほどの口ぶりでは、宰相であるリカードでさえあの女を直接は見ていないようだ。人質だからか、下心からか、王はそれほど彼女を大事にしているのではないか。
そこでエルジェーベトは昼間の出来事を思い出した。
「ミーナ様はあの女が王宮から出られないのを哀れんでいらっしゃいましたが、王はそれはならぬと断ったのですよ」
苦言を呈したつもりだったが、リカードは更に気を良くしたようだった。
「優しい娘だ。ならばミーナからも話をつけるように伝えよ。それでミーナも喜ぶだろうし、妻と義父から言われればあの王には断れん」
傲慢で嗜虐的な口調は、元王女への邪心だろうか。あるいは王を従わせることへの悦びだろうか。いずれにしても主は自身の思いつきが成功することを疑っていないようだった。
「栄えある一族に迎えてやろうというのだ。否とは言わせぬ。王にも、その娘にもな」
確かに一応の筋は通っているのかもしれない、とは思う。滅びた国の王女に名門の後ろ盾を与えてやるのは、危害を加えることにはなるまい。
なにより、あの女の矜持が叩き折られるところを見たいと思った。口先での嫌味や当てこすりではあの女には堪えないようだ。だが、情欲むき出しの男たちに品定めされた上にその中の一人の妻として差し出されるとなったらどうだろう。そしてそれは誇りばかりか名前さえも奪われることなのだ。婚家名は、外国の女に対しても等しく与えられるものなのだから。
あの澄ました女の泣き顔の一つも見ることができればきっと胸がすく思いがするだろう。
そう結論づけたエルジェーベトは、艶然と微笑みを作った。
「まことに素晴らしいお考えと存じます」
リカードは満足げにうなずいた。
「そうか。では明日ミーナに申し伝えるが良い。今宵は泊まっていくな?」
目線で立つように促されて従うと、リカードはエルジェーベトの腰を抱き寄せた。意図を察して、老いてなお厚いその胸にしなだれかかる。醒めた表情を相手に見せないように。
「はい。殿様」
彼女は心中でひっそりと嗤った。やはり男とはこういうものだ。確かめることができて、いっそ安心したくらいだった。
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