第2話 対峙、そして誓い シャスティエ
シャスティエが目覚めたのは慣れた自室の寝台の上だった。朝晩眺めた天蓋の装飾を、身間違えるはずがない。髪は解かれ、衣装も絹の寝間着に着替えさせられている。
窓の外を見ると既に星が瞬いている。星の並びを見るに時刻は夜明け前だろう。なぜこんな時間に目覚めたのだろうと一瞬不思議に思うが――
「――っ」
次の瞬間、記憶の断片が脳裏にひらめく。
叔父の背中。イシュテン王。怒号と刃の煌めき。血の臭い。処刑。
――私はどれだけ眠り込んでいたの!?
焦燥感をバネにし、て跳ね起きる。豪奢な天蓋をかきわけ、靴をつっかけ、転がるように部屋から飛び出そうとしたところ、彼女付きの侍女イリーナと鉢合わせた。
「シャスティエ様!?」
「どきなさい」
同じ年頃の少女が道を塞ぐようにシャスティエの前に立ちはだかるのを一喝する。どうして邪魔をするのかしら、と苛立ちながら。
とにかく記憶の空白を埋めたい、何があったのか知りたい――そのためにも早く玉座の間に戻らなければ、という思いが彼女を駆り立てていた。イシュテン王が何と言おうと、彼女は女王なのだから。
「そ、そんなお姿でどちらに行かれます!?」
言われて、自分がまとっているのが薄い寝間着だけだということを思い出す。確かにこの格好で出歩くわけにはいかない。
「そうね」
頷いたシャスティエを見てイリーナはほっとした表情になるが、
「上着を持ってきてちょうだい」
続く言葉に泣きそうに顔を歪める。
「シャスティエ様……」
「冷えるから早くお願いね」
ミリアールトは北国だ。雪が溶けたとはいえ、夜は寒いほどに冷えるのだ。
重ねての命に、イリーナは諦めたように一礼して身を翻した。金茶の巻き毛が暗い廊下に消える。
イリーナが去ると、闇が急に迫ったように感じた。もとより時刻が時刻だけに燭台もまばらで、わずかな空間を照らすのみだ。しかし、単なる暗さではなく、息を詰めるような、怯えたような雰囲気が王宮全体を覆っている気がして、シャスティエを不安にさせた。
ほどなくして、イリーナは濃紺の外套をたずさえて戻った。絹と羊毛を合わせて織った生地で、軽くて暖か、絹の艶やかさとなめらかさを合わせ持った品だ。
こんな時でもちゃんとお気に入りの一着を持ってきてくれた忠実な侍女に、シャスティエはほんのわずか、微笑んだ。
「ありがとう」
外套の前を閉じてしまえば、一見では下に着ているのが寝間着一枚とは分からない。最低限の体裁は整えられるだろう。
あくまで出歩こうとするシャスティエを見て、イリーナは震える声で懇願した。
「あ、あの。シャスティエ様。どうかお部屋にいらしてください」
「なぜ?」
壁に掛かっている燭台を拝借しようと手を伸ばす。動きに迷いのないシャスティエとは対照的にイリーナは言いよどむ。
「こんな時間ですし、真っ暗ですし……。それに、お城の宝物を持ち出そうとイシュテン人どもがうろついています。あの者たち、貯蔵庫の葡萄酒を開けてしまったりやりたい放題で――」
イリーナの言い分があまりに浅はかなので、シャスティエは思わず苦笑してしまった。
「それは明るくなってからも同じでしょう」
「それにそれにっ! 今日はお疲れでしょうから、せめて少しでもお休みになって――」
――こんな気持ちで眠れと言うの? 一度は死を覚悟した身だというのに。
「イリーナ」
改めて侍女に向き直ると、燭台の明かりが彼女の顔を照らす。
見慣れた愛らしい顔。若草色の瞳に浮かぶのは見慣れない悲愴な決意。絶対に行かせまい、という。この娘は、さっきからこうだ。いつもは気を利かせて主に不足を感じさせることなどないというのに、今この時に限ってはなぜか煩くまとわりついてくる。
「どうしてそんなに――」
叱責しようとしたときだった。ある直感が氷の槍のようにシャスティエを貫いた。
――ああ、叔父様はもう……。
冷静になってみれば当然のこと。女の出る幕はないと嘲ったイシュテン王が、彼女が目覚めるのを待ってくれるはずはない。
焦燥感が消え、代わりに冷え切った虚しさが心を包む。
「……それではあれから何があったか、あなたが説明してちょうだい。
ちゃんと教えてくれたら、部屋に戻ることにするわ」
残酷な命であることは百も承知。案の定、イリーナの瞳は恐怖に見開かれ、とんでもないというように激しく首を振った。
言えるはずがない。お前が寝ているあいだに全て終わってしまったなどと。最後に残された肉親が殺されてしまったなどと。直感の正しさを確かめて、シャスティエの視界が涙に歪んだ。涙を侍女には悟られないように目を意識して開きつつ、静かに告げる。
「教えてくれないなら、自分で確かめてくるわ」
「シャスティエ様、申し訳ありません。どうしても言えないのです。私には、とても――でも、玉座の間には行ってはいけません。あそこだけはダメです」
シャスティエは少し苦笑した。イリーナの言葉は、玉座の間に行けと行っているも同然だ。
――バカな子ね。
それでも口先では優しく安心させてあげる。
「分かったわ。玉座の間には行かない。
怖かったら私の部屋に篭っていなさい。きっとすぐに戻るから」
感謝と愛情を込めてイリーナの頬に口付けると、シャスティエは暁闇へと歩き出した。
玉座の間に足を踏み入れたシャスティエは、怒りと悲しみの嘆息をもらした。
イシュテン人は玉座の間を戦勝の宴の会場に使ったらしい。どこからか椅子とテーブルが運び込まれ、酔いつぶれたものが何人か眠り込んでいるのも見える。空気には酒と料理の匂いが残っている。イリーナの言葉が正しいなら貯蔵庫の葡萄酒も供されたのだろう。浴びるように飲んで良い程度の質のものでは決してないはずなのだが。
――本当に、礼儀を知らないこと。
床を照らすと、椅子を引きずった跡に、泥や油、酒の染みが目に入る。きっと磨いたところで取れない瑕や汚れがついているだろう。色とりどりのタイルでミリアールトの動植物を描いた細工は、それは見事なものだったのに。子供の頃、退屈な式典に出席させられたときなど、目を伏せる振りで模様に隠れたリスの数をかぞえたものだったけれど――
――負けるとはこういうこと。懐かしんでいても始まらないわ。
燭台を掲げても、広間の奥は闇に包まれている。彼女が見なくてはならないものはきっとそこにある。それに備えるために、深呼吸を一つ。そして、シャスティエはゆっくりと歩みを進めた。
叔父と従兄弟たちの首は玉座の前に設けられた台上に晒されていた。
「叔父様……」
予想はしていても何の救いにもならなかった。肉親の無残な姿に心臓を引き裂かれる思い。
それでも恐ろしさよりも慕わしさが勝って、シャスティエは台へとかけよった。
「ルスラン様。ヴィクトル様」
叔父を真ん中に、従兄たちはその両側に並べられている。背伸びして手を伸ばし、一人一人頬に触れる。指先に伝わる冷たさが、絶対的な「死」を教えてきて思わず涙がこぼれる。
「レフがいないのは……戦場で逝ったのね……」
従兄弟三人と、兄と、シャスティエと。母である王妃が早くに亡くなったため兄弟のように育った。学ぶのも遊ぶのもみんな一緒で。三人のうちの誰かと結婚するのかもしれないと思ったこともあった。
だが、イシュテンの侵攻を受けたとき、戦場に出られるのは男だけで、シャスティエには愛する人たちが死地に赴くのを見送ることしかできなかった。
だから彼女は決めたのだ。もしも敗れることがあったら、そのときこそ自分の命を使うのだと。
――それなのに。
差し出そうとした命は嘲笑と共に突き返された。
助けようとした人たちは冷たい屍になって晒されている。
叔父は彼女に生きろと言ったが、この上何のために生きればいいのだろう。
「皆さまばっかり、ずるいわ……」
三人の死に顔は穏やかだった。それは、彼らの死が意味あるものだからだろう。イシュテン王と何を話したかは分からないが、自らの命と引き換えに何かを得られたからこその表情なのだろうと思う。
心穏やかに死に臨めたのならせめてもの慰めと言えるだろう。そして、それはシャスティエが望んで得られなかったもの。だから、シャスティエは叔父たちのことを心底羨ましく思った。
「私はこれからどうしたら良いのですか……」
シャスティエは途方にくれた。
いつしか東の空が青くなり始め、夜明けが近づいてもなお、彼女はその場に立ち尽くしていた。
「そこで何をしている」
イシュテン語で鋭く
「ファルカス……!」
そこにいたのはイシュテン王ファルカスだった。側近なのだろう、身なりの良い若者を数人連れている。
王を呼び捨てる無礼に後ろの男たちは色めき立つが、本人は気に留めた様子はない。ただ、シャスティエの姿を認めて面倒そうに眉を上げた。
「またお前か。おとなしく隠れていれば良いものを」
あくまで歯牙にもかけぬと言いたげな態度に、シャスティエの心はささくれる。
「あなた方が殺した叔父と従兄たちと別れを惜しんでおりました。咎められるいわれはございません」
「咎めはしないが終わりにしろ。夜が明けたら首を城門に晒す」
「そんなことは許しません!」
思わず叫んだ後で、自身の滑稽さに気付く。勝った国の者が敗者の、それも彼らが見下す女の許しなど気にするはずがない。イシュテン人たちのバカにしたようなへらへらとした笑いが目に入り、心中怒りが煮えたぎる。
――相手にされなくても。ここで黙っていたら叔父様たちに申し訳が立たない!
「私は決してここをどきません。邪魔だというならお斬りになればよろしい。
女を斬るのが恥とのことですが、先ほどとは違って見ているのはお付きの方々だけですもの。言いふらすようなことはなさりますまい」
怒りにまかせた啖呵に、初めてファルカスの顔に苛立ちのようなものが浮かぶ。彼の手が剣を抜く。白刃の煌きが目を射った――と、思った時には彼我の距離が一瞬で詰められ、切っ先がシャスティエの首に擬されている。
「陛下――」
「分かっている」
なだめるような臣下からの声に対し、ファルカスの答えは短く平静だ。
一方のシャスティエは、喉元に突きつけられた鋼の冷たさに、さすがに呼吸を乱す。それでも弱気を見せまいと、仇の王を睨め上げ、口の端に冷笑を浮かべる。
「剣に訴えるしかできないのですか。半端な覚悟で言っているのではありません。お望みの通りに取り乱したりなどいたしません」
「まったく気に障る女だな。その減らず口をきけなくしてやりたいのは山々だが、あいにく俺はお前を殺せんのだ」
「不思議なことを仰います。父を兄を、叔父たちを殺めた方のお言葉とは思えません」
この男が激昂するところを見たい、と思った。女を見下すイシュテンの王が、女の言葉で我を忘れて剣を振るったとしたら結構な汚点になるだろう。その様を嗤いながら逝けるのなら悪くない。
しかし、次に言われた言葉にシャスティエは凍りついた。
「我が神の名にかけてその者たちに誓ったからな。お前に決して危害を加えぬと」
「え」
目線で叔父たちの亡骸を示されて、振り向こうとするがかなわない。ファルカスの剣先は巧みに彼女の動きを封じている。
「無論、条件はそれだけではないが。
お前の安全を約束したら、どいつも喜んで死んでいったぞ。軽々しく命を投げ出すお前の姿を見たら、どう思うだろうな?」
ファルカスの口が弧を描く。狼が牙を剥くような笑みだった。狼は弱った獲物を前に容赦はしない。絶句するシャスティエに、更に追い打ちがかけられる。
「だが、自害するのを止めろとまでは言われていない。
たった一歩だ。踏み出せば良い。それで終わる」
――たった一歩。
シャスティエは呆然と眼前に光る剣を見る。その煌めきから、確かに少しの動きで彼女の首を切り裂くだろうと分かる。けれど。
――動けない。
死ぬ覚悟は出来ていた。でも、それは自分の死が誇り高く意味あるものだと思えばこそ。自分の命は自分のものではなく、国のものだと思えばこそ。
今、彼女が生きているのは叔父たちの命であがなわれたものだというなら。彼らの意思を無駄にすることは、彼女にはできない。
「自分で死ぬ勇気はないか」
嘲りとともに剣が引かれる。それに怒りを感じるものの、反論する力はもはや彼女にはない。
「アンドラーシ! その女を俺の目の届かぬところに連れていけ」
言われて進み出たのは、イシュテン人にしては珍しい細身の優男だった。
「もう少し仰りようがあったかと思いますが……」
「口の利き方を覚えるまで俺の前には出すな。いつ我慢が切れて誓いを破ってしまうか分からんからな」
「御意に。
さあ姫君、お部屋までご案内するのをお許しいただけますか?」
何もかもが腹立たしい。傲慢なファルカスの言葉も。優しい振りで面白がっているようなアンドラーシとやらの言葉も。そして何よりも自分自身が。女一人で何かをなすことができるなど、思い上がりも甚だしかった。
それでも、腕を引かれて連れ出されるとき、ファルカスを睨むのを忘れない。
――何もかもおまえのせいだ。
「決して、許さないわ」
万感込めた怨嗟の声は、苦笑で迎えられた。
「好きにするが良い」
次にシャスティエが我に返ると自室に戻っていた。
アンドラーシとかいう男がシャスティエの部屋の場所を知っているはずもない。彼女自身が教えたか、その辺りにいる小間使いでも捕まえたのか。どちらにしても記憶がない。ただ、気づいたら泣いてすがるイリーナを見下ろしていた。
「シャスティエ様っ。申し訳ありません。私がちゃんとお話ししていればっ……」
「いいのよ。あなたの口から言えることではなかった。察することができなかった私がいけないの」
本当に、なんて愚かな小娘だったのだろう。自分のことばかりで、他の者のことは考えなかった。叔父たちだけではない。主をひとりで出歩かせるなど、残された侍女はどれほど不安だったことだろう。イリーナのためにも死ぬわけにはいかなかったと思う。彼女を嘲りながら助命したファルカスのことを、決して許しも感謝もしないけれど。
「私たち、これからどうなるのでしょうか?」
「分からないわ。それはイシュテン人たちが決めること。今は……少し休みましょうか」
とうに日は昇っているけれど。邪魔をしない限り、やつらはシャスティエたちが何をしようと気に留めまい。
「は、い……」
涙を拭う侍女の頭を撫でながら、シャスティエは思う。
――どうなるか、は分からない。でも、どうしたいか、は決まっている。
脳裏に浮かぶのはイシュテン王ファルカスの姿。耳に残るは彼の嘲笑。
国を滅ぼされた。愛する人たちを殺された。女王としての誇りを否定され、死を選ぶこともできないのを嘲った。
――決して、許さないわ。
もう死にたいなどとは思うまい。どんな屈辱を受けようとも生き抜いてやる。そして、いつかあの男に思い知らせるのだ。この怒りと悲しみを。
その思いを口に出す。決して奴らには知られないように、祖国の言葉で。この国を護るという雪の女王に掛けて。
「
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