穢汙の泉

武州人也

禊泉

 えつ山陰さんいん紹興しょうこうの地に、禊泉けいせんと呼ばれる名泉がある。いや、かつてあった、と言うべきか。

 この泉は斑竹庵はんちくあんという寺の敷地にあり、紹興府の旧志にその名が見える。それによれば、「その色は霜空秋月そうくうしゅうげつの如し。井口に禊泉の二字あり、書法大いに右軍ゆうぐんに似たり」とある。

 この泉を世に広めたのは、かの紹興しょうこうの名士張岱ちょうたいとされる。張岱、あざな宗子そうし。名門一族の家に生まれた彼は、科挙に臨んで進んで官職を求めるようなことをせず、金や暇に任せて奢侈しゃしの限りを尽くした。庭園、美食、骨董、美少年、演劇、音楽など、自らの好む所を飽くことなく求めた。そんな彼も、明末清初の動乱に際して家産を失い、貧窮の内に寂しく生涯を終えるのであるが、それはまだ先の話である。

 明の万暦ばんれき四十二年の夏、張岱が斑竹庵に赴いた時、井戸の口を箒で擦ると、そこから禊泉の二文字が現れた。その字の書法は、何とも不思議なことに、東晋の名書家王右軍おうゆうぐん、つまり王羲之おうぎしのそれに大変よく似ていた。「井口に禊泉の二字あり、書法大いに右軍に似たり」というのは、このことを指しているのである。

 好事家たちの間で、禊泉のことが知れると、水を汲みに現れる者が毎日あった。この水で茶館を開いたり、酒を醸したり、かめに入れて売ったり、贈答の品にしたりと、その用途は様々であったという。やがてとう太守が越に赴任すると、太守はこの泉の水を試しに飲んでみた。するとその甘味を含んだ味にいたく感心し、この泉の水が足りなくなるのを恐れて、この泉を封鎖してしまった。封鎖したと言っても、その後水を汲みに来るものは後を絶たなかったというから、それはきっと一時的なものであったろうと思われるが、とにかくこのことによって、禊泉の名声はさらに高まったのである。


 それから暫くすると、禊泉の名は更に広く知れ渡った。水を汲みに足を運ぶもので、井戸の前はいつもごった返していた。水を汲むよう命じられて庵に来た下僕の者たちは、炊事場を勝手に拝借しては、薪やら米やらおかずやら、果ては酒や肉を求めて大声で騒ぎ立てた。それが貰えぬと分かると、拳に訴えかけて乱暴に及ぶ始末であったという。

 庵の住職は、修行僧たちを呼び集めて話し合った。用心棒でも雇って、水を汲みに来る者に睨みを利かせよう、という案がまず最初に発せられた。そのような余裕はないと、住職は案を退けた。次に、泉を封鎖して出入りを禁じては、という案が出た。しかしあの熱狂ぶりでは、封鎖したとて無意味に違いない。もっと根本的な解決策はないものか、と住職は尚も求めた。

 その時、一番若い僧がやおら手を挙げた。

「申してみよ」

 住職はその若い僧を指名し、意見を求めた。僧は自らの意見を衆前で滔々と述べた。一同は皆驚愕し、俄かにざわつき始めた。住職は腕を組み、難しい顔をしていた。判断を渋っているのだ。この若い僧の案を採れば、泉の水は長い中華の歴史から永遠に姿を消してしまうだろう。後世の者から泉の水を取り上げてしまうのは、何とも忍びないことであった。

 住職は、判断を保留にし、その日は合議を終えた。

 次の日も、井戸の周りは喧騒に満ちていた。その中に、酒に酔った一人の男がいた。男は傍にいた男に難癖をつけて殴り、喧嘩が始まってしまったのである。絡まれた男が反撃を加えると、酔った男は後ろに倒れ、地面にあった石に頭をぶつけてしまった。酔った男はそのまま動かなくなり、事切れてしまった。とうとう、禊泉で死人が出てしまったのである。

 もう、住職は我慢の限界だった。最早、やむを得ない。住職はそう考えたのであった。

 その次の日、朝早くに、住職は四人の修行僧を引き連れて、井戸の前に立っていた。既に早朝から、水を汲みに来る下僕が多くいた。

「貴様ら、見ておけ!この泉の最期である!」

 住職と修行僧は、僧衣を脱ぎ捨て、下着を解いて全裸を衆目に晒した。

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