第5話 鷲の巣 アンネミーケ

 大陸の東に位置するブレンクラーレ王国。その王宮鷲の巣城アードラースホルストの謁見の間にて、王妃アンネミーケは臣下からの報告に耳を傾けていた。

 女王を認めるミリアールトなどと違って、ブレンクラーレでは王妃は本来は王の妻でしかなく、国を治める役にはない。しかし、彼女の夫君たる王は病弱で臥せって長い。ゆえに彼女が代理として治世にあたっているのだ。王が公に姿を見せなくなって久しいが、見識深い王妃に対する臣下の信頼は厚く、今日も国は滞りなく動いている。


「北方より報告が参りました。イシュテンの侵攻にあってミリアールトの王と王太子は戦死。王女は行方不明とのことでございます。まあ滅亡と言ってよろしいかと。……同盟は白紙でございますね、摂政陛下」

「うむ。残念だが仕方あるまい」


 一国の終焉を残念の一言で片付けると、本来は夫君のものである玉座に背を預け、アンネミーケは嘆息した。彼女が第一に気にかけるべきは自国の民であって、他国のことはいかに利用するか、という観点でしか見ていないのだ。

 なお、摂政陛下とは彼女のために考えられた称号だ。ブレンクラーレ語において王妃と女王は同じ単語をあてるため、王妃陛下と女王陛下の区別がつかない。妃でありながら王であるかのように名乗るのは不遜だろう。

 そこで献じさせたのが摂政陛下なる称号だった。単に王と区別をするだけではない。王に代わって統治権を掌握していることを強調する呼び方になる。王に愛され子を産み育て、形ばかりの助言を行い微笑みを振りまく。ただそれだけの存在だった歴代の王妃と自分は違う。それが彼女の自負なのだ。


「イシュテンの獣どもは相変わらず素早いこと。また何かしら策をこらさねばならぬなあ」


 勇猛さと残虐さを兼ね備えたイシュテンの騎馬は周辺の国にとっては悩みの種だ。彼方から嵐か疫病のように駆けてきた民族、その大小の部族が興亡と統廃を繰り返して国の体をなしたのがやっと百年と少し前のことだ。以来多少の常識を身につけたものの、依然厄介なことに変わりはない。現在イシュテンと呼ばれる地に定住するまでは略奪を生業としていた連中だから、何か不足があるとしばしば他所の国から奪ってくるという発想にいたるのだ。まったく野蛮極まりない。


 ミリアールトと組めばイシュテンを挟撃できる形になり、牽制になるかと思ったが――かの小国には任が重かったようだ。援軍を送る間もなく滅ぼされるとは、期待はずれとこぼしても許されるだろう。


「母上。ミリアールトの王女殿下は私の妻になるはずだった方です」


 嘴を挟んだのは王太子のマクシミリアンだった。赤金色の髪に、晴天のように底抜けに青い瞳。端正な甘い顔立ちは幸いにも母親より父親にそっくりだった。ただし軽薄で女好きな性格も父親から受け継いでいて、どうも信用を置くことができない。なのでアンネミーケは慎重に訂正した。


「間違えるでない。候補の一人に過ぎなかった」


 確かに最有力の候補――というか、内々ではほぼ決まった話ではあったのだが。軍事面では今ひとつとはいえミリアールトは伝統あり文化の誉れ高い国。ブレンクラーレとも釣り合いは取れていたのだ。

 今となっては正式に婚約が整っていなくて良かったと思うが。王太子妃の実家の危機を見捨てたとあってはさすがに外聞が悪かっただろう。ゆえにマクシミリアンの言葉は母の耳には軽率に過ぎると聞こえた。


「ともあれご縁のあったことに変わりはないでしょう。王女殿下の救出のために軍を動かすべきです」


 ――バカ息子が。


 臣下の手前声に出すことは控えたが、王太子の発言にアンネミーケはうんざりとした。甘ったるい。固まった蜂蜜を口に押し込まれた気がする。

 彼女の機嫌と顔色をよく読んだ従者がすかさず差し出した濃い茶を含んで気を落ち着ける。苦いほどの味が脳に刺激を送り目を覚まさせてくれるのだ。


 食べ物でも飲み物でも考え方でも、彼女は甘いものが大嫌いだった。世の女に甘えた考えのものが多いのは、甘いものばかり好んで食べているからだと思っている。夫君が侍らせた女たちもことごとくそうだった。飴玉のような瞳や綿菓子のような乳房を持った、実のない甘ったるい女たち。王太子に取り入ろうとするその種の女どものお陰で、息子の気性もすっかり砂糖漬けにされてしまったのだろうか。


「王女のことは諦めよ。もう生きてはいまい。その方が彼女のためでもある。物の分かった姫であれば、蛮族どもの慰みものになるよりは自ら死を選ぶであろう」


 吐き捨てると、アンネミーケは息子の顔を眺めた。

 こいつは一体何を期待しているのか、と不思議に思う。ミリアールトの王女は確かに大変に美しく賢いという触れ込みだった。届けられた肖像画もその評判に則ったものだった。しかし、自身の首の懸かった画家がバカ正直に現実を画布に写すとは限らない。そして肖像画を信じるとしても、美しさと賢さは両立しないというのがアンネミーケの信条だ。ミリアールト側の言い分通りの姫が本当にいるなど信じがたい。政略結婚の釣書を丸呑みにした上で、会ったこともない姫のために数多の人命を費やそうなどと考えるほどの暗愚に育ててしまったのかと不安を覚えた。


「嫌だなあ、母上。私もそれくらいは承知しておりますよ」


 母の心配をよそにマクシミリアンはへらへらと笑った。その表情までも父親にそっくりな表情だから、アンネミーケの心が軽くなることはまったくなかったが。


「どれほど美しくても汚された女を妻にするわけにもいかないし。

 ただ、口実にはできるでしょう。どこからも文句を言わせずイシュテンを攻め、国境周辺の領土を奪ってみせます。生死不明というのはこの際都合が良くはありませんか?」

「ふむ」


 息子が恐れたほどに愚かではなかったので、アンネミーケはは安心した。しかしまだまだ甘い。彼女が王に求める水準には届いていない。


「奪うのは国境周辺だけか? 国境線をいくらか動かしたところで意味はない。そなたの考えは性急に過ぎる」


 特別の理由がなくても、内情に余裕ができればイシュテンはその剣を隣国に向ける。軍の強さが王権の強さという、獣のたちの国なのだから。そして領土を奪われた国は報復を仕掛ける。その逆もまたよくあること。今イシュテンを攻めたところで数十年後、下手をすると数年後にはその成果は失われてしまうだろう。


「はあ……」


 釈然としない様子の王太子に、母たる摂政陛下は微笑みかけた。父たる王が不在の今、王の何たるかを教えるのは彼女の役目だった。剣を交えるばかりが戦いでないと、息子に教えていかなければならない。敵の情報を集め吟味すること、先を見据えて策を練ることも、だ。


「イシュテンは強い。が、内情は脆い。数年のうちには必ず付け入る隙ができるであろうよ」


 イシュテンの王妃は美しいと聞いた。複数の妻を許されたイシュテン王には珍しく、妍を競う側妃や寵姫は一人もいないとも。まあ王妃の父の影響力も大きいとは聞いているが。

 とにかく、背ばかり高くて痩せぎすで、夫君の寵愛は薄かったアンネミーケとは大違いということらしい。しかし、彼女は全く羨ましいとは思わない。それは、彼女が夫君を愛していないからだけではない。王の妻にとって最も重要なのは、美貌でも愛でも、見識ですらないからだ。

 それは、王子を産んで王家の血をつなげることだ。

 イシュテン王と王妃の間には幼い王女がただ一人しかいない。十年の間でただ一人なら、今後もイシュテン王妃に子が恵まれる可能性はごく低いと考えて良いだろう。男子を産めなかった時点で王の妻としては彼女の方が勝っている。そして世継ぎの不在こそ、イシュテンの最大の弱みにもなろう。


 ――束の間の勝利に驕るが良い、イシュテンの王。


 居並ぶ臣下を見下ろして、アンネミーケは嗤った。


 イシュテン王個人の武勇や軍の強さは問題ではない。戦場の勝敗が全てを決すると思っているなら、若いとかいうイシュテン王はいかにも愚かだ。権力を求める内憂は、剣によって抑えきれるものではない。かの王が今第一に考えるべきは外を攻めることではなく、内を固めること、すなわち男子を産める女を迎えることだ。正統な後継者のいない国は必ず荒れるものなのだから。


いたずらに兵を動かし民の命を削るなど下策だ。我らはイシュテンの獣とは違うのだから。我らブレンクラーレが戴くは睥睨するシュターレンデ・アードラーの神。遥かな高みから地上を見そなわすかの大鷲の神のごとく、獲物が隙を見せる時を待てば良い」


 その時こそ、彼女が動く時だ。


 実質上の女王の自信に溢れた声に、臣下は揃って頭を垂れた。

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