穢汙

 その頃、張岱は温柔郷おんじゅうきょうにて、姣童こうどう——日本風に言えば、陰間かげまのことである——との一夜のむつを楽しんだ後であった。今日の姣童はすこぶる淫乱、かつ尻の具合も一級品で、喟然きぜんとせんばかりに男を惑わし誑かす手練手管に長けていた。張岱のような歴戦の強者でなければ、他の者など抱けなくなっていただろう。

「何ともい奴じゃ……」

 張岱は、未だ眠って可愛らしく寝息を立てている姣童の肩をそっと撫でた。その肌は絹のように清らで滑らかで、何時までも触っていたいと思うほどであった。かつて遥か昔、漢の哀帝あいていが美少年で知られる寵臣の董賢とうけんと起き伏しを共にしていた時も、きっとこのようであったのだろうか、と、張岱はいにしえの時代に思いを馳せた。

 張岱が身を起こして寝惚け眼を擦った所に、突然、彼の下男が走って床の間に入って来た。

「旦那様!旦那様!」

 あまりにも性急に過ぎるその叫びに、張岱は煩わしさでしかめ面になった。

「何じゃ、騒がしい。入って来るなと言いつけておったろうに。」

「そ、それが……禊泉けいせんが……」

 下男は途中途中で舌を噛みながら、その重大事を主人に伝えた。

「何だと!?」

 張岱は蒲団を蹴飛ばして跳ね起き、多めの金を置いていくと、急いで身支度をして出立した。


 全裸になった住職と修行僧は、井戸のへりに屈んで尻を突き出した。

「ふんぬ!」

 住職の気張り声と同時に、尻から穢汙わいおの物が放たれ、泉の中に落ちていった。修行僧たちもそれに続き、穢汙を捻り出した。

 ぼちゃん、ぼちゃん、ぼちゃん、と、それが水に跳ねる音が、辺りに響いた。

 住職と修行僧たちは、樊噲はんかいのように顔を真っ赤にしながら、尚も気張って穢汙を泉に投下し続けた。水を汲みに来た下僕たちは、開いた口が塞がらないという風に、唯々唖然としていた。泉が穢されるのを、黙って見ているのみであった。

「見たか貴様ら!もうこの泉は仕舞いじゃあ!はっはっはっはっ!」

 住職は縁から降り立って手拭てぬぐいで尻を拭うと、勝利宣言のように言い放った。

 下僕たちは泉を覗いたが、その水底は先程ひり出された穢汙で濁り切っていた。これではもう飲めたものではない。落胆した下僕たちはすごすごと退散していった。


 張岱が下男と共に斑竹庵に着いた時には、もう住職たちは奥に引っ込んでいた。張岱は、泉の周りの閑散としているのを見て首をかしげた。いつもは人だかりであることを考えると、全くおかしな光景であるからだ。

 張岱は泉を覗き込んだ。そこは既に人が出す穢汙の物に穢されてしまって、嫌な臭いを漂わせていた。その時初めて、張岱は下男の焦った態度のゆえを改めて理解した。

 張岱は下男に命じて水をさらえさせたが、それは全くの徒労に終わった。穢汙を取り除くことはもう叶わない。試しに水を掬い上げさせてみたが、それは悪臭を放って、とてもではないが飲めるようなものではなくなっていた。

「ああ……そんな……」

 張岱はがっくりと肩を落とし、力なくとぼとぼと帰っていった。中華の悠久の歴史の中で、失われたものの数は計り知れない。秦始皇の治世には数多の書が焚されたし、南北朝の戦乱で南朝の建康は無残にも破壊され、唐の長安も李克用りこくよう朱全忠しゅぜんちゅうによって灰燼かいじんに帰してしまった。禊泉も、またその一つとなって、歴史の内に消えてしまった——

 その日は日がな一日、自室で俯いていた。食事さえ喉を通らない。まるで李夫人を失った漢の武帝や、楊貴妃を斬らねばならなかった唐の玄宗のように、ひたすら悲しみに暮れていた。

 落ち込む張岱の頭に、ふと、昨晩の姣童のことが浮かんだ。途端に、その柔肌が恋しくてたまらなくなった。そうだ、気を晴らすには、孌童びしょうねんと過ごすのが一番だ。そうだ、そうしよう……

 張岱は、銭を握りしめて、紹興の夜の街へ繰り出した。

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穢汙の泉 武州人也 @hagachi-hm

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