第16話 終幕と開幕③
宿へ戻るまで、どれくらいの距離を、どれくらいの時間を掛けて歩いただろうか。
陽は傾き、暗くなり始めると、辺りはあっという間に夜を迎えた。
宿に着くまで。部屋に着くまで。白雪と黒陽の間に会話はなかった。
明かりを消したままの室内は屋外よりも暗く、星のない夜空を詰め込んだようだった。
白雪は室内に入っても明かりを点ける素振りを見せず、部屋の中心で黒陽に背を向けたまま佇んでいる。
「いいんだよ。責めて」
背後から掛けられた、黒陽のその言葉に、白雪の気配がピリッと棘を持つ。
「……それは、何について?」
背を向けたまま問う白雪の声には、怒りを爆発させまいと抑え込んでいるかのように、抑揚がなかった。
「全て」
黒陽は、断罪される覚悟を決めているような、穏やかにすら感じる、ややゆっくりとした口調で。
机上に自分の過失の証拠を一つ一つ広げるように、一音一音をはっきりと。
言い澱むことも、考える間も置かず、言い切った。
勢い良く振り返った白雪には、「ふざけるな!」と怒鳴るのではと思わせる勢いがあった。
けれど彼女は唇を引き結び、努めて肩の力を抜いた。
落ち着いた足取りで、黒陽の前に歩を進める。
「……本当に、ずるい人」
そして自嘲気味に零し、黒陽の手を掴んだ。
「……!」
白雪が掴んだのは、湊のナイフを受け止めた傷が深々と残る手。
「白雪!」
掴まれた痛みに怯む黒陽ではないが、次に彼女が取った行動に、彼は悲鳴を上げるように声を荒げた。
手に伝わった白雪のラクリマと、瞬時に消えた痛み。
彼女の行動を理解した瞬間、黒陽は彼女の手を自分の手から引き剥がした。
「……っ何てことを」
傷は黒陽の手から離れ、白雪の手に。
眉を歪め、苦痛の声を零す黒陽に、白雪は首を振った。
「俺は、君が傷付くところは見たく……」
「だから自分を責めさせて、私が罪の意識に苛まれないように……私が傷付かないように、全ての責任の矛先を自分に逸らそうとした?」
「……っ……」
遮られ、突き付けられた言葉に、黒陽は思わず息を詰める。
「私は、私の痛みを貴方のせいだと思うことはない」
白雪が傷付くこと。それは、黒陽にとって耐え難いことだ。
責められ、怒りをぶつけ罵られようと、彼女が傷付かずに済むのなら喜んで受け止められる。
それこそ微笑んでいられるくらいには。
「俺は……」
今回の件について、彼は何も白雪を守りたいが為だけに自分を責めさせようとしたわけではない。
本当に自分に過失があったと思っているし、彼女に罪がないと思っている。
だが今回、自分の発言はかえって彼女を責めているように取れると気付いた黒陽は、体から血の気が引いていくのを感じた。
白雪を傷付けたくないと思っている自分が傷付けてしまったかもしれないと。
ただ、黒陽の発言にそんな意図がなかったことは、彼女には見通されていたらしい。
「分かってる。貴方の言葉に嘘がないことくらい」
棘のある気配を消し、白雪は苦笑するように呟いた。
暗い室内だが、入り口付近にいる黒陽の側でなら、かろうじて相手の表情を視認することはできた。
黒陽から移した傷を治し、すると、心なしか安堵したように見える。
「分かってる、から。謝らないで。絶対に。……何も悪くない貴方に、謝らせたくない。自分が悪いなんて、思わせたくない。謝るべきなのは……」
私。
そう呟いて、白雪は自分の手から黒陽の手を離させ、後退る。
背後には、明かりのない暗闇が広がっている。
「貴方が、私が傷付かないようにと思うように、私も……。私だって、貴方に傷付いてほしくないと思う」
傷が消えた手を、胸の位置で抱え込むようにもう一方の手で包んだ。
後退する足は止まらず、暗闇の中にゆっくりと身投げをしているようにさえ見える。
「誰にも傷付いてほしくない。誰のことも、傷付けたくない。それが綺麗事でしかないと分かっていても。それで、誰も守れなかったとしても。そう望んでしまう……願ってしまう」
やがて暗闇の奥へ身を沈ませると、床を踏む足音が止まる。
黒陽は、白雪の口から紡がれる言葉を、まるで懺悔のようだと思った。
高望みばかりで、何もできないくせに。そう自分を卑下するような……。
言葉で連ねた、悲鳴。
「なのに私は、湊を死なせてしまった。あの子達を巻き込んで、傷付けた。誰かの傍にいるべきではなかったのに……。貴方の傍にだって、きっと……いいえ。絶対にいるべきではない……。今も、そう思っている。……なのに!」
普段からは想像もつかない饒舌な様子に、黒陽は口を挟むことができなかった。
話せば話すほど、白雪の呼吸のリズムは乱れ、美しい声が時折りかすれ、引き攣る。
息苦しいと喘ぐように、胸の前で重ねられた手が首へと伸びる。
「離れるべきだと分かっているのに、そう思う気持ちと同じくらい、貴方の側にいなければいけないような気がしてならないっ。離れようと考えるだけで、苦しくて堪らなくなるっ。誰かに咎められている気さえするっ。どうしてなのか、たくさん考えた。でも、いくら考えても分からない……っ」
胸が張り裂けそうな。身を引き裂かれそうな。慟哭。
自分の中にある二つの感情に、白雪は雁字搦めになっていた。
どちらも自分の感情であるはずなのに、優先すべき感情がどちらかなど、彼女の中では明白であるはずなのに。
一方に傾けるようとすれば、たちまち身動きが取れなくなるのだ。
自分の体が、心が、自分のものではないかのように。
だったら……。
「私は……誰?」
『思い出してごらん?』
頭の中で、巧馬が囁く。
『もう、誰も傷付けたくないのなら』
「思い出せば守れる? 誰も傷付けずに済む? 」
……
「……っ……」
がたがたと震える体。首元で力なく震える指先の感触に、一瞬息が止まる。
もしも、あのとき。
殺したければ私だけを殺せ、と。そんな意志を持って、巧馬の手を自分の首に触れさせた、あのとき。
……あの手が自分の首を包んでくれていたなら。
もしくは、自分の手を彼の首に……自分の首に伸ばしていたなら。
両手の指に力を込める許可を、貰えたなら。与えられたなら。
「私に、覚悟があれば……」
歪んだ笑みを浮かべた幻に、頷かれた気がして……。
細い指を首に沈ませる。
そんな両手を、大きな手に掴まれ。力任せに引かれ、白雪の体は前に倒れ込み……熱に包まれる。
「やめろ」
落とされた低い声が、熱の正体を教えてくれた。
「そんな覚悟しなくていい。……しないでくれ」
歯噛みした硬い音を挟み、絞り出したような声の懇願。
胸を握り潰されるような痛みに苛まれながら、黒陽は白雪を抱き締めた。
今彼女がしようとした覚悟だけは、させてはならなかった。
たとえ、その覚悟が彼女を解放する一種の手段だとしても。
命を……心を、踏み留まらせる為に、させてはならない。
これからも、踠き苦しまなければならなかったとしても。
「何も考えなくていい。今は、何も考えなくていいんだ」
黒陽は白雪を、きつく、窮屈なくらい、強く抱き締めた。
彼女の心が、遠いどこかで置き去りにならないよう。ここに、引き止められるように。
「……。……白雪」
口を開き、出そうになった謝罪の言葉を噛み砕き、彼女の名前を声にした。
「君は、白雪だ。君が誰だったとしても、今の君は白雪なんだ。君以外の誰かなんてことは、ないんだ」
不規則に乱れた呼吸をする白雪の背中を何度も摩り、繰り返し諭す。
「変わる必要なんてない」
こんなに近く、密着しているというのに、彼女からは嗚咽を零す音も鼻を啜る音も聞こえてこない。
あんなにも饒舌だったというのに、今は返答一つない。
黒陽は片腕で白雪の体を抱き締めたまま、もう一方の手で頭を撫でた。
フード越しの手の感触に、彼女の肩がびくりと跳ね、やがて体が震えだす。
「……やめて」
「嫌だ」
「やめて……」
「無理だ」
何度も頭を行き交う感触に、白雪が拒否の意を示すが、黒陽は頑なに手を止めようとしなかった。
「……っ……」
立っていることもできず、座り込んだ白雪は……。
「ずるい、人……」
絞り出した一言を最後に、声を殺し、ただ震えていた。
黒陽の優しい手は、声だけでなく、涙を殺そうとする白雪の邪魔をする。
泣いていい。泣いてくれ。
そうやって白雪の中にある悲しみや痛みを吐き出させ、受け止めようとする。彼の優しさだった。
だから、白雪は言うのだ。ずるい人……優しい人、と。
精神的疲労が限界を迎えたのか、しばらくして白雪は眠りに落ちた。
黒陽は彼女が起こさないよう慎重に抱き上げ、暗い部屋の中を薄ぼんやりとした視界と記憶を頼りに、テーブルといった家具を避けベッドまで向かう。
ベッドに白雪を横たえた際、頭の位置が枕と合っているか確かめようとして、フードが外れていることに気付き、目を細めた。
暗がりの中では、表情まで確かめることは叶わない。
頬の輪郭を辿り、指先で冷えた耳を掠める。
そこで、まっすぐ上に滑らせた指を、触れるか触れないか……そんな力加減でそっと横に滑らせると、ほんの僅かに湿った睫毛に触れた。
「……泣くことさえ、許してあげられないんだな」
外気で冷えた頬には、涙が伝った跡はない。
つまりは、滲み出た涙は泣いた跡ではなく、泣くことを我慢した跡だということを黒陽に教えてくれた。
今涙を流せば、亡き人を思う涙という意味だけでなく、自分の苦痛を吐き出し、少しでも和らげたいという意味にも、否応なくなってしまうだろう。
それは悪いことなどではない。しかし、白雪は自分がそれをすることを許さない。
自分を、許せないのだろう。
「情けないな……。君が守ろうとしているものを守れないばかりか、君にあんな覚悟をさせてしまうところだった……」
謝らないでと言われた手前、今は安易に“ごめん”と口にすることが躊躇われた。
謝罪を口にできないことは存外不便で、謝罪の言葉を呑み込み、歪に結ばれた口唇の端を上げ、苦笑した。
白雪を起こしてしまわないよう、目元に触れた指先を離し、髪を一房掬う。
さらりとした癖のない髪は指通りよく、黒陽の指を滑り、掌に収まった。
感触を確かめているのか、名残惜しんでいるのか。掌に落とした髪を改めて指に滑らせ、手中から解放すると、その手で自身の顔を覆った。
「覚悟が足りなかったのは俺の方だ。君が幸せになれるなら、また笑えるようになれるなら、君の傍にいられなくても構わなかったのに。いつの間にか、傍にいたいと思う気持ちが勝るようになっていたらしい。人間らしく、強欲に……」
くっと声を殺した笑みを零し、自嘲気味に吐き捨てる。
白雪がそうだったように、黒陽もまた、踠いているのだ。
「…………」
ふと、吐息混じりに白雪の声が何かを紡いだ。
その声を拾おうと顔を近付けた黒陽は、途切れ途切れに聞こえた声に息を呑む。
白雪の声が空気を震わせた回数は、三回。
目を覚ましたわけではないようで、耳を澄ましてみても、もう微かな寝息さえほとんど聞こえない。
黒陽はベッドに手を這わせて彼女の手を探した。
無機質なシーツの感触を辿り、生気を感じさせる滑らかな感触に行き当たると、慎重に己の手を重ねた。
「白雪……」
布擦れの音が、彼女の頭付近で聞こえた。
意識が覚醒した気配はなく、寝返りを打っただけのようだ。
声に反応してか、重ねた手に反応してか。
こちらを向いているのか、そっぽを向いているのか。
どちらとも分からないまま、黒陽は笑みを零す。
大きく表情を変えることなく、筋肉の動きに多少の差異ができた他は、眼差しや雰囲気で表現する彼にしては、破顔と言っても差し支えない。
他者からすれば、それでも微笑んだ程度の変化しかないのだが、それすら目にしたことがない者からすれば、黒陽が零した笑みはさぞ衝撃的だろう。
黒陽は片手を白雪の手に重ねたまま、もう一方の手を自身の左胸に重ねた。
「俺はどんなことをしてでも、君が笑える未来を作る。“本物の化け物”になっても。君の笑顔を傍で見られなくても」
黒陽の口から零されたのは、決意。
その声は穏やかに凪いでいたが、決意を口にする彼からは確固たる信念を感じられた。
「俺はいつまでも、どこにいても。ずっと君を想い続けるよ。白雪……君は、俺の全てだから」
黒陽にとっての白雪は、心の全て。或いは、彼が生き、死ぬまでの全て。或いは、彼の世界そのもの。
その想いは、一人で胸の内に秘めるには膨大過ぎる。それでも彼は、覚悟を決めた。
たった一人、決意と想いを胸に刻んだ黒陽は、白雪の手を離すと、今夜はベッドサイドのソファーで一夜を明かそうと立ち上がる。
部屋を出ようかと脳裏を過ぎらなかったわけではないが、黒陽は白雪が睡眠に難儀していることを知っていた。
自分が傍にいるとき、それが解消されることも。
であるから、彼は部屋を出ず、遠くもなく近くもない、ベッドサイドのソファーに居座ることを選んだのだ。
「おやすみ」
囁きを落とし、白雪に背を向けると同時に足を踏み出した。
そのとき、袖に微かな引っ掛かりを覚えた。
気付かず、そのまま歩を進めていても、おかしくはない。微かな引っ掛かりに、思わず足を止める。
その正体を確かめるべく、恐る恐る手を伸ばし、彼の喉がヒュッと音を立てた。
引っ掛かりの正体は、白雪の指だった。
「……もうしばらく、傍にいることを許してくれるかい?」
堪らず、彼女の手を両手で取り、跪く。
額を押し付け、力を込め過ぎないように、手を握り込む。
震えが混じる切ない声に、返される声はない。
掌の中の白雪の手が、ほんの僅かに彼の手を握り返したように思えたのは、自分の願望なのか。
それでも構わなかったのだろう。
振り解かれることのない手の重みと温もりは、確かに黒陽の心を満たし、温めていた。
この日の出来事は多くの者に影響を与えた。
失ったものは大きく、受けた衝撃もまた大きい。
それでも、俯いていようと、心に暗い影が落ちようとも。立ち止まる者はいなかった。
二人の少年はアドウェルサスを抜け、ある場所を目指し。
アドウェルサスはその名を捨て、活動方針を激変させた。
憎悪に燃えていた目には、労わりの温もりが宿り、呪詛を吐いていた口からは「大丈夫」という優しい励ましが綴られるようになった。
彼等に救われた者の話によれば、彼等は白色の服であったり、装飾品であったり、何らかの形で白を身に付けているらしい。
マナの約束〜one and only〜 白黒 @mnokuro
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