第15話 支配者の笑み②
「ナツヒぃ!」
倒れた息子を前に、ヒバシリは叫び、駆け寄った。
小さな体を抱き上げ、胸元に耳を当て、鼓動を確かめる。
聞こえた鼓動が息子のものなのか、騒がしい自分の心臓のものなのか。
素早く駆け寄ったはいいものの、焦りからすぐに判断することができず、大きく舌打ちし、代わりにナツヒの口元に手をあてがった。
掌に規則的に当たるぬるい熱を感じた。
どうやら眠っているだけのようで、ヒバシリはようやく安堵の息を零すと、絶えず笑みを浮かべる金髪の青年を鋭く睥睨した。
「何のつもりだ、貴様!」
ヒバシリの怒声で、空気が僅かに震える。
そんな怒声を向けられたというのに、金髪の青年の笑みは消えるどころか、愉快だと言わんばかりにそこに居座っていた。
「俺は挨拶をしただけだよ。おやすみ、と」
「ふざけるな!」
飄々と言って退ける金髪の青年に、激怒したヒバシリはナツヒを床に寝かせ、アドウェルサスの面々、そして白雪を背に庇うように金髪の青年に対峙した。
勢いに任せ、殴り掛かろうとするのではと肝を冷やしたヤシロだが、存外、状況を見て動こうという冷静さはあったようで、少しばかり胸を撫で下ろす。
「酷いな。俺は君に何かしたかい? 睨まれるようなことをした覚えはないよ」
傷付きました。と言わんばかりに眉尻を下げ、切なげな声を出す金髪の青年に、ヒバシリは小さく舌打ちする。
「あんな顔をしておいて、よく言えたものだ」
ヒバシリは……この場にいる全員は、既に目にしている。
取り乱した白雪を目にした金髪の青年の優しい笑みに、歪みが生じた瞬間を。
「お前は、白の解放者の何だ」
凛然とした彼女を、あんなにも怯えさせるこの青年は、何者なのか。
そう警戒心を持って見たことで、ヒバシリ等はより金髪の青年の異様さを実感した。
これほどまでに柔和な佇まいで、慈愛さえ感じさせる笑みを浮かべているというのに、背筋を冷や汗が伝うほどの寒気を覚えてしまうのだ。
初めて対面し、この寒気の意味すら知らない自分達がこうなのだから、知っているであろう白雪が感じている恐怖はどれほどか。
ヒバシリには、想像も付かなかった。
「あの子の何、か。さぁ? 何だろうね。それは是非とも、俺も知りたいな」
態とらしく顎に指を添え、思案のポーズを取る金髪の青年は、ヒバシリの向こう側に隠された白雪を覗くように首を動かした。
その仕草は、首を傾げ白雪に問いを投げ掛けているようにも見え、彼女はビクリと肩を震わせた。
「ねぇ。俺は君の何かな?」
さらに、“思い違いではないぞ”と畳み掛けるように、言葉にして白雪を狙う。
「俺はお前に聞いている!」
その視線を遮るように、ヒバシリは声を荒げ、再び金髪の青年の視線から白雪を隠した。
けれど、背後から感じる彼女のラクリマは、彼がどんなに青年の前に立ちはだかろうと、その視線から匿おうと、落ち着きを取り戻す兆しを見せなかった。
それどころか、ヒバシリが白雪を庇えば庇うほど、彼女のラクリマは乱れていった。
「邪魔、するんだね」
「……!」
聞こえた声に、ヒバシリは白雪に向けていた意識を金髪の青年に戻した。
落ち着きのある声のトーンが、僅かに下がったように聞こえたと思えば、優しげな笑みは仮面でも被ったように、作り物のように固まっていた。
「ヒバシリ! 逃げろ!」
ヤシロの叫びを耳にしながら、ヒバシリはほぼ反射でナツヒを抱き上げ、その場から飛び退いた。
「まぁ、待ちなよ」
しかし、どういうことだろうか。
ヒバシリの体は突然、動きを止めてしまう。
「何してるんだ!」
「くそっ……動かん!」
焦るヤシロの声に、ヒバシリは端的に自身に起きた現象を伝える。
金髪の青年に呼び止められた。その瞬間、体が動かなくなったのだと。
「てめぇ! 何しやがった!」
「ヒバシリさんを離せ!」
どんなタネがあってか、ヒバシリの動きを封じられ、ついにアドウェルサスの面々も、黙っていられる状況ではないと判断したのだろう。
金髪の青年を捕縛しようと、数人が駆け出した。
「一、二、三……」
飛び出した人数を、のんびりと声に出し数える金髪の青年の口角が、不自然に吊り上がる。
人数を数え終わり、次に彼が口を開こうとした、そのとき。
「……な!」
「あんた、何し……!」
金髪の青年とアドウェルサスの間に割り込んだ人物がいた。
直後、驚愕の声を上げる彼等の体は風に包まれ、元いた場所まで吹き飛ばされてしまう。
「いってて……」
突風に呑まれたわけではないため、軽い尻餅をつく程度で済んだ彼等は、差し障りなく立ち上がるが、その面持ちは困惑に染まっていた。
「おやおや」
愉快げに零された声を背に、アドウェルサスの面々と対峙し、俯き彼等に手を向けているのは、怯えていたはずの白雪だったから。
「おい! 何すん……だ」
条件反射で噛み付こうとしてしまうラクだったが、つい睨み付けようと白雪に目を向けた途端、その語気から力が抜けていった。
金髪の青年に怯えていた白雪が、その青年を庇った。その図であるはずだが、どうしてだろうか。
ラクの目には、白雪は今も怯えているように見えたのだ。
向かい合っている自分達にではなく、背後の青年に。
「……私を……ら……ないで」
か細く、小さな声で、白雪が何かを囁いた。
その声はあまりにも小さく、彼女と向き合った面々は、その声を拾おうと自ずと静まり返った。
彼等に手を向けたまま、顔を上げた白雪。
フードがほんの僅かにずれ、フードで押されて目にかかっていた前髪の隙間から、美しい、しかし仄暗く光る青い目が見えた。
その瞳は、何を訴えようというのか。
ゆるりと開いた口唇が、今度は音を発せず、形だけで言葉を紡いだ。
ワタシヲ、マモラナイデ。
拒絶ではなく。命令でもなく。
白雪の目と口が語ったのは、懇願だった。
「どう、して……」
口に出し、チハヤは既にその答えを貰っていることを思い出した。
白雪は……姉は、何度だって同じ答えを彼に与えた。
大切だから、と。
ならば、彼女を大切に思う自分は、彼女に何をしてやれるだろうか。
チハヤは思考に呑まれ、白雪が背に庇った……ように見える金髪の青年を見遣ると、はたとその視線が交わった。
「……っ……」
思わず引きつった声を上げそうになり、咄嗟に唇を噛み締めたチハヤに、金髪の青年はうっそりと微笑み掛けた。
そしてその口唇は、何か、言葉を紡ごうと動く。
一音目。“シ”
そのことに気付いたのか、焦った様子で彼を振り返り、口元へ手を伸ばした白雪の姿が、チハヤにはやけにゆっくりに見えた。
本能的に、彼女の姿を目に焼き付けようとしたのだろうと、鈍い思考の中で冷静に思う。
そして、二音目。
金髪の青年が紡いだ言葉は、たった二音で成り立つ言葉。
白雪は金髪の青年の言葉を封じようと、彼に手を伸ばすが……チハヤの体は動いてしまう。
能力を使い、腕だけを別の場所に移動させ再び戻すと、その手に握られていたのは、鋭利なナイフ。
「……!」
「じっとして」
声にならない悲鳴を上げた白雪が、チハヤを振り向き、風でナイフを弾こうとラクリマを操作しようと試みるが、金髪の青年の声がそれを阻んだ。
チハヤの動きに遅れて気付いた周囲も止めに動くが、既にナイフを握ったチハヤの手は、切っ先が自身に向くよう握り直され、喉元に向けられる。
「やめて!」
白雪の悲鳴は、制止の合図にはならなかった。
ナイフの先端は、チハヤの喉元の皮膚を突き破り……。
「止まれ」
金髪の青年の一言により、停止した。
「……っ……」
息を詰めたのは。ドッと息を吐いたのは。固唾を呑んだのは。最早、誰なのか。
薄皮一枚を突き破ったところで停止したナイフは、依然としてその場に留まってはいるが、今のところ最悪の事態は訪れてはいない。
それどころか……。
「……!? う、動けねぇ!」
「ほ、本当だ!」
「……くっ、他者を操る能力か」
チハヤ以外の者達の体もまた、停止していたのだ。
突然ヒバシリが動けなくなったこと然り、チハヤの行動然り。
これは金髪の青年の能力によるものだろうと、考えた者達の頬を大粒の汗が伝い落ちる。
「他者を操る能力? いやいや、俺の能力では、“誰も殺したことがない人間に誰かを殺させる”何てできないよ。せいぜい、“誰かを殺そうとしたことがある人間に誰かを殺させる”ことができるぐらいさ」
「うわあああ!」
「か、体が勝手に!」
「嫌だ!」
金髪の青年は、自身の能力は他者を操る能力ではないと否定したが、その言葉とは裏腹に、アドウェルサスの面々の体は彼等の意思とは無関係な動きを見せた。
各々の能力が発動し、身近にいる仲間に向けさせられてしまったのだ。
相手を傷付けようとするその動きに悲鳴を上げる彼等を見据えた白雪は、瞬息の間に一気にラクリマを集中させ、解き放つ。
彼等に傍らで生まれた風が、仲間に向けられた刃を防ぎ、チハヤが握ったナイフを砕き、望まない動きを強いられた体を押さえ付けた。
「……っ……!」
凶器となった彼等の能力、そして彼等自身を、誰も傷付けないよう制圧する為の精密な風の操作は、著しく気力とラクリマを消費する。
そんな作業を、自身に掛かった能力による拘束に抗い行えば、気力は数倍にも失われ、爆発的に加熱させたに等しいラクリマの消費もまた、常の数倍にも当たる。
薄く口を開き、肩で呼吸をする白雪に、金髪の青年は困ったように微笑んだ。
すると白雪の体から力が抜け、一歩よろける。
「ごめんね? 俺の能力は、別に声に出さなくても使えるんだ」
フラついた軽い体を片手で支えた金髪の青年の謝罪は、声色と同等の信憑性はない。
「……っ貴方は!」
白雪は歯噛みし、腰に回った彼の手を掴み、引き剥がす。
「貴方は、何がしたいの……? 私に理由があるのなら……っ私を恨んでいるのなら、悪意は私だけに向ければいい!」
殺したければ私だけを殺せ。そう言外に言い放ち、掴んだ彼の手を急所である自分の首に誘導すると、金髪の青年は虚をつかれたように瞬いた。
「恨む? 俺が、君を?」
心当たりがありませんと言わんばかりに復唱され、金髪の青年の手を掴む白雪の手に力が篭る。
彼はその手で彼女の首……の、上。
フードをそっと払い、彼女の素顔を露わにさせた。
白く美しい肌からは血の気が引き、青い目は不安定に揺れながらも、彼を映し続けている。
長い間、隠し続けてきた。顔を見られ、他者の記憶に残らないように。いつでも他者の中から、自分を消せるように。
そうすることで、他者を守れるように。
その境界線をいとも簡単に壊したのは……壊すことができた、この金髪の青年は……。
「君は、本当に忘れてしまったんだね」
凄艶な笑みを浮かべ、悦楽の声で囁いた。
『おはよう』
かつて、この金髪の青年に……巧馬に囁かれた声が、現実に鼓膜を震わせているのかと思うほど鮮明に、白雪の脳内で再生された。
「あっ……ぁあ……」
呼吸が乱れ、震える唇から意味のない声だけが漏れる。
頭の中を掻き回されているように、白雪は何も考えることができなかった。
彼女の中で起きた異常事態を、一言で恐怖と呼んでいいものか。
言葉を発することも、動くこともできなくなってしまった彼女を、巧馬は愛おしげに眺めていた。
その異様な緊張状態を崩したのは、強い怒りを孕んだラクリマの気配だった。
「お前が……!」
向かい合う白雪と巧馬の傍らに現れた、その人物は……。
「お前が彼女の害悪だ!」
黒い影を生み出し、巧馬の身を呑み込んだ。
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