第16話 終幕と開幕②

 鬱蒼とした森の中を、一心不乱に駆け抜ける白雪のあとを、黒陽は走る。

 怪我をしたチハヤは、自分達が見ているからと名乗りを上げたアドウェルサスに託し、二人は巧馬を連れて姿を消した湊のラクリマを辿っていた。

 道を塞ぐように立つ木を避け、枝の下をくぐり、石などの障害物が転がる凹凸の多い足場を、拓けた平地のように苦なく走る白雪を見ていると、まるで自然が彼女に道を譲っているかのようにさえ見えた。

 そんな常人離れした速さで走りながらも、状況が状況だ。

 どれほど早く走れようと、自分が鈍足に感じ、焦れったくて堪らないのだろう。

 土を蹴る足音に紛れた白雪の乱れた呼吸を聞き、黒陽は眉を顰めた。

 自分が遅いと気持ちが急けば急くほど、巧馬がチハヤを撃った理由を容易に想像できた。

 巧馬は、二人が瞬時に彼の後を追う手立てを潰したのだと。

 つまり、湊が取った行動は巧馬にとって不都合なことではなく、寧ろ好都合なことだったとのだ。

 巧馬をあの場から引き離し、二人きりになった湊が取ろうとする行動は、あまり想像したくはないが、そんな状況になった場合に巧馬がどんな行動を取るのか。

 それは想像するまでもなかった。

 白雪はもう、見ているのだから。

 湊を前にしたときの、巧馬の殺意を。


 パンッ……。


 森を抜け、少し拓けた場所に出る間際、何処かで聞いたような音が聞こえた。

 即座に背後を確認する黒陽だが、背後には森が広がるばかりで、音の正体らしきものを確認することはできなかった。

 音の正体に意識を向けたのも束の間。黒陽は素早く意識を切り替え、正面を睥睨した。

「やぁ。さっきぶり」

 晴れやかな朝の挨拶でもするかのような気楽さで、にこり笑った巧馬が、たった一人、そこに立っていた。

 巧馬が立っている場所は崖の淵。

 一緒に消えたはずの湊は、姿どころか、そのラクリマさえ、ほとんど感知することができなくなっていた。

「……湊は、どこ」

 震え切った声で、気丈に尋ねる白雪に、巧馬は優しげに目元を和らげ、彼女に何かを投げ寄越した。

「アダマントは何故、化け物と呼ばれるのか。昔、ラクリマというエネルギーが体内にあるせいだと考えたアダマントがいた。……そのアダマントは、化け物と呼ばれない者になる為に、何をしたと思う?」

 唐突に語り出し、囁くような声で問い掛ける巧馬の声を耳にしながら、白雪は咄嗟に両手で受け止めた何かに恐る恐る視線を落とし、瞠目した……。

「答えは、自分の中からラクリマをなくそうとした、だ。ラクリマを使い切り、空っぽにすれば、自分も非能力者になれると思ったわけだね」

 白雪の手にあるのは、彼女の掌に収まる程の大きさの、青黒く輝く石だった。

 さらに続く巧馬の話は、聞くまでもなく白雪は知っていた。

 ラクリマは、アダマントにとっての命そのもの。それを失ったアダマントに待つのは、ただの死ではない。

 非能力者と同じだった姿形さえ失う死。

 息を引き取った後、正しくアダマントという名称に相応しい、皮肉な死だ。

 石とも宝石とも取れる物質……“アダマントのナミダ”と呼ばれるものへと、姿が変貌する。

 それが、ラクリマを失ったアダマントの末路である。

 巧馬の話と、彼から渡されたナミダ、そして姿の見えない湊。

 ここまでの情報を揃えられては、白雪には疑う余地などありはしなかった。

 青黒く輝く石は、湊の成れの果てなのだということを。

「…………」

 言葉など出なかった。

 白雪は、震える手から湊のナミダが零れ落ちてしまわないよう、ぎゅっと掌の中にしまい込んだ。

 体を吊っていた数本の糸が順番に切れていくかのように、徐々に体から力が抜けていくような感覚に、白雪はその場にへたり込む。

 狭く華奢な背には抱え切れないほどの、重い重い悲壮が白雪の背にのし掛かっていることが、黒陽には痛いほどよく分かった。

 彼女が悲しみ、傷付けられた事実は、彼に我を忘れるほどの怒りをもたらした。

 体内で嵐が生まれたかのように、彼の中でラクリマが暴れた。

 感情のまま、荒れたラクリマを巧馬へぶつけようと構える。

「……っ……」

 しかし、黒陽は巧馬を睥睨したまま、一向に攻撃に移ろうとはしなかった。

 そんな黒陽を、巧馬は喉を震わせて嘲笑った。

「分かるよ、お前の気持ち。俺を殺したいよね。でも、できないよね? その子の目の前で。その子の為に。“その子を理由に”、殺せないよね?」

 理性を焼き切られるほどの怒りに苛まれようと、それは白雪を想うが故のものだ。

 白雪を思っての行動でも、彼女を傷付け追い詰めてしまうのなら、黒陽には巧馬を手にかけることなど、できるわけがないのだ。

 もし、巧馬が接触を図ってきたのが黒陽と白雪の二人きりのときだったなら、黒陽はもっと上手く立ち回れていたのだろうが、現実はそう都合良くはいかない。

「お前はその子を守れない。“人間擬き”のお前には、ね」

 切れるほど強く唇を噛み、巧馬を睥睨し続ける黒陽に、巧馬は短く息を吐いて笑うと、白雪へ視線を滑らせた。

「ねぇ……」

 黒陽に向けたものとは全く違う温度の眼差しと声で、囁く。

「思い出してごらん? もう、誰も傷付けたくないのなら」

 その声は、直後に姿を消した巧馬のラクリマを感じられなくなっても、白雪の耳を犯していた。







 ヒバシリとヤシロがそこに辿り着いたときには、全てが終わっていた。

 そこには、座り込んだ白雪と、彼女に寄り添う黒陽がいた。

 弱々しい彼女のラクリマは不安定に揺れ、乱れ。漏れ出したラクリマが風を生み、小石や落ち葉を震わせる。

 ラクリマが暴走する兆候だと悟ったヒバシリとヤシロは、状況を飲み込むことができないながらも、このままでは危険だと判断し、彼女に呼び掛けようと一歩を踏み出した。

 けれど、彼等には、それ以上距離を詰めることはできなかった。

 白雪のラクリマは、まるで発狂するかのように瞬間的に膨れ上がり、弾けたのだ。

 突風を起こすこともなく、風刃を生み出し牙を剥くこともなく。

 膨大な量のラクリマが小さな雫のように、はらはらと散り、霧散していったのである。

 それは、彼女の声なき嘆きに他ならなかった。

 気付けばヤシロの目からは、涙が一筋流れていた。

 茫然と立ち尽くすことしかできない大人二人の前で、白雪は力なく立ち上がった。

 黒陽に支えられてはいるが、おそらく自分の力だけで。

 緩慢な動きで振り向いた彼女は、振り向きざまにフードを被ってしまったため、ヒバシリとヤシロがその表情を確認することはできなかった。

 白雪は二人がいる方へ歩みを進めるが、二人など見えていないかのように、一瞥もくれず横切って行く。

 彼女に続く黒陽もまた同様。二人に関心を向けることはなかった。

 歩みを進める白雪が向かったのは、先程まで彼女達がいた場所。

 戻って来た白雪等に……否。白雪に声を掛けることは、誰にもできなかった。

 彼女からは、何も感じなかったのだ。

 怒りも、悲しみも、何一つ表に出されてはおらず、恐ろしい程に、生気が希薄だったのだ。

 チハヤの前に膝をつき、その体に触れる白雪の手の青白さに、生者ではないような錯覚を覚えた者は、何人いただろうか。

 やがて白雪のラクリマがチハヤを包むと、血の気をなくしていたチハヤの頬に朱が差し……彼女の真っ白な衣服が赤に染まった。

「……っ……!」

 周囲で引きつった声がいくつも上がった。

 チハヤの傷が白雪に移動したかのような。そんな異様な光景を前に、息を呑む音はそこかしこから聞こえた。

 もし、視界で捉えた事実の認識が間違っていないのであれば、チハヤは助かったとしても白雪は……。

 そう危惧することは、ごく自然な発想だと言えるだろう。

 だが、不思議とこの件に口を挟む者はいなかった。

 それは恐らく、あの黒陽でさえ固く拳を握り、唇を噛み締め、必死に諦観しているからだろう。

 やがて。チハヤの次に彼女がラクリマで包まれると、腹部を中心に広がっていた赤は見る影もなく消え失せていた。

 一つ、深く呼吸をした白雪の肩がゆっくりと浮き沈みする。

「……う……」

「……! チハヤ……っ?」

 短い呻き声を漏らしたチハヤに、ダンがすぐさま反応を見せると、彼の呼び掛けが聞こえたのか、チハヤの瞼が鈍く震えた。

「ダ、ン……? ねぇ……さ……?」

 重い瞼を開け、ぼやけた視界に二人の輪郭を捉える。

 白雪は、目を凝らそうとするチハヤと、傍らで座るダンの手を取り、彼等の手を重ね合わせると、自身の両手で包み込んだ。

 彼等は、自分達の手の中に感じた石のような冷たい感触から、白雪に何かを持たされたのだと気付いた。

「……ごめんなさい」

 俯き、両手で包んだ彼等の手に、祈るように額を付けた白雪が、時間を掛け、やっと口にした謝罪に、二人は慄いた。

 生気が薄い白雪が、ようやく声を聞かせてくれたというのに、声にさえ生気を感じられなかったのだ。

「私を探してくれて、ありがとう。けど……もう、いいの」

 自分達の手の中にある石のような塊の冷たい感触と、白雪の様子。

 そして、姿を消したままいつまでも現れない湊。

「姉ちゃん……」

「姉さ、ん……」

 彼等は、全てを悟った。

「ごめんなさい……ありがとう」

 謝罪も。感謝も。彼等には別れの言葉に聞こえた。

 自分達はその言葉にどう応えればいいのか、彼等は鈍い思考を必死に働かせ、記憶にある単語の数々をひっくり返して探した。

 あれは違う。これも違う。

 どれもこれも、白雪に届くように思えなかった。

 自分達では、何を言っても彼女を追い詰めてしまう気がしたのだ。

 こんなにも小さく、今にも消えてしまいそうな彼女を抱き締めることも。

 自分達がするには力不足だと、できなかった。

 今の彼女に、今の自分達がそうしたところで、何の励ましにもならないと。

 一言も返せず、大粒の涙を零すだけ。

「さようなら」

 ついに、別れの言葉を告げられ、白雪の手が離れても、ダンとチハヤは黙ったまま、動けなかった。

 それ以外の言動、行動は、白雪を困らせ、追い詰めてしまうだろうと思えた。

 あの日、姿を消す前の白雪が言ったように、自分達が彼女を忘れていれば、こんなことにはならずに済んだのだろうか。

 彼女を悲しませず、湊もここに戻って来れたのだろうか……。

 今更ながら考え、彼等は震える互いの手を握った。

 大切な人を忘れるということは、とてつもなく恐ろしく、悲しく、苦しいと、想像しただけで胸が軋んだ。

 白雪は立ち上がり、彼等に背を向ける。

 嗚咽を噛み殺し、彼等は遠ざかっていくその背から目を逸らさなかった。

 一度こちらに視線を投げた黒陽が何かを呟き、白雪の後に続く。

 彼が何者なのか、彼等は明確には知らない。

 それでも、白雪を見つめる眼差しから感じたものが本物であることを信じようと……。

 どうか、彼女を一人にしないでくれ、と。

 どうか、彼女を守ってくれ、と。

 どうか、どうか、と……。ただ祈るばかりだった。

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