第15話 支配者の笑み①
『行きたい』
自分の声が、悲痛に囁く。
眠りについていない現実で、白雪は初めてその声を聞いた。
脳裏を過ったにしては、あまりにもハッキリと聞こえた声は、他人事には到底思えない胸の痛みを彼女に抱かせた。
痛むのは頭であるのに、震える手は頭ではなく胸と口に伸びる。
痛みはないはずが、締め付けられるように苦しく感じる胸を押さえ。
一度口にしてしまえば、会えるまで止めどなく呼び続けてしまいそうな名前を声に出してしまわないように、口を押さえた。
白雪を心配し、呼び掛け続けるチハヤの声も、困惑しながらも気遣わしげに様子を窺ってくるアドウェルサスの誰の声も、白雪の耳には届いていた。
それでも、その声に応えようという思考には至らなかった。
白雪が見せた突然の異変に、周囲も、彼女自身もどうすることもできずにいると、遠くで、小さな足音が聞こえた。
「……!」
部屋の入り口へ、真っ先に振り向いたヒバシリは、驚愕の表情で目を見開いていた。
「これは……まさか。そんな……。こんなことが……」
うわ言のように放たれるヒバシリの声は、弱々しく震えていた。
近付いてくる足音。同時に近付いてくる、か弱くも生に溢れたラクリマ。
「まさか……」
ごくりと固唾を呑み、ふらりと入り口へ足が伸びる。
期待と、疑心。入り口に釘付けになる彼の目に飛び込んできたのは……。
「父さん!」
「ナツヒ!?」
擦り傷だらけで薄汚れた少年……ヒバシリの息子、ナツヒだった。
「ナツヒ……本当に、ナツヒなのか!?」
体当たりするようにヒバシリに抱き付いたナツヒの肩に、ヒバシリは戸惑いの残る手で触れた。
長いこと外気に晒されていたらしく、服越しに触れた華奢な肩からは冷気を感じたが、触れたままにしていると次第に温かくなっていった。
その温もりが、失ったはずの息子が目の前にいることを、ヒバシリに実感させた。
「ナツヒ……っ。お前、無事だったのか……」
非能力者への怒りは、今のヒバシリからは一切感じられない。
ナツヒを抱き締め、泣きそうな声を出した今の彼は、ただの優しい父の顔をしていた。
ナツヒも父の広い背に、回せるだけ腕を回し強く抱き締め返す。
「最近まで研究所に捕まっていたけど、助けてもらったんだ。ナツキも、ナツミも無事だ。母さんにも会ったよ」
それから、真剣な声でそう言った。
離れることを惜しむ父の腕から抜け出し、まっすぐに父を見上げた。
「父さん、母さんのところに帰ってあげてよ。何をしようとしているのか詳しくは分からないけど、俺は俺達の為に、父さんに危ないことをしてほしいとは思わない。そんなことをするより、母さんの側にいてあげてほしかった」
「ナツヒ……」
真摯に訴えてくる息子の言葉に、ヒバシリは顔をくしゃりと歪める。
そしてもう一度。強く息子を抱き締め、すまなかったと詫びたのだ。
二人の姿を見て、アドウェルサスの面々は目に涙を浮かべ、再会を喜んだ。
ヤシロは目頭を押さえ、心の底から安堵した笑みを零すと、未解決の気掛かりへ視線を移した。
「父さん、あの人に何かしたの? どうしてあんなに苦しそうにしてるんだよ。あの人は、俺達を助けてくれた恩人なんだ!」
「白の解放者が!? そうだったのか……。い、いや、あの様子になったのはついさっきだが、俺にも何が何だか……」
息子の口から告げられた事実に、ヒバシリの顔からサッと血の気が引く。
それもそうだ。息子を助けてくれた恩人に、手を上げようとしてしまったのだから。
白雪を指差し厳しい声で問う息子に、ヒバシリはたじろぎつつ首を振った。
ナツヒが現れる直前から、明らかに様子がおかしくなった白雪。
「苦しいの? 姉さん、しっかりして。姉さんっ」
現れたナツヒには目もくれず、白雪に寄り添い声を掛け続けるが、苦しげに胸と口元を押さえたまま。彼女の反応が変わることはなかった。
けれど、チハヤが白雪の背をさすろうと手を伸ばすと、彼女はぎこちなくも何度も。何度も、何度も、首を振った。
「姉さん……俺、どうしたら……」
大切な姉の痛々しい姿を目の当たりにしているというのに、彼女がそうなってしまった原因も、解決方法もまるで思い浮かばず、チハヤは途方に暮れ、情けない声で顔を歪めた。
そんなときだ。
「いなくなればいいのさ。みーんな、ね」
この場にそぐわない、朗らかな声が聞こえたのは。
「あぁあああああ!!」
獣の咆哮のような絶叫を上げ、湊は地面をのたうち回った。
ダンの記憶にある湊はいつも冷静で、こんな風に声を上げ暴れるような姿は想像も付かなかった。
「湊、さん?」
湊を呼ぶ声が震えてしまうのは、黒陽から受けた攻撃の痛みの名残りからではないだろう。
このままではいけないと思いながら、何と声を掛ければいいのか、全く思い浮かばなかった。
ダンは、ただ帰りたかった。
大切な姉を見付け、守り。皆で帰りたかっただけだった。
それが、まさかこんなことになるとは、思いもよらなかったのだ。
「俺は、あの人を……っ今度こそ、僕、が……俺、僕が……僕は、俺、は……」
うわ言のように口から漏れる言葉は、一人称が“俺”と“僕”を行ったり来たり。
彼は湊であるはずなのに、違う誰かが同じ口で言葉を発しているような。
強烈な存在感を見せている、湊という目の前の存在が、ダンにはどうにも不安定なものに感じてならなかった。
ダンは半狂乱の湊から、険しい顔で彼を見下ろす黒陽へ視線を移した。
その目を見て、自分は何一つ理解することができないこの状況を、少なからず自分よりは黒陽の方が理解していると感じた。
「お前、何なんだよ……!」
責めるような色が混じる声は、助けを求める悲鳴のようだと。
彼へ心を砕いてやることのできない黒陽は、達観した感想を抱いた。
彼の感情から生まれたわけではないその感想は、抱いた瞬間に消えてしまうほど、彼の心に留まらない。
ダンの叫びに、引き結ばれた黒陽の口唇が開くことはなく、湊のうわ言と、合間に漏れる呻きが聞こえるばかりだった。
「どうなってるんだよ……! 何が起きてるんだよ!」
黒陽がダンを一瞥すらせずとも。
「答えろ……っ。お前は何を知ってるんだ!」
ダンは叫びに叫んだ。
「お前は、湊さんの……っ。姉ちゃんの何なんだ! 」
その瞬間。ほんの一瞬だけ、黒陽の目に熱が宿った。
そんな気がして、ダンは唖然と目を見開いていると、無理やり腹から声を出し続けたせいか、吐くように咳が出てしまう。
苦しい呼吸が落ち着きを取り戻し、咳が治った頃。
「…………」
湊のうわ言と呻きか止んでいることに気付いた。
途端。不気味なほどの静けさに包まれ、ダンは思わず固唾を呑み、湊に視線を戻した。
湊は、脱力した様子で佇んでいた。
ぼそり、と。彼の口が小さく開閉を繰り返し、何かを呟いていることが見て取れる。
その声はあまりにも小さかったが、獣化の能力を有するダンには聞き取ることができた。
“ウィン”様。
誰かの名前なのだろう。ダンには聞き覚えのないその名前を、湊は確かに震えた声で呟いていた。
刹那。湊は突如、瞬間移動の能力を使いこの場から消え失せてしまった。
「湊さ……!」
そのことに気付き、咄嗟に名前を呼ぼうとしたところで遅過ぎるが、茫然とししている時間はなかった。
湊が消えた直後、黒陽もまた動き出していたからだ。
ダンが行く手を塞いでいた入り口から、全速力で侵入した彼を目で追ったダンもまた、彼の後に続き駆け出していた。
明確な理由は、ダン自身にも分かってはいなかった。
ちらりと見えた黒陽の表情に、初めて焦りが見えた気がした。それに胸騒ぎを覚えてならなかった。
ダンが“姉ちゃん”と口にしたときだけ、黒陽の目が感情の動きを見せたからだろう。
彼が焦っている。それはつまり、“姉が危機にある”のだろうと。
優しい笑顔を携えた青年だった。
金髪の隙間から覗く目も、口元も。優しいという表情を構成する顔の筋肉の動き、佇まいから歩みの歩調、声色に至るまで、全てが完璧であった。
それ故、その場にいた者達のほとんどは、ここがどこであるのかを忘れるほど、警戒することができなかった。
彼方に吹き飛んだ警戒心を彼等に呼び戻させたのは、酷く乱れた白雪のラクリマを感知したからである。
「お父さんに会えたんだね。良かったね」
「あ、はい! ここまで連れて来てくれて、ありがとうございます。 でも、あの人が苦しそうなんですっ」
金髪の青年が親しげに声を掛けたのは、今しがたこの部屋に現れたばかりのナツヒだった。
ナツヒも、随分と信頼を寄せているような態度で、父の腕の中から抜け出し、金髪の青年に走り寄った。
「いいんだよ。一緒に行こうと誘ったのは俺だ」
二人のやり取りから、父を探しここへ一人で来ようとするナツヒを金髪の青年が手助けしてくれたのだと推測できた。
向かって来るナツヒを快く迎え入れるように、金髪の青年も親しげに片手を伸ばす。
一見、微笑ましくさえ見えるその光景に悪寒を感じたのは、白雪一人だろう。
「うわ!?」
突如、ナツヒと金髪の青年の間を突風が走り去り、ナツヒは体勢を崩し尻餅をついた。
打ち付けた尻の痛みよりも、ナツヒの意識を奪ったものへ、彼は愕然とした顔のまま振り向いた。
まさかの行動に、驚いたのはナツヒだけではない。
アドウェルサスの面々も、チハヤも、驚愕の面持ちで白雪を見つめた。
まさか。彼女がラクリマを纏わせ、ナツヒに手を向けているのだから。
「離れて……」
ナツヒが初めて耳にした白雪の声は、想像していたよりずっと冷たく、威圧的で、彼に大きな戸惑いを与えた。
そんな白雪の姿に、金髪の青年だけが、にこりと笑みを返した。
「……白の解放者。一体どうしたと言うんだ」
初めに声を掛けたのは、ナツヒの父であるヒバシリだった。
ナツヒへの威嚇にしか見えない光景を前に、もっと敵意ある声で威圧しそうなものだが、白雪への意識の向け方に変化があったのだろう。
ヒバシリの声に攻撃的な棘はなく、寧ろ彼女への気遣わしげな色が含まれていた。
それは、白雪が理由もなくナツヒを傷付けるようなことをするはずがないという信頼であると、たった一言の声色から読み取ることができた。
彼女を見つめる何対もの目からも、同じ気遣いが伝わってくる。
白雪は下唇を噛み、かぶりを振った。
そんな目で見ないでと、拒絶するように。
「可哀想に」
落とされた優しい声に、白雪の肩がビクリと跳ねた。
下唇に食い込ませた、心許ない犬歯が離れ、薄く開いた口唇から声の乗らない空気が僅かに漏れる。
「せっかく“みんな”を守ろうと頑張っていたというのに。台無しだね」
転んだ我が子を労わるような目で。
はたまた、傷心の恋人を慰めるような目で。
白雪を見つめる金髪の青年の笑みが、徐々に、質を変えていく。
「残念だったね。君が否定しても、彼等は君に心を砕いているようだ」
「…………」
穏やかな声の奥、遠く。喉を震わす、歪な愉悦。
震えながら首を横に振る白雪に、くっと喉を鳴らした。
「特に、この子は君をよく理解していたよ。本当にいい子だった。だから……」
「違う……っ。関係ない……!」
白雪が声を張り上げ、彼等も気付く。
そのときには、もう遅い。
「おやすみ」
金髪の青年が微笑みを向けた先。
糸が切れた人形のように、ナツヒは静かに目を閉じ、倒れたのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます