雪の女王は戦馬と駆ける
悠井すみれ
1. 亡国
第1話 最後の女王 シャスティエ
長く暗い冬が明け、厚く積もった雪がわずかに緩み始める季節のことだった。ミリアールト国はイシュテン国の侵略を受けた。
ミリアールトは大陸でも最北に位置する国の一つ。歴史上侵略することもされることもほとんどなく、文化芸術面で優れた国として名高い。
一方のイシュテンは馬を駆り略奪を生業とする部族が集まってできた尚武の国だ。兵は精強――とはいえ財貨や国境の土地、ミリアールトの金髪碧眼の女たちを狙っての侵攻は両国の歴史上、数知れず起きたこと。目的を果たせば攻め込んだ時と同様に風のように撤退するものと、誰もが考えていた。
しかし今回は違っていた。国境を破ったイシュテン軍は放たれた矢のように一路ミリアールトの王都を目指した。その疾さに各地から軍を集める
王と王太子も戦場に散った。王都の陥落も目前に迫る。小国ながら名誉と伝統あるミリアールトの歴史は、今まさに幕を閉じようとしていた。
ミリアールト王女シャスティエは、父と兄の訃報を王宮の自室で聞いた。
慟哭したのもほんのひと時のこと、涙をぬぐうと彼女は侍女たちに命じた。
女王の最期にふさわしい装いを凝らすように、と。
背をおおう淡い金の髪を精緻に編み上げ、頭に高くまとめる。下ろした髪型では首を刎ねるのに邪魔になるだろうから。
同じ理由で首飾りもいらないだろう。代わりに瞳の色に合わせた冬の晴天のような碧い宝石を耳に飾る。
ドレスは、純白に銀糸と宝石で雪の結晶を刺繍したものを。先日十八の誕生日を迎えた際に誂えた品だ。
支度が終わると、シャスティエは姿見の中の自分自身を吟味した。
新雪のように白くなめらかな肌。さすがに顔色は青ざめてはいるが、彼女の硬質な美しさを損なうものではない。むしろ瞳の碧とあいまって、氷の華にも例えられる凛とした雰囲気を引き立てているように思えた。
父も、兄も、宮廷の誰もが雪の女王の化身と褒め称えた美姫がそこにいた。
――完璧ね。
満足のため息をもらすと、シャスティエは侍女たちに礼を述べた。主の覚悟を知る彼女たちは悲痛な表情で頭を垂れた。
――あとは、私が潔く首を差し出せば良いだけ。
ミリアールトでは女子の王位継承権が認められている。
平時においては王族の、ひいては王位継承者の数を確保するためだが、現在のような非常時においてはまた別の役目がある。
すなわち、男子の王位継承者が全て戦死した後、国の象徴として潔く殺されるという役目が。
幼い頃から兄たちに混ざって教育を受けてきたシャスティエは、今の自分に求められた役割をよく理解していた。
「シャスティエ!」
背後で慌ただしく扉を開く音がした。
自身の名を呼ぶ声にシャスティエは振り返り、部屋に入ってきた人物の姿を認めてにっこりと微笑んだ。
「叔父様。今生でまたお会いできるとは、大変嬉しゅうございますわ」
その人物は、亡きミリアールト王――シャスティエの父の弟、シグーリン公爵グレゴリーだった。
美しく正装したシャスティエの姿に彼女の覚悟を察したのだろう。グレゴリーは苦悶の表情で跪いた。
「シャスティエ。いえ、女王陛下。
王と王太子を死なせ、私だけが生き残ってしまいました。この上我が新しい主君、我が美しく賢い姪が狼どもの牙にかかるのを見なければならぬとは。
できるならば処刑されるのはこの身に、あなたは息子たちに委ねて――」
「叔父様」
グレゴリーの言葉を途中で遮り、シャスティエは彼と同じ目線になるように跪くと、自分よりもはるかに大柄な叔父を両腕で抱きしめた。
「ありがとうございます。でも、そういう訳には参りません。私こそ女王なのですもの。
息子たち、と仰るからには従兄弟たちは全て殺された訳ではありませんのね。……それならば安心です。私のような小娘が生き残って何になりましょう? 侵略者どもから民を守るには、叔父様方のお力の方が必要です」
一息に言い切ると、悲痛な面持ちのままで二人を見守る侍女たちの耳をはばかるように、彼女は叔父の耳元に唇を寄せた。
「……本当はとても怖いのです。
叔父様、私に勇気をくださいませ。父と国の名を汚すことなく逝けるように」
「シャスティエ」
かすかに震えた彼女の声に胸を打たれたのか、グレゴリーは姪の身体を抱きしめた。
シャスティエも堪えきれずに叔父に縋りつく。幼子が親を求めるような力強さだった。強がってはいても、覚悟を定めたつもりでも、彼女はまだ十八の子供に過ぎなかった。
震えるその背を、グレゴリーはなだめるようにそっと撫でる。
「大丈夫だ。そなたはいつも強く誇り高い子だった。イシュテンの
「ええ、ええ、私は大丈夫です」
シャスティエは涙がこぼれないように瞳を見開いて、何度もうなずいた。処刑を恐れて涙したなどと思われるのは耐えられない。
イシュテンの軍勢が王都に迫るまでのわずかな時間、叔父と姪は抱き合って名残を惜しんだ。
王都および王宮の開城を命じると、シャスティエはイシュテン王ファルカスとの対面を玉座の間で直立して待った。着席しないのは、自身の即位が有事の際の仮のものでしかないと思うから。また、恐らく疲れるほど立ったままということはありえないからだ。
数段高いところにしつらえられた玉座の前に立ち、眼下に整然と並んだ貴族や廷臣たちを見下ろす。彼らには、彼女の命と引き換えに無駄な流血を避けられるように嘆願するので抵抗はせぬよう命じてある。徹底抗戦を主張する武官もいたが、女王の命を賭けた行いを無駄にするなと言い聞かせた。年若い女王を差し出すことに忸怩たる思いがあるのだろう、彼らも叔父と同様に沈痛な面持ちをしている。
――でも、最後の一兵まで戦ったとして、どうにかなるものでもないし……。
そんなことをしたとしても残るのは老人や女子供だけ。無力な彼らは侵略者の刃に抵抗する術を持たないだろう。
それならば、国の名は滅んでも実務を担う者たちを生かす道を探りたい。飼いならされた犬に成り下がるとしても、牙がある分屠られるだけの羊よりはマシだ。
――心弱い女の甘い考えに過ぎないのかもしれないけれど……。
国の未来がかかった決断に、絶対の自信が持てるはずもない。
答えのない思考から彼女を現実へ引き戻したのは、城内からかすかに聞こえる異国の響きだった。荒々しいイシュテン語の、笑い声や話し声……時折怒声も混じる。イシュテン王の一行が近づいてきているのだ。
もうすぐね、とドレスに皺がないか確かめながら、ふと思いついて、一段下に控えるグレゴリーに尋ねる。
「叔父様は、イシュテン王の人となりをご存知ですの?」
彼は顔をしかめた。
「イシュテン王ファルカス……まだ若いが力で国内をまとめた上で周辺国を狙う武断の王だと……いかにもイシュテンの気風を表すような男と聞いております」
「そうですか」
かの国と国境を接する国の者にとって、イシュテンの気風、という表現の意味するところは明らかだ。すなわち、良く言えば勇猛果敢、悪く言えば冷酷で残忍ということ。
――そんな男でも恐れを見せてはならない。最後まで女王として振舞わなければ。
決意を込めて、シャスティエは玉座の間の扉を見据えた。
精緻な彫刻で建国の歴史を刻まれたその扉は、今大きく左右に開こうとしていた。
扉が開いた瞬間流れ込んだ臭気に、シャスティエは心中で眉をひそめた。
雪解け後のぬかるんだ大地と、踏み潰された新芽の匂い。これは馴染みのあるものだからまだ良い。耐えられないのは獣と汗の混じった臭い。そして、嗅いだことがないけれどとにかく吐き気をもよおす厭な臭いは多分血と臓物のものだろう。
まるで生まれ育った王宮の中に戦場が現れたかのよう。シャスティエは自国が置かれた状況を改めて思い知らされた。
一行の先頭にいるのがイシュテン王ファルカスだろうということはすぐに知れた。
明らかに上質な装備や装飾からだけではない。身にまとう王者然とした覇気が他の者と一線を画している。全身に返り血を浴びているのも、王自ら先頭に立つというイシュテンの伝統と符合する。たてがみのような黒髪と、鋼のように鍛えられた体躯。彼らの奉じる猛き戦馬の神の体現のような王だった。
「初めまして、イシュテン王ファルカス陛下」
玉座の前の段を降りながら、イシュテン語で挨拶を述べる。同じ高さに立ってみると、段上から見たときよりもファルカスは長身に見える。鼻をつく血の臭いも当然濃くなり、歩み寄るのには震えそうになる脚を叱咤しなければならなかった。
やっとファルカスの眼前にたどり着くと、シャスティエは一度深くひざまずいた。そして立ち上がり、彼の青灰色の瞳を見つめながら、口を開いた。
――何を考えているか分からない冷たい目ね。お父様とお兄様を殺した人殺しの目。なんておぞましい。
もちろん、本当の想いは心中にしまったまま。実際に口にするのは慇懃な言葉だけ。
「この度ミリアールト女王として即位いたしました、シャスティエ・ゾルトリューンでございます。
皆様を歓迎する、とまでは申せませんが、大陸に勇名を馳せるイシュテンの騎兵を我が王宮にお招きすることになるとは、恐懼のいたりですわ」
言葉を紡ぎながら、シャスティエは内心首をかしげた。イシュテン人たちの間からなにやらざわめきが聞こえてくるのだ。眼前のファルカス王の目に浮かぶ表情も解せない。これは不審……それとも不快だろうか?
たしなみとして周辺国の言葉を学んできてはいるが、イシュテン語を実際に使うのは初めてだ。おかしな訛りに聞こえてしまうのだろうか、とちらりと不安が胸をかすめたが、ここで私の言葉が分かりますか、などと尋ねるのも間抜けな話だ。結局、ゆっくりと明瞭に、を心がけて続けることにする。
「お気づきのこととは思いますが、我が国に抵抗する意思はございません。武力で敗れた以上、いたずらに犠牲を増やすのは愚かなことと心得ております。
文官武官すべて、貴国に服従するよう女王の名において命じております。証として私の首も差し上げます。
ですから、どうか民が血を流すことのないように――」
「もう良い、敗れた国の王女よ」
鋭く遮られて、シャスティエは息を呑むが、気圧されてはならないと自分に言い聞かせて反論する。
「王女ではございません。女王としての誓約ですわ、ファルカス陛下」
だが、口答えはファルカスの気に障ったようだった。冬の曇天のような色の瞳が剣呑にすがめられる。
「イシュテンの法では女が王位を継ぐことはありえない。国が滅びた以上、お前はもはや元王女でしかない。ただの小娘の誓約に何の価値もない」
「……ミリアールトの法は女子にも継承権を認めています。父と兄が戦死した今、私は正統なミリアールト女王です!」
「察しが悪いな。
お前たちの法が問題なのではない。女では我らの交渉相手にはならぬと言っているのだ。
確かにお前の話は願ってもないが、証が女の首一つでは信じるに値しない。
女を切って戦を収めたなどと、俺の恥になる!」
ファルカスの背後のイシュテン人たちが口々に賛同の声を上げる。自身の行動を真っ向から否定されて、シャスティエの脳裏が真っ白になった。
何か言わなくては、と口を開くが、言葉が見つからない。イシュテン人たちのざわめきは、女が国の長として立つことなど、彼らの常識ではありえないからだったのだろう。
――この男の言うことは正しいのね。でもそれなら私はどうすれば……。
「どけ」
いつの間にか、ファルカスが間近に歩みを進めていた。思わず言われた通りに道を譲ってしまい、不甲斐なさに歯噛みする。
一瞬彼の横顔を見上げることになり、本当に若いのだな、意外と整った顔をしているな、などとどうでも良いことを考える。
ファルカスは、先程までシャスティエが立っていた玉座の高みに登ると、悠然と振り返り、ミリアールトの貴顕を見下ろした。そして、挑発的な笑みを口元に刻む。
「さあ、女の陰に隠れる臆病者ども。
国のために命を捨てようというのはそこの娘だけか? 祖国が血に塗れるのを見たくはあるまい! 我が剣を収めるに足る証と対価をいかに支払う!?」
単純な挑発だが、女王が侮辱されるのを看過しなければならなかったミリアールトの貴族たちにはよく効いた。文化肌の国柄ゆえ、彼らの中にイシュテン語を解する者が多かったのも今は災いした。玉座の間に怒号が満ちる。
「おのれ無礼な蛮族め!」
「黙って聞いていれば我らの女王のご覚悟を侮るか!」
怒号の中に剣を抜く音を聞き、シャスティエは全身から血の気が引くのを感じた。
――武装は解いておけと言ったのに!
段上のファルカスを見上げると、獰猛な笑みを浮かべて剣を構えていた。呼応するかのようにイシュテン人たちも抜刀する音が聞こえ、イシュテン語の荒々しい響きが耳を打つ。
「負け犬どもがよく吠えるわ!」
「馬から降りれば勝てるとでも思ったか!?」
剣を持たない文官たちは浮き足立って列を乱している。戦闘が始まれば彼らはたやすく切り捨てられてしまうだろう。
――このままでは皆殺されてしまう!
「おやめなさい!」
叫んだ声は、怒号にかき消されて誰の耳にも届かない。
ミリアールト人とイシュテン人が睨み合う。まさに一触即発。何とかしなければ、という焦燥感が身を灼くよう。
再度叫ぼうと息を吸い込んだときだった。大音声が広間に響いた。
「剣を収めよ!」
声の主はグレゴリーだった。彼はシャスティエを背にかばうようにファルカスと対峙する。
「叔父様……」
彼も王家の血をひいているだけのことはあった。その場の全員の視線を集めて、少しもひるんでいない。
「飢えた狼の王、戦馬の神の残虐な騎手よ」
グレゴリーの声は低く深く、玉座の間に響いた。
「女王陛下のお言葉に偽りはない。貴様らの暴虐をまぬがれるためなら剣を捨て服従するのに否やはない。
私は先王の弟、シグーリン公グレゴリー。臣下に降ったとはいえ王家の生まれだ。そして我が息子たちは王家の血筋の最後の滴。
貴様の貪欲な剣を収めるには、どれだけの命が必要だ!?」
一瞬、痛いほどの沈黙がおりた次の瞬間。ファルカスの哄笑がそれを破った。
「面白い! お前とならまともな話ができそうだな。
それでは条件をつめようか!」
――叔父様、私の代わりに死ぬおつもりだ!
「叔父様、やめてください!」
シャスティエの悲鳴に、グレゴリーは振り向いて微笑む。臣下としてではなく、肉親としての優しく柔らかい笑みだった。
「男子継承か。蛮族らしいくだらぬ慣習だが今は僥倖だった。少なくともお前は死なずに済む。
シャスティエ、辛くとも生きるのだ。
イシュテン人に分からないようにだろう、ミリアールト語で諭すように語りかける。
抗弁の言葉を探る間に、グレゴリーは鋭く命じる。
「何をしている! 女王陛下をお守りせよ!」
言われて、はじかれたように周囲のミリアールト貴族が動き出す。
「陛下、こちらへ!」
「いやよ、離しなさい!」
両腕を掴まれて出口へとひきずられる。抗おうと脚を踏みしめるが、男二人の力にはかなわない。
「離しなさい!」
もはやこの場の誰もシャスティエの言葉に気を留めていない。叔父でさえファルカスの方を向いている。
「人殺し! 叔父様を殺したら許さないから!」
「お静かに。こらえてください!」
腕を掴んだ男の言葉が小さな子供を叱るそれのようで腹立たしい。彼女を無視するファルカスも、彼女に背を向けるグレゴリーも。すべてが腹立たしく、悔しい。
「死ぬなら私のはずよ! 私は女王だから! 私の命で十分でしょう!」
叫びはミリアールト語とイシュテン語が混じってもはや意味をなさない。涙が溢れて視界がぼやける。それでも叫び続けるのを止められない。
頭のどこか冷静な部分が囁く。
――美しく死に臨むはずだったのに。なぜ私はこんなに見苦しく泣き叫んでいるの?
違う、彼女は命を惜しんで泣いているのではない。殺すなら私を、と喚いている。なのに敵であるイシュテン人たちがその望みを叶えてくれないのだ。なんて茶番だろう。
叫び続けたせいで息が乱れ、肺が痛む。頭の芯がしびれて指先が冷えていくのも感じる。
玉座の間の扉が無情に閉じられたのとほぼ同時。
シャスティエの意識は闇に呑まれた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます