第4話 追憶の夢 祈りの言葉 シャスティエ

 夢を見ている、とシャスティエは思った。これは現実のことではない。

 それは自分がいるのがありえない場所であり、目の前にいるのがありえない人だからだった。


 彼女はミリアールトの王宮の、庭園を見下ろす露台で本を読んでいた。生まれ育った懐かしい場所の懐かしい風景。でも、目が覚めれば恐らく二度と訪れるのが叶わない場所。

 相対して座っているのは、従弟のレフだった。従兄弟の中でも最も歳が近く、最も親しかったと思う。でも、彼もきっともう生きてはいない。


『今度は何を勉強してるの?』

『イシュテン語よ』


 ――この会話は覚えがあるわ……。


 シャスティエは自分の口が動くのを他人事のように眺めた。夢ならではの不思議な現象で、レフと話す自分と第三者の視点から傍観する自分が同時に存在している。

 夢は、しばらく前に交わした会話をなぞっているようだった。


『君があの国に興味を持つなんてね。乗馬は得意じゃないだろ?』


 レフが呆れたような目を向けてくる。確かにイシュテンと言えば猛き戦馬の神を奉じる国。対してシャスティエは乗馬どころか外での遊びを好まない質だった。

 レフの瞳は、シャスティエと同じ碧い色をしている。金髪碧眼は王家の血筋に多い特徴だけど、中でもこの従弟と彼女が共に持つ月の光の金の髪と宝石の碧の瞳はとりわけ珍しく美しい。レフは顔立ちも整っているので、シャスティエとはのようだとよく言われる。――言われていた。


「だって彼らの話していることがわからないのは困るわ。私はこれからイシュテン人の中で過ごさなければならないのですって。あの蛮族どもと。信じられる?」


 答えたのは現在の――傍観者としてのシャスティエだった。レフはもう答えを返してはくれないのに。実際には、この時はお隣だから一応、とかそんなことを言ったように思う。イシュテンはこの十年ほどは内憂のために国外を攻めることはなかった。残虐な侵略者という姿は、シャスティエにとっては歴史の一幕に過ぎなかったのだ。こうなると分かっていたなら、もっと身を入れてかの国のことを学んだだろうか。否、どの道無駄だっただろう。ファルカス王の剣を前に、彼女の知識も覚悟も何の役にも立たなかった。


『そんなことより他に勉強した方が良いことがあると思うけど。編み物とか。今年は編み込みをできるようにするとか言ってなかった?』


 痛いところを突かれて、夢の中のシャスティエの頬が赤く染まった。

 ミリアールトの王女は教養高いことで有名、とは言うものの、それは刺繍や編物など女らしい嗜みをそっちのけで兄や従兄弟に混ざって学んだ結果。兄たちが剣などの修練に励んでいる間も読書に勤しんできたために、シャスティエの得意分野は著しく偏っており、親しい身内にはしばしば揶揄され心配される。――されて、いた。


『寒くなったらまたやるわ。叔母様に見ていただくの』


 過去のシャスティエは憤然と顔を背けた。ミリアールトの夏は短いから。すぐに再開することになると思っていたのだ。この時は。

 現在のシャスティエは暗くうそぶく。


「人質の編み物の腕なんて誰も気にしないわ」


 そして叔母のことを思って悲しみと罪悪感に胸を引き裂かれる。娘同然に可愛がってくれたというのに、刺繍や編み物の腕のことでは呆れ嘆かせるばかりだった。挨拶もできずに旅立つことになってしまった。

 何より叔父と従兄弟――叔母にとっての夫と息子たちのことに思いを馳せるとひれ伏して詫びたいと思う。もう叔母に会うことはできないけれど。戦場で散ったらしいレフを別にすれば、皆シャスティエのために命を投げ出したのだ。


『はいはい』


 レフは過去のレフだから、現在のシャスティエの言葉は聞こえていないし、彼女の懊悩は見えていない。彼は少女のような美しい顔に苦笑を浮かべて立ち上がる。


『そういう好き嫌いのはっきりしたところが大好きだよ、従姉殿。……でも僕や兄上たちもずっと一緒にいられるわけじゃない。気が強いのもほどほどにね』

『……レフのくせに』


 夢の中のシャスティエが不服そうに唇を尖らせる。弟分の生意気な物言いが気に入らなかったのだ。実は歳下といってもほんの数ヶ月の違いだったのだけど。でも、彼に身長を追い抜かれたのに気付いた時などは、彼が許しがたい罪を犯したかのように責め立てたと思う。彼に対しては、いつもそんな風に偉そうに理不尽に振舞ってしまった。振り返れば、全て甘えだったと思う。


「レフ……」


 一方、現在のシャスティエは言葉に詰まる。この時彼が念頭に置いていたのは、彼女が異国に嫁ぐ可能性だったとはわかっている。実際、父王のところには他国の使節が出入りしていた。王家に生まれた者にとって、国のための結婚は当然のこと、不服に思うなどとんでもない。

 けれど、今となっては永の別れの言葉のようで。夢とわかっていながらもっと話したいと思ってしまう。

 レフが背を向けて去っていくのを必死に呼び止める。彼を止められれば、生き返らせることができるかのように。


「待って。行かないで」


 しかし、夢の影に彼女の言葉は届かず、レフは遠ざかっていく。

 気がつくと視界に赤が滲んでくる。それは不吉で忌まわしい血の色。父や兄や叔父、従兄たちが流した血だろうか。レフの姿も赤に染まっていく。彼の死を暗示するかのように。


 ――やめて! 見たくない!


 声にならない悲鳴が口をついた。




「――様、シャスティエ様!」


 目を開くと、イリーナが心配そうな顔で覗き込んでいた。この忠実な侍女は、よく考えろと言ったのに即答で着いて来ることを決めてくれた。

 閉ざされた窓から覗く光と身体に伝わる振動から、馬車の中でうたた寝していたことを思い出す。ミリアールトを発ってもう何日経ったか。イシュテンの王都まではまだ遠いという。シャスティエの内には心身の疲れが蓄積されていた。


「お休みのところ申し訳ありません。うなされていらっしゃったので……」

「いえ、助かったわ」


 シャスティエは額に滲んだ汗を指先で拭うと溜息をついた。夢とはいえ、従弟が死ぬ場面など見たくはなかった。


 あんな夢を見た理由はわかっている。

 同郷の者はイリーナだけという環境で、シャスティエのイシュテン語は日々上達している。すると耳に入るのは、周囲の兵士の交わすやり取り。他愛のない雑談や、喧嘩。よく意味の分からない猥談。真面目に戦術を論じる者もいる。

 それに、誰が誰を討ち取ったか、という自慢話。


 決して聞きたくはない。けれど、消息の知れない末の従弟の最期が知りたくて、どうしても耳を傾けてしまう。

 今のところ金髪の美しい青年を殺したという話は聞かない。それでも、戦死した者の名を数えると、祖国が被った痛手を思い知らされて胸を引き裂かれる。

 親しく話したことがある者も、名前程度しか知らない者も。あまりにも多くの人命が戦場に散った。


「もう少し目を閉じていてください。私が御手を握っていますから。……夜もあまり眠れていらっしゃらないのに」


 傍らの侍女の温もりと心遣いを嬉しく思う。しかし、イリーナの手を握り返しながらも、シャスティエは首を振った。


「大丈夫。起きているわ」


 そこへ、馬車の外から声が掛かった。


「姫君? 何か問題でも?」

「いいえ。何も!」


 アンドラーシとかいう優男の声だ。嫌味な癖に目敏くて、何かとシャスティエたちに構ってきてまったく気に障る。答える声は、必要以上に鋭く刺々しいものになった。それでも、胸の内に掻き立てられた怒りと苛立ちは、シャスティエにとって歓迎すべきものだった。彼らへの憎しみは、忘れてはならない。


 そうだ。嘆いても時間は戻らないし死者は帰らない。

 夢で親しい人に会えるのを期待して、目覚めた時に泣くのはもう止めだ。


 これからのことを、考えなければ。どのように復讐してやるか。


私はヤー・復讐をクリャースタ誓う・メーシェ……」


 その言葉は彼女にとってはもはや祈りだった。今の彼女はまだ無力だから。

 怒りを憎しみを、誇りを忘れないため、繰り返しこの言葉を唱えて激情を何度でも燃えさせるのだ。イシュテンの王宮についた後でも、祖国の言葉での祈りは彼女の支えになってくれるだろう。


 ――周りに敵しかいなくても。決して屈したりするものですか……!


 決意したシャスティエの瞳は、熱すぎる炎のように碧く燃えていたことだろう。

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