第3話 鷹の王 ファルカス

 秋の高い空の下、二羽の鷹が競うように風を切って飛んでいる。

 彼らが狙うのは水辺にたたずむ青鷺。狙われた獲物は、間近に落ちた影に敵が迫っていると気づいて飛び立とうとするが、間に合わない。広げかけた翼は一羽の鷹の鋭い爪にあっさりと掴まれ、血と羽毛を宙に撒く。

 一歩遅れたもう一羽の爪は虚しく空を切り、一声怒りの鳴き声を上げると再び上空に舞い戻る。それはファルカスの鷹だった。


「放つのが少し遅かったか」


 微かに悔しさを滲ませて呟くと、左腕を掲げて鷹を呼び戻す。よく訓練された猟鳥は、迷わず主人の元に戻るとその手に止まった。厚い革越しに爪が食い込む感触がある。


「最近は政務の方がお忙しかったご様子、勘が鈍られましたな」


 鷺を仕留めた鷹の主が得意げに言う。とはいえ不快とは感じない。今回連れているのは付き合いの長い腹心ばかり。王に遠慮して獲物を譲ったとあっては却って不興を買うことを皆心得ている。


「黙れ。すぐに取り戻す」


 苦笑で返すと、ファルカスは次の獲物を求めて馬を走らせた。


 イシュテンの男は、武器や馬の扱いに習熟するため、または単純に娯楽として狩りを嗜む。

 国王であるファルカスも例外ではない。槍を振るって鹿などの大型の獣を屠るのも血が沸き立つが、彼は鷹を使った狩りも好きだ。空を駆けるのは翼あるものだけの特権だが、鷹を操ることでその恩恵に浴した気分になることはできるのだ。




 その後、ファルカスは宣言した通り水鳥や兎などを仕留め、面目を果たした。臣下たちもそれぞれに猟果を上げたところで休憩を取ることにした。

 地面に直に座り、干した肉や果物を囓っては革袋に入った葡萄酒を回し飲む。狩りは主従の垣根を取り払い、絆を深める場でもある。

 全員に酒が行き渡ったところでファルカスは口を開いた。


「付き合わせて悪かったな」


 今日臣下を集めたのは、もっぱら彼の気晴らしのためである。

 舅のティゼンハロム侯リカード主催の狩りの日取りが近づいている。犬と勢子を使って数日掛りで獲物を追い詰める大規模な狩りはそうしょっちゅう開けるものではないからそれ自体は心躍らないでもない。が、ファルカスが招かれた名目はあくまでティゼンハロム家の若者の技量を見せるため、というもの。主賓たる彼に許されたのは狩りの様子を傍観することだけで――それは、つまらないことこの上ない。

 リカードは義理とはいえ父であり、同時に権力を奪い合う政敵でもある。そんな男の前で仏頂面を晒すわけにもいかないので、気心の知れた仲間内で狩猟熱を鎮めようというのが今日の趣旨だった。


 その辺りの事情は皆了解しており、口々に慰めとも同情ともつかない言葉を口にする。


「いえ、ちょうど退屈していたところですので」

「ティゼンハロム家の禁猟地といえば絶好の狩り場なのに、見ているだけとは却ってお気の毒な」

「小僧どもが未熟だからと言って短慮を起こしてはなりませんよ?」


 遠慮ない発言に彼らの本心と分かり、ファルカスは頬を緩めた。


「そうだな。せいぜい大人しい婿を演じてくることにしよう」


 柄にない殊勝な台詞に笑いが起きた。


「時に」


 そこへ割って入る声があった。


「例の姫君を連れて行かれるというのは本当ですか?」


 ――またその話か。


 笑顔から一転、ファルカスの眉間に皺が刻まれる。

 例の姫君とは言うまでもなくあのミリアールトの元王女だろう。本人の記憶も苛立たしいが、彼女を王宮から出すようにと義父と妻に代わる代わる頼み込まれて辟易したのがつい先日のこと。ついには折れたわけだが、見た目だけは美しいあの娘を衆目に晒せば騒動が起きるのは確実で、今から気分が悪い。

 自然、問いただす声は険しくなった。


「何故知っている、アンドラーシ」


 澄ました顔で自身の鷹に干し肉をやる男を睨む。しかし、答えは別のところから次々と上がった。


「噂になっておりますよ。方が吹聴して回っていますから」

「狩りの褒美にあの娘を妻に望むつもりだとか」


 ファルカスの眉間の皺が深くなった。

 とりあえず、リカードが元王女を引っ張り出すのにこだわった理由はわかった。王妃よりも若い上に美しいと評判の娘を奴が煙たく思っているとは聞いている。直接排除するのが難しいからと搦め手できたのはいかにもあの古狸らしい。だが――


「舅殿のせっかくのお膳立てを、事前にバラすとはどういうつもりだ?」


 この手のことは不意打ちでなければ意味がない。まあ不意を突かれたところで撥ねつけるのだが、策を知っていればいくらでも対策を講じることができてしまう。

 噂を知っているらしい臣下を見渡すと、ある者は肩をすくめ、ある者は嘲笑を浮かべた。


「バカなのでしょう」


 聞くまでもないことではあった。要はその一言なのだが。

 名門ティゼンハロム家の権勢を笠に着た若者たちはとかく度し難い。自力で権謀術数を生き抜いてきたリカードなどとは違って、生まれた時から権力を当然のごとく享受して自身に都合の良い展開に慣れきっている。

 この件も、王の耳に入ることまで考えられないのか、入ったところでどうにでもなると思っているのか。


 ――いずれにしても舐められたものだ。


「決めたぞ。リカードに遠慮などしてやらぬ」


 絞り出した言葉は、怒りで低い唸り声のよう。


「黙って見ているのは止めだ。若造どもの根性を叩き直してくれる」


 自身も若造と言われる年齢であることは棚に上げる。歳ではさほど変わらないものの、十代で即位して以来戦の先頭に立ってきたファルカスと甘やかされた貴公子たちでは経験に雲泥の差がある。


「わざわざ躾てやるとはお優しいことです」


 冷淡に評したのはアンドラーシで、更にわざとらしく笑みを作ると話題を戻してくる。


「で、あの姫君ですが――」

「バカどもにくれてやるわけにはいかぬ。褒美は――褒美に足るだけのことが連中にできるならだが――別のものを考えておく」

「ですが、今回は良くてもあの方の容姿が知れ渡ります。今後何かと理由をつけて下賜をせがまれるのは目に見えている。いちいち断るのも面倒でしょう」

「…………」


 アンドラーシの指摘は確かに現実のものになりそうだったので、ファルカスはただ舌打ちした。


 彼としては元王女の美醜に関心はない。

 重要なのは彼女の安全と引き換えにミリアールトは降伏を受け入れたということ。娘一人に対して過分の代価を得た以上は、彼の名誉にかけてもその身を守らなければならない。人目を避けているのは、あの娘の不遜な言動が招きかねない敵意や反感を警戒しているだけ。王である彼に対してさえ遠慮しなかったあの娘のこと、臣下の身分にある者たちに品定めの目で見られて、黙っていられるとは思えない。

 そう、全ては元王女の安全のため――なのに、若い女を王宮深くに匿っているという事実だけで邪推されるのが忌々しい。


「そこで。面倒を避ける手がありますが……」


 したり顔で続けようとする内容は、聞かずともわかっている。側妃に娶ってしまえというのだ。確かに、元王女に関する厄介ごとだけは解決する手ではあるが――


「うるさい。聞かぬ」


 それではティゼンハロム家に真っ向から喧嘩を売ることになる、だとか。そもそもあの娘は好みではないとか。


 ミリアールト以来何度となく繰り返した拒絶をまた言うのが面倒で、問答を打ち切る。

 他の者たちが完全に面白がる表情なのも癪に障る。


「愚図愚図するな。もう一回りするぞ」


 立ち上げり、一人馬上に上がれば、地に座った臣下たちを見下ろす形になる。慌てて後を追う彼らや驚いて羽ばたく鷹たちを小気味良く眺めて、ファルカスは笑った。


「絶世の美女を相手に、何がご不満なのやら……」


 贅沢を言うな、と言外に匂わせた揶揄とも苦笑ともつかない呟きを聞きとがめる。

 言ったのがアンドラーシなら黙殺しているところだが、他の者の言だったので答えてやることにする。


「王を名乗りながら国の大事に泣き喚くしかできなかった女だ。用などない」




 一行は腹ごなしとばかりに馬を走らせる。片腕に鷹を乗せたまま片手で手綱を使うのは、戦場で剣を持って戦う際の訓練でもある。乗馬も狩りと同じくイシュテンの男が修めるべき技の一つ。戦馬の神を奉じるからには、自身の手足と同様に馬を操ることを覚えなければならない。

 ファルカスは少し離れたところにある丘を目指すつもりだった。

 秋を迎えた平原は夏の一面の緑ではなく、草が枯れて黄色がかってきている。植生の密度も低くなっているため、高台に登れば獲物となる鳥や獣の様子をよく見て取ることができるだろう。


 一行の先頭を駆けるファルカスに近づく一騎がある。彼の馬と全く同じ速度でぴたりと半馬身後ろについたのは、アンドラーシである。


「先ほどのお言葉ですが――」


 性懲りもなく、と一喝しようかと思うが、珍しくためらいがちに切り出したのでとりあえず聞いてやることにする。振り向くことはしないが、聞いている証拠に馬の足並みを一定に保つ。


「あの姫君のこと、無礼だから生意気だからとお嫌いになるならわかります。が、王らしくないから、とは。女の王を認めるような口ぶりではありませんか」


 ――人の言葉尻を捉えて小うるさい奴。


 この男、人の感情の機微を読んだ上であえて痛いところに踏み込む悪癖がある。敵に対しては動揺を誘う手であるし、歯に衣着せぬ物言いは基本的には好ましい。だが、女のように整った顔に浮かべる微笑みが、たまに殴りつけたくなるほど苛立たしい。


 確かに認めざるを得ない。イシュテンの法が否定しようともあの娘はミリアールトの女王だ。

 血筋も容姿もこの際関係ない。ミリアールトの貴族、文官、武官がこぞって小娘の言葉に従って降伏し、彼女のために命を投げ出すことを惜しまなかった。臣下にそこまでさせる者を王と呼ばずに何と呼ぶのか。


 だが、同時に彼女は王としての資質に著しく欠けている。

 そもそも自分ひとりの命で全てを贖おうというのが傲慢だ。小娘が王を名乗っただけでその首が国と同じ価値があるなどと、なぜ敵が信じると思ったのか。思い通りにならないからと知るや泣き喚き、挙句にあっさり意識を手放した。子供の駄々と変わらない。

 実際にミリアールトの歴史にしめやかに幕を降ろしたのは、あの娘にとって叔父にあたる王弟だった。彼が話のわかる男だったのは幸いだ。彼らの女王の無事を手厚く保障したのはファルカスなりの礼のつもりだ。

 お互い納得ずくの結果だというのに、あの娘は目覚めた途端に激昂し、彼をひどく詰った。実に理不尽かつ不快な出来事だった。


 しばし馬の蹄と耳元を通る風の音だけが流れた。


「陛下?」


 訝る声に何と言おうかと考え、一瞬で答える必要ないと結論づける。臣下に対していちいち王の何たるかを説明してもわかるまい。ゆえに答えはごく大雑把に留めた。


「女の王などありえない。要はあの娘が気に入らぬというだけのこと」

「で、あれば良いのですが。いえ、できればあの方を気に入っていただきたいのは山々ですが」


 あくまで口の減らない側近を今度こそ黙らせようと、息を吸い――良い意趣返しを思いつく。ファルカスは初めて振り返るとにやりと笑った。


「マリカに跡を継がせると言い出すとでも思ったか? ティゼンハロム家の娘が産んだ子には忠誠は誓えぬと?」


 ティゼンハロム嫌いが高じた結果、アンドラーシは王妃も嫌っている。誰もが知っていることではあるし、かといって公然と口にすることはないと信を置いてはいるものの、たまには釘を刺しておくのも良いだろう。


「っ、決してそのようなことは……」


 予想通り狼狽した表情を引き出せたことに満足する。


 丘の麓に着き、上り坂にかかったので手綱を引いて馬足を緩める。腕に止まった鷹が均衡を取ろうと軽く羽ばたいた。

 アンドラーシは依然ファルカスの一歩後ろに続いている。気勢は削がれたものの、まだ言い足りないことがあるということか。


 ――この際だ。あの娘にも釘を刺しておくか。


 他の者たちが声の届かない距離にいるのを確認し、目線で近くに呼び寄せる。


「お前、近くあの娘に会う機会はあるか?」

「はい、書物を届けに――」

「用件はどうでも良い。狩りの時は気をつけるように警告してやれ」

「そういう目で見られていると知ったら気を悪くなさるのでは?」


 本人の意思を無視して側妃に据えようとしている男が白々しい。

 あの女の気分など知らぬ、と言おうとして考える。警告するとして、どう伝えるのか。

 躾のなっていない若造どもの劣情の標的になっているから気をつけろ、などと言ったらあの気位の高い女はどんな反応をするだろう。あの女の振る舞いは、少なくとも高潔という点では非難の余地がないのだ。


「全てを話す必要はない。国の恥だ。そう、口を慎めとでも言えば良い」


 ――なぜあの女にこうも気を使わなければならぬのか。まったく面倒な……。


 絶対に許さないとまで言われた相手だ。あの恨みがましい目つきと共にあの時の苛立ちが蘇り、ファルカスは奥歯を軋ませた。


「承知いたしました」


 答えた声がやけに弾んでいるので、不審に思って振り返る。すると、満面の笑みを浮かべたアンドラーシの姿があった。


「思いのほかあの方を気にかけていらっしゃるようで、嬉し――」

「アンドラーシ」

「はい」


 飄々とした側近のとぼけた顔を睨みつける。


「さすがにくどい。これ以上くだらぬことで俺の耳を煩わせるなら、マリカの遊び相手を申し付ける」


 妻も持っていない男に五歳の娘の子守は辛かろう。

 案の定、アンドラーシは顔を引きつらせると軽く頭を下げ、今度こそファルカスの傍から離れて後方へ下がった。




 丘の頂上に立つと王都近郊の景色を一望できた。堅固な城壁で囲まれた王都、大小の通りと家々がひしめくその中心に、庭園の緑が混じる一角が王宮だ。名目上はファルカスのものであるはずだが、従わぬ者も数多潜んでいる。


 ――俺があの女を気にかけている、だと?


 ファルカスは先ほどのアンドラーシの言を苦々しく反芻し――すぐに戯言と切り捨てる。

 滅ぼしたとはいえ一国の王の身柄を預かったのだ。その処遇に心を砕くのは当然だ。

 しかも、誰もが彼女の美しさに気を取られるばかりで、その身の重要性に気付いている者はごく少ない。聞けば娘自身も無為な日々に不満を持っているという。本人でさえどれだけその意味に気づいているか。


 ――止めだ。


 そもそも今日の狩りは日頃の鬱憤を晴らすためのもの。アンドラーシに邪魔をされたが、面倒事をわざわざ今考える必要はない。


 獲物を求めてファルカスの目は草原をさまよう。狩猟の勘を取り戻した今、彼の目は鷹のそれと同化したように鋭くなっている気がする。

 何を狙おう。

 鳥か、兎か。娘のマリカへの土産になるものが良い、と思う。どうやら娘は外遊びが好きなようだ。寒くなるこれからの季節に、毛皮が取れるものを持ち帰りたい。兎の外套も悪くはないが、どうせなら――


 ――狐だ。


 赤茶色の影が跳ねるのを認めた瞬間、腕を上げて鷹を放つ。獲物を取る際に宙に跳んで上から狙うのが狐の習性。それが鷹の目に留まったのだ。

 翼を広げた鷹は風の速さで地上の獣に迫る。爪が毛皮に触れた瞬間、狐も逃れようと身をよじるが、遅い。抵抗虚しく地面に縫い留められ、次第に動きを弱めていく。

 遥かな距離を越えて、狐の心臓の鼓動が消えていくのをファルカスは心地よく感じ取った。


 ――獣の世界は単純で良い。


 力ある者が生き残り、力ない者が死んでいく。そして力とは即ち強いこと、だ。

 人の世界はもっと複雑で、強さも知恵も、血筋も地位でさえも決定的な力とはならない。

 ファルカスは剣を取れば強い。並ぶ者はそういない。王の血筋に生まれて、若くして玉座も得た。なのに、実際は自分の国のことでさえままならないことが多過ぎる。


 少なくとも、今はまだ。

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