第16話 終幕と開幕①

 湊の登場により、巧馬の能力によって体の自由を奪われていた彼等に自由が戻った。

 握ったままだったナイフのハンドルを落としたチハヤは、倒れる体を床に手をつき支えた。

 自由になった彼等だが、だからと言って動くことができた者はいなかった。

 誰も分からなかったのだ。今、自分がどうすればいいのかが。

 影に包まれた巧馬を険しい顔で睨んでいた湊は、白雪に視線を移すときには、険が抜けた切なげな表情を浮かべていた。

「お会い、したかった……。ずっと、貴女に」

 息を乱し、血の気のない顔をした彼に、白雪は悲痛な面持ちで震える足を彼の元へ急がせた。

 今もラクリマを使い続けている湊の中に残されたラクリマは、あと少しで命に関わるところまで磨り減っていた。

 何とかしなければ。彼を生かさなければ。

 白雪は胸中で自分を叱咤して、湊に触れた。

 彼女の持つもう一つの能力なら、彼を死の淵から引き上げることができるからだ。

 自らの傷や疲労を、なかった状態に戻す能力。巻き戻しの能力を応用した、他者の傷を自分に移し、治すというもの。

 ラクリマを消費した状態を自分に移せば、湊はラクリマの枯渇から脱却できると。

「いけませんっ……」

 だが湊は、自分の状態が白雪に移り始めると、彼女の手から離れようと後退った。

「もう、貴女が弱っていく姿は、見たく、ないんです」

 白雪が湊の状態を自身に移せたのは僅か。まだ息も絶え絶えだというのに、彼はこれ以上の回復を拒んだ。

 とは言え、そんな弱り切った湊を見ていられないのは、白雪も同じこと。

 首を横に振り、もう一度触れようと手を伸ばすのだが……。

「つらそうだね、湊」

「……!」

「……っ……」

 またも白雪は身動きが取れなくなり、湊が生み出した黒い影は消え、平然と笑みを浮かべた巧馬の姿が現れた。

 湊に影を消す意思はなく、強制的に能力を解除させられてしまったのだろう。悔しげに声を零し眉根を寄せた。

「俺から直接ラクリマを吸収し、能力を使えないようにしようとしたのか。考えたね。成功していれば、俺はこの場で動けなくなっていただろう。でも、残念。“化物のような人間”なら別だけど、その能力は君の手に余る」

 愉快げに口数を増やした巧馬の声は、心なしか弾んでいた。

 しかし、白雪には彼の口から出る感情とは裏腹に、その目は冷め切っているように見え、ゾッと背筋を凍らせた。

「あと、もう一つ。君はその能力をコピーするべきではなかった。君自身の能力は、他者からコピーした能力を一時的に自分以外の第三者に使用させることもできる。つまり、君が俺にその能力の使用を可能にした場合……」

 そこで言葉を切り、目を弓なりにして微笑んだ巧馬を見て、白雪は気付く。

 巧馬は、アドウェルサスの面々やチハヤを間接的に殺そうとするような状況を何度も作っていながら、未だに一人の死者も出していない。

 その理由は、ほとんどは彼の気まぐれで中断されていたから……とも見えたのだが、そもそも理由などなかったのだ。

 これまで巧馬は、誰も殺そうとしていなかっただけのこと。

 あの状況で誰かが死のうが死ぬまいが、どちらでも良かっただけのことだ。

 ただ一人、湊を除いて。

 湊に向けられた巧馬の目に、明確な“殺す”という意思を、白雪は見たのだ。

「くっ……そ!」

 湊は必死に自由を失った体で拒絶しようとするが、巧馬に伸ばそうとする手は痙攣したように震えるだけで、止まってはくれなかった。

 湊が第三者のアダマント、巧馬に触れる。それがコピーした能力の譲渡方なのだろう。

 阻止しなければと、白雪も動かなくなった自身の体を必死に動かそうと試みるが、先程のような荒療治はそう何度もできるものではない。

 何より、多くの気力と集中力を必要とするその作業をするには、彼女を襲う強烈な焦りが大いに邪魔をした。

 仮に、先程と同じことができたとしても、間に合うことはなかっただろう。

 湊の手が巧馬に触れ、その瞬間。巧馬のラクリマを纏った影が湊を呑み込んだ。

「湊!」

「湊さん!」

 白雪とチハヤの悲痛な声も虚しく、影の中で湊のラクリマは着々と減少していった。

 このままでは、数分と保たず湊のラクリマは尽きるだろうが、巧馬は非情で、ラクリマの吸収速度を早めたのだ。

 数分という猶予さえ、与えてはやらないと言うように。

 湊のラクリマが、生まれたばかりの赤ん坊ほどまで減少し、もう駄目かと思われた。

 ……だが、そのとき。

 巧馬の顔から、初めて笑顔が消えた。

 強烈な存在感を放つラクリマが、湊を包む影の内側で生まれ、一気に増幅し影を破裂させた。

 巧馬の影を打ち消したそれは、同じく影ではあったが、込められたラクリマは別人のもの。

「“今度は”間に合ったようだね」

 笑みを消した巧馬だが、声だけは嘲笑するような抑揚が付けられていた。

 振り向いた巧馬の頬を狙い、空を切って突き出された拳を、彼はすんでのところで避け、距離を取る。

「やぁ。相変わらず遅かったじゃないか。“人間擬き”」

 言う巧馬の顔には、湊に向けたのと同じ類の笑みが浮かべられていた。

「“化物擬き”が……」

 全身に黒を纏ったその人物は、一言そう吐き捨てると、巧馬と対峙したまま一歩後退し、茫然と彼を見上げる白雪の隣に立った。

「黒、陽……」

 隣に感じる強い存在感に、白雪はその人物の名前を呼んだ。

「遅くなって、ごめん。白雪」

 黒陽は白雪の声に応えると、倒れ込む湊を片腕で受け止め、自身が生み出した影を彼に纏わせた。

 纏わせた影から、徐々にラクリマが減っていくと、比例し湊のラクリマが増えていく。

 黒陽の能力は、他者が生み出したラクリマのエネルギーを吸収するだけでなく、本人から直接ラクリマを奪うことも、自分のラクリマを他者に与えることもできるらしい。

 動くことに支障がない程度までラクリマを送ると、黒陽は湊に纏わせた影を消し、彼にしては丁寧に床に下ろした。

「黒陽、か。随分いい名前を貰ったものだね」

「お前が気安く呼ぶな」

「安心しなよ。頼まれても呼びたくはないから」

 双方、言葉の応酬で敵意をぶつけ合うが、それだけならば可愛いものだ。

 ほんの今しがた敵意と表現したが、彼等が向け合っているのは敵意と一言で片付けるには、殺伐とし過ぎている。

 重く、鋭く、冷たい。殺意と表す方が頷ける嫌悪だった。

 まさに一触即発。

 爆弾の導火線の側で、轟々と燃える二本の蝋燭。先に導火線に火をつけるのは、どちらの蝋燭か。

「……まぁ、今日はお前を相手にする予定はないんだ」

 熱された蝋が、ポタリと導火線の上に零れ落ちた。

 パン!…………乾いた破裂音が一つ。

「…………え……?」

 鼻腔を掠めたのは、硝煙の香り。

 彼等は、決して巧馬から目を逸らしてはいなかった。

 彼等がいるのは、瞬きをした程度の、一秒にも満たない刹那先の未来だ。

 今、この瞬間。

 彼等の前で笑みを浮かべる巧馬の手には、黒光りする拳銃が握られていた。

 銃口が向けられた先にいたのは、黒陽でも、湊でもなく、チハヤだった。

 何が起きたのか、瞬時に理解できた者はいない。

 巧馬が拳銃を取り出した姿を、チハヤに向け発砲した姿を。誰も目にしてはいないのだから。

「……っ……!」

 故に、彼がとった行動は、予想だにしないものだった。

「湊!?」

 回復したばかりのラクリマを使い、巧馬の元へ瞬時に移動した湊は、背後から巧馬を押さえ付けた。

「申し訳ありません……」

 巧馬の肩口から、白雪へ目線を投げた湊は、悲壮な表情を浮かべる彼女へ、凪いだ微笑を浮かべた。

「貴女に会えたことは、間違いなく俺の幸せでした」

 今際の際、愛しい人へ捧げる吐露のように。

 たった一言そう囁き、湊は巧馬と共に姿を消した。







 風もなく。小動物の鳴き声もなく。

 森の中は静かだった。

 湊は巧馬を押さえたまま。巧馬も押さえられたまま。微動だにしない。

 二人の背後から聞こえる水が流れる音だけが、二人の間で確かに時が流れていることを証明している。

「馬鹿だね。“人間擬き”がいる場所にいれば、守ってもらえただろうに」

「白々しい。俺がお前を連れて移動しなくても、お前が行動を起こしていたはずです」

「人聞きの悪い言い方だね」

「どうとでも」

 緊迫した空気感の中、軽い舌戦を繰り広げ、湊は巧馬を押さえる腕にしっかりと力を込めた。

「いいのかい? ようやく“本当の君”として、あの子に再会できたのに」

「お前は“あの方”を不幸にする。“あの方”の幸せの為に、お前を野放しにしておくことはできない……!」

 言い捨てた湊は、力一杯に土を蹴り、巧馬と共に背後へ飛んだ。

 地面から僅かに浮いた体は、すぐに重力に従い落ちていく。

 その先に、地面はない。

 遠退く空と、森。そして、空に向かって伸びていく崖の岩壁。

「不幸……。いや……」

 目を閉じた湊は、笑みの混じった巧馬の声を遠くに聞きいたのだった。








「どう、なってんだ……こりゃ」

 目の前に広がる光景に、ダンは茫然とそう零した。

 消えた湊を追い、遅れてやって来たダンが目にしたのは、腹部から血を流し、仰向けに倒れているチハヤと、彼を囲うアドウェルサスの面々だった。

 腹部に当てられたタオルには血が滲み、チハヤは青白い顔で目を閉じている。

 そこには湊の姿も、彼を追うように内部へ入った黒陽の姿も、姉である白雪の姿もなかった。

「……ん?」

 立ち尽くすダンに気付き顔を向けたワドに、ダンは反射的に食って掛かろうとするが、彼等の行動の意味を察してか、飛びかけた理性を引き戻し、側に駆け寄った。

「……一体、どうなってんだっ」

 まず何から問うべきか。迷うように目を泳がせ、そう絞り出す。

 聞きたいことなら、彼にはたくさんあっただろう。

 チハヤが怪我をしているのは何故か。ここへ来たはずの湊と黒陽はどこにいるのか。……何故、ここに白雪がいないのか。

 問われたアドウェルサスの面々は、苦悶な表情で目を逸らす者もいれば、顔を伏せてしまう者もいた。

 誰が答えるのか。ダンは早く答えろと急く気持ちを歯噛みして抑え、一人一人見回した。

 あんなにも横柄な態度を取っていたラクが、今にも泣きそうな顔で俯いている姿に若干の驚きを抱きつつ、しかし気にしている余裕もなく。

「答えろよ!」

 自分こそ泣きそうな声で、思わず叫んでいた。

 しんと静まり返っていたこの場で、ダンの声はよく響いた。

 その反響がなくなった頃、重い口を開いたのはワドとメグミだった。

 彼等も未だ混乱しているのか、要領を得ない説明ながら、彼等は全てを話した。

 チハヤが倒れた経緯。湊の異変。黒陽の行動。

 そして、白雪の痛ましい姿と、その元凶。

 自分達がチハヤを見ているからと、白雪と黒陽を送り出し、そのすぐ後にヒバシリとヤシロもあとを追ったこと。

 話が終わっても、ダンはすぐに口を開くことができなかった。

 力なく膝をつき、動揺に揺れる目をチハヤに落とし、腹部を覆う赤に染まったタオルの上に、そっと手を置いた。

「……死ぬんじゃ、ねぇぞっ」

 弱々しい声に、応える声はない。


 パンッ……。


 どこかで、何かが弾けた音が聞こえた気がした。

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