2. 高貴な虜囚
第1話 鬱屈 シャスティエ
与えられた部屋に戻り、背後に扉が閉まる音を聞くと、シャスティエはほう、と溜息をついた。
「……今日のお務めもつつがなく終わったわね?」
「はい、本当に、お疲れ様でございました……!」
冗談めかしてイリーナに微笑みかけると、若草色の瞳が怒りに燃えていた。侍女の忠義心を可愛らしく思いながら、ドレスの裾をさばいて長椅子に腰掛け、軽く伸びをして身体の凝りをほぐす。品定めの目に負けまいと思うと、どうしても肩に力が入ってしまうのだ。
「毎度のことなのに慣れないの? 私はなんだか面白くなってきたわ」
イシュテンの王宮に捕らわれて以来、シャスティエは数日と空けずに王妃の招待を受けている。名目はこちらの庭で薔薇が咲いただとか、あちらの池では蓮が見事だとか。王妃の意図としては気晴らしにということなのだろうと思う。ただ、共に招かれる王妃にゆかりの貴婦人たちが、どうもシャスティエに対して刺々しい。
「美しさでも教養でもシャスティエ様に敵わないのに無礼な人たちです。嫉妬しているのだと思いますわ」
「結婚してお子様もいるようなお歳の方ばかりなのに? それにここでは女の小賢しいのは良いことではないみたい」
苦笑するのは、強がりという訳でもない。シャスティエは、貴婦人たちの態度を本当に大して気にしていなかった。少なくとも、傷つくとか憤るとかいうことはない。
だって、王妃への配慮もあるのだろうが、嫌がらせというほどのことでもないのだ。こちらの言い間違いや、イシュテンの文化習慣への無知をここぞとばかりに言い立てる程度のこと。年下の、それも外国人の小娘を相手に、母国語の語彙や知識を誇って何の自慢になるのか、まったく意味が分からない。ただ彼女たちからの悪意と敵意だけはしっかりと感じ取ることができるから、あえて言うなら困惑はしているかもしれない。
「『皆様のご指導の賜物です』って、今日は何回言ったかしら? 私、この一言だけは絶対に発音も抑揚も完璧だと思うの」
「シャスティエ様……」
「そんな顔しないで。正しいイシュテン語を身につけるのは悪いことではないし。私のためにしてくださっていると思うことにしましょう」
幸い、物の覚えは良い方だ。あくまで礼儀正しく、にこやかに。言われたことは直ちに正して二度と同じ間違いはしない。辱めようという当てがはずれて悔しげな女たちの様を見れば、少しは溜飲も下がる。我ながら可愛げのないこととは思うが、あからさまに口答えなどできない以上、他に矜持の通しようがない。
「次のお招きは三日後とか。着ていけるものはあるのかしら?」
怒りが収まらない様子の侍女を、有無を言わせない微笑みで黙らせて、シャスティエは
話題を変えた。するとイリーナも不承不承といった表情で答える。
「今仕上げているのは桃色のドレスです。細かい花の模様が一面に刺繍してあるものです」
「桃色の花模様……」
そういういかにも可愛らしげなドレスは彼女の好みに合わない。主人の顔が曇るのを察した侍女は、慌てて言い添える。
「葡萄色のリボンが余っています。それを襟周りや袖口につければ甘すぎる感じにならないかと……」
「ではそうしてちょうだい」
命じると、自身がまとうドレスを見下ろして、しみじみと呟く。今日選んだのは、象牙色のレースを全面に使ったもの。麻混の絹がさらりとして心地良い。王女に生まれたシャスティエには、生地も仕立ても一流だと知れる。
「それにしても、一面の刺繍とは豪勢なこと。いただいたのは最上級の品ばかりだし、王妃様のご実家の権勢は、財力にも及ぶのね」
「そうはいってもたかだか侯爵家でございましょう? シャスティエ様はもっと素晴らしい品々をお持ちではありませんか」
「国に帰れば、ね」
シャスティエは最初、王妃の招待を衣装がないから、と固辞しようとした。ミリアールトから持ち出せた私物はわずかだったし、そもそも当分喪服で過ごすつもりだったから、茶会に着ていけるようなドレスはほとんど持ち合わせていなかったのだ。
すると、王妃は薔薇の蕾がほころぶような明るい笑顔で言った。
『では、私が若い頃に着ていたドレスを差し上げるわ。どうせ沢山あるのですもの、しまったままにしておくより綺麗な方に使っていただきたいわ』
嬉しいとか恐縮するとかの前に、シャスティエはひたすら当惑した。どこの世界に虜囚に私物を譲る王妃がいるというのか。
例え受け取ったとしても、王妃は黒髪黒目に薔薇色の頬。対するシャスティエは金髪碧眼に磁器のような白い肌。つまりは似合う衣装の系統は全く違う。
他の者が申し出たことであったら、いっそ嫌がらせと解釈していたところだった。似合わない衣装を着せて、悲しみに浸る暇さえ与えないということか、とでも。でも――
『マリカにあげようと思っていたのだけど。でも独り占めは良くないと思うし、マリカも怒ったりしないわ。だから、シャスティエ様、受け取ってちょうだい』
そう言って笑う王妃の瞳に、悪意は一切見えなかった。第一、嫌がらせの類に大事な姫君の名は出さないと思う。それどころか、彼女の言葉も笑顔もただただ善意と優しさに満ちていた。だから、どうしようもなくて、シャスティエは王妃の厚意に甘えることにした。
――おおらかな方、というか裏表のない方、というか……。不思議な方。悪いことはなにもご存知ないような……。
当惑はずっと続いている。どんな屈辱的な扱いを受けるのかと身構えていた。復讐の機会を逃すまいと気を張り詰めていた。それが意外にも過分の厚遇を受けてしまい、シャスティエは感情のやりどころに困っていた。
「シャスティエ様、今日はもう休まれますか? お髪を解いても?」
イリーナの声に、さまよっていた思考を引き戻される。心配そうな瞳が、少々赤い。
――無理をさせてしまっているわね……
王妃から賜った衣装の数々は、好みは度外視するとしても丈が合わないのはどうしようもなかった。王妃の方がシャスティエよりも長身だし、体格も違う。丈を詰めたり袖の長さを調整したりといった作業を引き受けたイリーナは、睡眠不足が続いてしまっているのだ。
「いえ、まだ良いわ。これからアンドラーシ殿と会うことになっているの」
アンドラーシ・フェケトケシュ。ファルカス王の側近とかいうあの男は、ミリアールトからの旅路では何かとシャスティエたちの世話を焼き、イシュテンに到着してからも口実をつけては訪ねてくる。感謝するのではなく何か企んでいるのだろうと思ってしまうのは、きっとあの軽薄な微笑みのせいだ。
イリーナも同じ気持ちのようで、顔をしかめた。
「またですか。私、あの人が好きではありません」
「私もよ。でも、薔薇の色やお茶の産地よりは実のある話ができるのよ」
反論は許さないとばかりに立ち上がると、心配そうな顔のイリーナを残しシャスティエは部屋を後にした。
イリーナではない、年かさの侍女を連れて待ち合わせた場所へ向かう。既に大まかな庭園や建物の配置は覚えたが、さすがに見張りなしで出歩かせてはくれない。アンドラーシと伝言をやり取りするのにもこの侍女を使うように言われているから、信頼がおける者だということだろう。
イシュテンの王宮は広い。王や王妃が住まう中心部だけでも小さな町ほどの面積があるだろう。庭園だけでなく小さな林や小川さえ備え、数々の美しい離宮が配置されている。
シャスティエの感覚では建物が多過ぎる気がするのだが、これらの離宮は歴代の王の寵姫に与えられたものなのだという。彼女が与えられたのもその中の一つだ。王妃が無邪気にどれが良いかしらというのには困惑させられた。
ミリアールトは一夫一妻制で、父も亡き母に対して貞節を守っていた。中には寵姫をもうけた王もいたけれど、王宮の中に同時に何人も囲って妍を競わせた試しはない。こういう点もイシュテンが野蛮と言われる所以だ。現王のファルカスに寵姫がいないのは王妃のためには幸いだが、その分戦いに関心が向いているのかと思うとそれはそれで忌まわしい。
待ち合わせ場所の南の庭園は王族の居住区と官吏が行き交う官庁の区域の中間にある。庭園は美しく整えられ、王妃や王女が散策することもあるが、王宮に務める者であれば立ち入っても咎められないということだった。どうにか逃げ道を探すことができないかと目を凝らしたこともあるけれど、シャスティエの金髪碧眼はどうしようもなく人目を惹く。イリーナとふたりで王宮を抜け出したところで、王都に手引きしてくれる者がいるでもないし――驚くほどの自由が許されているのも、結局は逃げることができないと見切られているからに過ぎない。それも悔しく腹立たしくてならなかった。
シャスティエは庭園の片隅の東屋でアンドラーシと対面した。侍女は声の届かない位置に控えている。まるで逢引のような状況は心底不本意だが、他に会える場所がない以上仕方ない。
アンドラーシは優しげな女顔にいつもの感情の読めない笑みを浮かべた。
「お約束のものをお持ちしました」
「ありがとうございます」
アンドラーシが差し出したのは数冊の本だった。前回会った時にできることはないかと聞かれたので、駄目でもともとと頼んでおいたものだ。国を出るにあたって、本など荷造りから真っ先に外していた。長旅ではかさ張るし重いし邪魔にしかならないだろうから。文を軽んじることで名高いイシュテンで、新しい本が手に入ることなど、シャスティエは想像だにしていなかった。
「全ては揃わなかったので、ない分は取り寄せるそうです」
「私などのためにそこまでしていただかなくても……」
だからといって、手放しに喜ぶはずもないのだけど。
――何を企んで良くしてくれるの?
彼の考えを見通そうと見上げても、薄い微笑みからは何も読み取れない。
「文書院の長はいたく感激していましたよ。我が国でこういった書物に関心を寄せる者は少ないので、嬉しかったのではないでしょうか」
「そうですか」
頼んでいたのは東の大国ブレンクラーレや学芸の盛んなオトラントの書物。イシュテンには、他国まで名が響くほどの本も著者もいないのだ。まして、女が本を読むことは珍しいらしく、アンドラーシは最初、シャスティエの言い間違いを疑って何度も聞き返していた。王妃の茶会で会う女たちから嫌われるのも、ならば道理なのかもしれない。
シャスティエは本を大事に胸に抱えると笑顔を作った。
「王妃様のお招きがない日は退屈しているものですから、とても助かります」
「お招きがあっても、ではないですか? 貴女とあの手の女たちでは話が合わなさそうだ」
――そうだとして正直に言えると思って? 何を言わせようというのかしら。
曖昧に笑って回答を避ける。そしてアンドラーシが石造りの椅子に掛けるよう促すのを黙殺する。別に仲良く歓談したくて来ているわけではないのだ。
「皆さま親切にしてくださいますわ。この国のことを色々と教えていただいているのです」
「彼女たちから教わることがありますか?」
――だから、何を言わせようというの?
苛立ちは顔に出さない。作り笑いを絶やさないのにも慣れてきた。
「まだまだ間違えることも多いです。例えばそう……先日はマリカ様のことをお世継ぎと申し上げてしまい、お叱りを受けてしまいました」
あの時のことを思い出すと口の中に苦いものが浮かぶ。自分自身が女は王にはなれないと嘲られて矜持を傷つけられた記憶が新しいにも関わらず、ごく自然に自国の常識で考えてしまっていた。いつまで王女のつもりなのかという叱責は甘んじて受けるしかない。王妃からは悪意を感じないだけに、軽率な言葉に恥じ入るばかりだ。
「それは痛いところを突かれましたね」
しかし、アンドラーシは声を立てて笑った。楽しげな口調と、そこに滲む強い嘲りの落差に目を瞠る。
「王妃に男児が生まれないのは連中の悩みの種だ……気にしているからこそそれを言われるのが不快なのでしょう。
幼い王女が成長するのを待つなど無理があるのは誰もが承知している。王家を女系でつなぐなど……大体、婚家名はどうするつもりなのかな?」
最後の方は半ば独り言のよう。いつもの薄い笑いではなく、悪意に満ちた嘲笑に戸惑う。思わず目をそらすと、近くの薔薇の茂みの赤い花が妙に目に染みた。
――ああ、この男は王妃様のご実家が嫌いなのね。
確かに権勢を振るう外戚など目障りなのだろうが。だからといって口に出すのは迂闊ではないか。シャスティエには訴える相手がいないと見くびっているのか、それとも何か狙いがあるのか。
見極めようと、シャスティエは会話を接いだ。
「婚家名とは?」
アンドラーシの表情が我に返ったように平静に戻り、いつもの薄笑いを浮かべた。
「イシュテンでは、女は結婚する際に夫の家から新しい名前をもらい、以降親からもらった名ではなくその名で過ごします。その新しく与えられた名を婚家名といいます。
女を名実ともに夫のものとするという……昔は妻といえば攫ってくるものだったので、その名残ですね」
――野蛮な習慣ね。
「それとマリカ様に何か関係が?」
アンドラーシは大仰に手を広げてみせた。やはりこういう気取った仕草は気に障る。
「王女が降嫁せずに王家に留まるとしたら、夫となる男が名前を授けるのは不敬になるでしょう。
一方で婚家名は後妻だろうと側妃だろうと関係なく与えられるもの。『二つの名前を持つ女』という表現が一人前の女を指すほどに。王女に婚家名を与えないとなれば、国で最も高貴な女性が女として半人前だというおかしな事態になりますね」
「それは大変ですね」
シャスティエの返答はごく冷淡だ。彼女にしてみればイシュテン王家が途絶えようと何の感慨もない。滅ぶ様を間近で見ることができるなら喜ばしいくらいだ。
――そもそもその状況でなぜ王が先頭に立って他国に攻め込むの。この国は王も臣下もバカばかりなの?
イシュテンにしても、この侵攻は無謀ではなかったのか。そう思うとシャスティエの爪は折角の本の表紙に食い込んで傷ませてしまう。しかし、アンドラーシは意に介さぬように問いかけてくる。
「貴女ならどうなさいます? 歴史にもお詳しそうだ」
――勝手に滅びれば良いのよ。
試すような物言いに苛立ちが募る。間を持たせるために本を抱え直し、かろうじて無難な答えをひねり出した。
「……男性の王族が皆無というわけではないでしょうし、これから王子がお生まれになることもあるでしょう」
「恥ずかしながら代替わりの際に骨肉の争いを繰り広げるのが我が国の伝統でして。説得力のある王位継承者はいないのです。王妃に関しては……あの方は貴女より十も歳上ですよ」
自国の王妃に対する明らかな侮辱に一瞬絶句する。しかもシャスティエを引き合いに出すとは。聞いている者がいないかと視線をさまよわせ、周囲に人の姿がないことに安堵する。そして同時に、誰かいればそれを理由に会話を打ち切れるのに、と思う。
「十分にお若く、お美しくていらっしゃると思います」
咄嗟の答えは無礼ではなかっただろうか。イシュテンの政争に巻き込まれるのも、あの優しい王妃を貶めるのも御免だ。
「貴女の方がよほど美しい、と私は思いますよ」
「――っ」
反駁しようとして、気付く。何もまともに会話をしてやる必要はない。相手を見倣って実のない微笑みを浮かべてやる。瞳を凍らせるのだ。余計な感情を見せないように。
「そんなことよりミリアールトの様子を聞かせていただけますか? お分かりいただけるでしょうか、異国で一人安穏と過ごすのはひどく耐え難いのです」
白々しくはあるが話題を変えると、相手も深入りはしてこなかった。何にせよ、祖国を案じるのは彼女の真意には違いない。
「それならばご心配には及びません。陛下は御自身と神の名にかけて無用な流血は避けると誓われた。ミリアールトの鎮撫を任せられたのは、ジュラと言って、私もよく知っていますが信頼できる男です。
それに、ミリアールトの服従は貴女の安全と引き換えでもある。別に引け目を感じることはありますまい」
答えを考える価値を認められない綺麗事だった。イシュテンが敗者をどう扱うかは子供でも知っている。彼女が知りたいのは、建前ではない。何より恩着せがましい言い草は不快でしかなかった。父たちや祖国に何をされたか、彼女は決して忘れはしない。
――
心中で例の言葉を噛み締めつつ、シャスティエは眉を顰めて唇を結んだ。その沈黙をどう捉えたのか、アンドラーシは面白いことを思いついた、とでもいうように笑みを深めた。
「私の言葉では信用できませんか。ならば陛下とお話しになれば良い。王妃には頼みづらいなら私から――」
「その必要はございません」
凍える声で切り捨てたのは、これ以上話したくはないという通牒でもある。本当のことを言うつもりがないなら、会話を続ける必要はない。
残念です、と言って笑うと、アンドラーシは強引にシャスティエの手をとろうとした。口づけしようとしているのを悟って振り払う。
「虚礼は不要です」
この上なく不快を露わにして見下ろしてやると、
「そんな顔をなさらないでください。笑っていた方が可愛いですよ」
などとふざけたことを言って去っていった。
――可愛い、ですって!?
アンドラーシの姿が見えなくなった瞬間、シャスティエは苛立ち紛れに薔薇の茂みを殴りつけた。石畳に赤い花びらが舞い散って、鮮血のよう。老いた侍女が小さな悲鳴を上げたけれど、構うものか。
容姿を褒められるのには慣れていた。でも、ここでは好奇と反感の目を集めるだけ。
聡明と言われて素直に喜んだこともある。でも、学んだ知識をもってしても何をすれば良いのか分からない。
復讐を強く誓ったにも関わらず、何もできないまま日々を無為に過ごしてしまっている。王妃が優しく大らかなだけに、甘えればどこまでも易きに流されてしまいそう。
茨で手に幾筋も血が滲み、じんじんと痛む。しかし、厭な男に触れられた不快感を上書きしてくれると思えば心地良い。
これは、萎えそうな矜持にくれる鞭だ。国のために何もできないで何が女王か。
――落ち着くのよ。見つけ出さなくては。この国の弱点、私に出来ることを――。
傷痕に唇を寄せ、花びらを踏みにじって。シャスティエは踵を返した。
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