第6話 無邪気な王妃 ウィルヘルミナ

 イシュテン王妃ウィルヘルミナは、この日を指折り数えて待っていた。

 ミリアールトへ遠征していた夫が凱旋するのだ。

 春先の出陣以来、花を愛でるにも新緑の森へ狩りにでるのも、夫の不在が寂しくてたまらなかった。ことあるごとにファルカス様はいつお戻りかしらとつぶやいては周囲の者にたしなめられたものだ。

 戦後の処理を一通り済ませて帰国の途についたとの知らせを受け取ったのがひと月ほど前。その時も小躍りして喜んだが、それから今日まで、時間が経つのがどれほど遅く感じたことか。


「久しぶりにお会いするのですもの、可愛くしてね、エルジー」


 ウィルヘルミナは、うきうきと弾む思いで乳姉妹のエルジェーベトに言った。幼い頃から親しく育った二人の間柄だから、口調は命令というよりもお願いに近い。主の浮かれようをよく知るエルジェーベトは、いかにも微笑ましいといった風に目を細めると快諾した。


「もちろんでございます。お召し物はこちらでよろしゅうございますか?」


 示されたのは、濃淡様々な緑の薄絹を重ねたふんわりとしたドレスだった。可愛らしくもあり、森の木漏れ日のような色合いが夏を迎えようとしている季節にぴったりだ、とも思い――ウィルヘルミナは躊躇いなく頷いた。


「これで良いわ」

「お髪はどうなさいます?」


 言われて、ウィルヘルミナは髪をひと房手にとって梳いた。夫がいなくても手入れを怠ったことのない、自慢の黒髪だ。結い上げて宝石で飾るのが正式だが、彼女自身は無造作に背に流して豊かな輝きを誇るのが好きだった。


「そうね、下ろしたままで……薔薇が咲いていたわね、それを挿しましょうか。マリカもおそろいにする?」


 五歳になる娘を抱き上げると、満面の笑みで「するー!」と答えた。お父様が帰ってくるのよと何度も言い聞かせたから、母の喜びが移ったかのように上機嫌だ。

 仲睦まじい母娘の様子を前に、エルジェーベトの笑みも深まる。


「それでは、早速お花を摘みに行かせましょう。お二人とも、花の精のように綺麗にして差し上げますわ」

「エルジー、ありがと!」


 抱きついてくるマリカの頭を撫でてから、エルジェーベトは主に向き直った。


「ところで、ミーナ様」

「なあに?」


 改まった調子に、ウィルヘルミナも身構える。


「あなた様は王妃でいらっしゃいます。五歳にもなるマリカ様の母君でもいらっしゃいます。

 陛下のお帰りを喜ばれるお気持ちは重々承知しておりますが、あまり人前ではしゃがないようにお気をつけくださいますよう――」

「分かっているわ。お父様のお立場とか、陛下のご威光とかのことでしょう?」


 まるで子供扱いの言いように、ウィルヘルミナは唇を尖らす。エルジェーベトは、基本的には彼女にとても甘い。そのエルジェーベトをして苦言を呈してくるということは、よほど心配されているということだ。人目をはばからず夫に抱き着くとか、口づけるとか――そんなはしたない真似をするほど、ウィルヘルミナだって幼くはないのだ。

 ウィルヘルミナは王妃になった、という意識は今ひとつ薄い。彼女は夫に恋して、とても幸運なことに夫もその想いに応えてくれた。そして結ばれて、娘にも恵まれることができた。それだけで済めば良いのに、そうはならないことが彼女には時々ひどく不思議に思えるのだった。




 それでも、エルジェーベトの諫言に従ってウィルヘルミナは我慢した。宰相でもある父ティゼンハロム侯リカードに従って粛々と王を出迎え、将兵をねぎらった。その後の晩餐の席では、興味のない話にも耳を傾けるふりをして、笑顔を保つよう精一杯頑張った。

 この間、夫に会えない間の寂しさや無事に帰った喜びを訴えることはできなかった。だから、抱きついて甘えたい衝動を抑えるのに苦労した。この点は、エルジェーベトの懸念通りだったかもしれない。更に、王は側近たち――リカードが言うところの悪友たち――と夜を明かした。

 そういうわけで、ファルカス王がウィルヘルミナの元を個人的に訪れたのは帰国の翌日となった。そして、最愛の夫を前にして、溜まりに溜まったウィルヘルミナの慕情は頂点に達した。


「お帰りなさいませ、ファルカス様!」


 ウィルヘルミナはファルカスの胸に飛び込んだ。彼女は女にしては長身の部類に入るが、王の鍛え上げた体躯は苦もなく王妃を抱き止めた。


「心配をかけたな」


 久しぶりに感じる夫の肌の温もり、髪の匂い。耳元で響く低い声に、本当に帰ってきたのだとやっと実感して胸が高鳴り、目頭が熱くなる。涙目になっているのを見られたら恥ずかしいわ、とウィルヘルミナは夫にますますぴったりと寄り添った。


「本当に……こうしてお会いできる日を、何度も夢に見ましたわ」

「大げさだな。変わりはなかったか?」


 苦笑する気配。髪をなでてもらう感触がくすぐったくて身をよじる。弾みで顔を上げると、こちらを見下ろす青灰の瞳と目が合って頬が熱くなる。


「ええ、何も。あ、マリカは少し大きくなりましたの。後で遊んであげてくださいね」

「そうしよう。――そうだ、土産があるのだが」


 言いながらファルカスは妻の体を腕から放した。温もりが離れていくのを名残惜しく思いつつ、ウィルヘルミナは謝意を述べた。


「お心遣いありがとうございます。でも、無事に帰ってきてくださったのが何よりのお土産ですわ」

「宝石や絹は後で届けさせる。とりあえず、一番珍しいのを連れてきた」

「連れてくる……?」


 土産物にしては不思議な言い回しに首をかしげる。そんなウィルヘルミナに軽く笑うと、ファルカスは背後を示した。


「あ……」


 そこで初めて、夫の後ろに控えていたのが侍女などではないことに気づいた。


「ミリアールトの元王女だ。客として遇することになったのでお前に預ける。言葉に不自由はないようだから異国の話が聞けるだろう」


 ――見られてしまっていたのね。


 夫の言葉にうなずきつつも、失態を見せてしまったのに気付いて気恥ずかしくなる。そこにいる娘が侍女かどうか――見知った顔かどうかも分からないほど、再会に夢中で周囲が目に入っていなかったのだ。

 元王女と呼ばれた女性はファルカスの目線に従って一歩前へ進み出た。


「シャスティエ・ゾルトリューンでございます。王妃陛下に拝謁を賜り、光栄でございます。

 敗残の身でありながら分に余る厚遇、両陛下には心より感謝を申し上げます」


 一息に述べた元王女は、確かにかなり流暢なイシュテン語を操っていた。目を伏せて深く跪いた所作も完璧な優雅さで、へりくだった言葉にもかかわらずこちらが気圧されそうだった。とはいえ、「私は何も見ていません」とでも言いたげな落ち着いた表情に、ウィルヘルミナは少しほっとした。

 そうして改めて元王女を眺めると、彼女が少女と言って良い年頃なのに驚く。


 ――お若いのにしっかりしていらっしゃるのね。心細いでしょうに……。それに、お人形みたいに綺麗な方!


 月の光を紡いだような金の髪も、宝石のような碧い瞳も、ウィルヘルミナが初めて見るものだ。整った顔立ちは、華奢な体つきと相まって丹精込められた人形のよう。人形、と喩えてしまうのは、彼女の表情がどこか硬くこわばっているからでもある。

 異国の地で恐ろしい思いをしているからだとしたらお気の毒だ、と思った。ウィルヘルミナは、若く美しい娘は楽しいことだけ考えて過ごせば良いと教えられてきたのに。


 ――お友達になって差し上げたいわ。


「えっと、シャスティエ、様? そんなにかしこまらないで頂戴? 私はウィルヘルミナというの……でも、みんなミーナって呼ぶわ。あなたもそうしてくださるかしら」


 跪くシャスティエを立たせて、手を取る。細く白い指に桜色の小さな爪。綺麗な方はどこもかしこも綺麗なのね、と、感心する。よく見れば地味な黒のドレスをまとっているのももったいない。


 ――瞳に合わせて冴えた青のドレスとか、お似合いじゃないかしら。ああでも薄紅色も華やかで素敵ね……。お髪も、編み込んだり結い上げたり飾り立てたところを見てみたい!


「……気に入ったようで何よりだ」


 呆れたようなファルカスの声に、また自分の世界に入ってしまっていたのに気付く。それでも、類まれなる美少女を目の前にした興奮は止まらない。


「こんな可愛い方、嫌いになることなんてできませんわ」


 そして、手を取られたまま硬直しているシャスティエに笑いかける。怖がらないでほしい、安心させて差し上げたいと思いながら。


「突然ごめんなさい。私ったらいつもこうで。でも、貴女が来てくれて嬉しいのは本当なの。……仲良くしてくださるかしら?」


 一度、二度。大きな碧い目が瞬く。


「……ありがとう、ございます……」


 はにかんだような微かな笑みは、思った通りにこの上なく可愛らしかった。




 屋外でのお茶会はあたたかい季節ならではの楽しみだ。今は少々暑くなってしまったが、濃い木陰と水辺という条件が揃えば十分に爽やかで快適な席が設けられる。シャスティエの無聊を慰めるにもうってつけだ。


 ――本当はお城の外が良かったんだけど。


 名目はどうあれシャスティエは捕虜で人質。夫に頼んでみたけれど、やはり安易に王宮の外に出すにはいかないらしい。イシュテンの風土を知ってもらおうと、近郊の森に連れ出そうという計画は禁じられてしまった。


 ――ひどいわ……。シャスティエ様に何ができるというのかしら?


 不満には思うがどうにもならず、今日も茶会の会場は王宮の一角となった。ウィルヘルミナにとっては自宅の庭先、少々飽きた感じは否めない。シャスティエの気晴らしに、と思ったのに結局いつもの場所である。

 とはいえ、王宮の庭にも良い点がある。確かに景観はこぢんまりとして自然の森に及ばないが、花々が色鮮やかに咲き競うのは手入れの行き届いた庭園ならでは。なにより、焼き立ての菓子を出せるのが素晴らしい。


「シャスティエ様、こちらの夏は、いかが? ミリアールトと比べると暑くないかしら?」


 卓上を彩る菓子が花畑のよう。艶やかな黒すぐりのタルト。赤と青のベリーのジャム。粉雪のように砂糖をまぶした揚げ菓子。バターと蜂蜜の甘く重い香りが漂う。


「はい、確かに気温は高いように思いますが……。王都の近くには河が流れていましたね、水の上を吹くからでしょうか、風が冷たくて心地良いと思います」


 卓を囲む女たちもまた花のようだ。張りのある生地で美しくドレープを描くもの。濃い色の絹に繊細なレースを重ねたもの。素材も色も様々なドレスをまとうのは、ウィルヘルミナの実家ティゼンハロム侯爵家ゆかりの女たち。王妃も幼い頃から親しんでいる、今は婚家から二つ目の名前をもらった貴婦人たちだ。

 シャスティエの言葉に反応したのも彼女たちだった。


「あの河はキレンツ河と言いますの。こちらにお住まいなのだから覚えていらっしゃった方が良いわ、シャスティエ様」

「冷たい、なんて言い過ぎではないかしら。涼しい、という言葉はご存知ですか?」

「水の上を吹く、も分かりにくいですわ。歌の詞では水面を渡る風、などと言ったりします」


 口々に言われて、シャスティエは小首を傾げた。金の髪がひと房、はらりと肩にかかる。


「キレンツ河の水面を渡る風が涼しくて心地良い、と申し上げれば良かったのですね。……発音には問題ございませんか?」

「凄いわ。完璧よ」


 ウィルヘルミナは感嘆の声をあげた。一度に言われたことをその場で飲み込んで、ぴったりの表現をこしらえるなんて。しかも彼女にとっては外国語なのだ。


「皆様のご指導の賜物ですわ」


 照れたように目を伏せるのがまた可愛らしい。空色のドレスに、夏の晴天の下で金色の髪が輝いて一層映える。無理を言ってでも出てきてもらって良かったと思う。


「そこのお菓子ちょうだい?」


 いつの間にか膝の上に登っていたマリカがシャスティエの方に手を伸ばす。


「マリカ、他の方のものを欲しがってはダメよ」

「いえ、ここのものは全て王妃様のものでございますから。マリカ様、どれになさいます?」

「赤いの!」


 マリカが選んだのは赤く染めた糖衣で花を描いた焼き菓子だった。頬張る前にお礼を言わせると、シャスティエに対して苦笑する。


「ごめんなさいね」


 シャスティエは晴れやかに微笑みを返す。


「可愛らしい姫君でいらっしゃいます。健やかなお世継ぎがいらっしゃって、王妃様もお心強いことと思います」


 あれ、と思った。マリカは確かに王女だが、女の子は王になれないはずだった。


 ――何か勘違いなさっている?


 その場の空気が凍っているのに気付く。その場の面々の表情も。木々を揺らす風すら先程までの爽やかなものではなく、まさに吹雪のよう。


 ――えっと、どうしよう……。


 衝撃から立ち直ったのは、周りの女たちの方が早かった。


「イシュテンでは姫君に継承権はありません! いつまでミリアールトにいらっしゃるおつもりです?」

「女が政に口を出すのがミリアールトの流儀とか。はしたないこと」

「無知を装って不敬を働こうなんて恐ろしい」


 不敬と言われてシャスティエの顔が蒼白になる。


「申し訳ございません。決してそのようなつもりでは――」


 席を立って地面に跪こうとするのを必死に止める。


「いいの、大丈夫だから! お国とは習慣が違うのだもの、仕方ないわ。

 それに、マリカが男の子を産めば何の心配もいらないもの。お父様が立派なお婿様を探してくれるって」

「王妃様のお父上様……?」


 茫洋と呟いたシャスティエに、くすくす笑いとともに刺のある言葉が投げられる。


「ティゼンハロム侯リカード様よ」

「この国の誰よりも力のあるお方。元王女のあなたよりもずっと」


 ――皆さまなんでそんな言い方をするの?


「やめてちょうだい! 私、気にしていませんから。シャスティエ様も、悪気があってのことではないもの」


 珍しく声を荒げると、女たちは沈黙した。シャスティエは申し訳ございません、と繰り返した。




 結局、その日の会は後味の悪いまま終わることとなった。しきりに恐縮するシャスティエを慰めて下がらせた後。ウィルヘルミナは自室に娘と二人でいた。


「お母様、お菓子おいしかったね」

「そうね」


 娘を膝の上に抱き上げて手で髪を梳くと、くすぐったそうに笑い声を上げた。


 ――マリカ。可愛い子。愛しい、私とファルカス様の娘。


 子供が娘一人であることを、ウィルヘルミナは本当に気にしていない。

 ウィルヘルミナから輝く黒髪を、ファルカスから青灰の瞳をそれぞれ引き継いでくれた、なによりも大事な宝物。男の子だろうと女の子だろうとその貴さは変わらない。

 むしろ女の子の方が髪型や着るものを考える楽しみがあるし、何より危ないことをしなくて良いから、喜ばしいくらいだと思う。普通の家なら嫁いでしまうのが寂しいだろうが、婿を迎えるならずっと一緒にいられる。


 ――だから、シャスティエ様もあんなに謝らなくて良いのに。


 ミリアールトでは女も国を背負うことがあるのだという。あの儚げな方には重い役目ではないのだろうか。イシュテンに来た以上は、そのような苦労は知らずに過ごしていただきたい、と思う。

 愛する夫。愛する娘。悩みもなく、美しいもの楽しいことに囲まれ、守られた世界。


 自分がこの上なく幸せであると、ウィルヘルミナは信じていた。

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