Petit lumiere

猫柳蝉丸

本編

 破裂音と震動を感じ、ぼくは目を覚ます。

 疲れていたのかいつの間にか眠ってしまっていたらしい。

 薄暗い自室を見回してみていると、再び軽い破裂音と震動がぼくの身体に届いた。

 血の巡っていない頭で数秒思考して不意に気付く。

 そうか、今日は近所の花火大会の日だった。

 子供の頃以来見に行っていないから日付自体忘れていた。

 忘れていたけれど、毎年この時期が来る度に思い出す事がある事をぼくは思い出した。

 忘れ得ぬ、忘れるつもりもない五年前の夏の、花火大会の日の出来事。あの日、僕は花火大会には行かなかった。花火に興味も無かったから窓から見もしなかった。今みたいに花火の破裂音と震動だけを感じていた。

 もう一つの花火みたいに儚く光っている鼓動に触れながら。

 そんな夏の日の出来事を、ぼくは花火大会の度に思い出してしまうのだろう。

 恐らくは、この命が終わるまで、ずっと。



     ◇



 ぼくには身体の弱い弟が居た。

 晃。

 十四歳になっても小学生並みの体格にしかなれず、よく体調を崩しては学校を休んで自室で本ばかり読んでいた。読書家というわけではない。長くゲームを遊べる程度の体力すら無かったという事だ。ぼくの弟はそれほどまでに弱い身体の持ち主だったのだという事だ。線が細く、手足も細く、髪だけは少年とは思えぬほど長かった晃……。

 対照的に五歳年上のぼくは子供の頃からかなり活発で活動的だった。

 産まれた頃から身体の弱かった弟を遊びに誘おうとも思わなかった。

 晃を誘ったところで体調を崩して家にとんぼ返りする事は自明の理だったからだ。

 看病くらいはしていたものの、あまり仲の良い方だとは言えなかったかもしれない。

 晃もそれは自覚していたらしく、看病している時以外に話し掛けて来る事は少なかった。

 家族でありながらもよそよそしい。

 忌憚なく言わせてもらえば、それがぼくの嘘偽らざる関係だったと言えるだろう。

 だからこそ、五年前のあの花火大会の日、晃が唐突に口にした事にぼくは驚かざるを得なかったのだ。

 まさか晃がそんな事を言い出すとは予想だにしていなかった。

「一度セックスさせてほしい」

 花火の破裂音を感じながら聞いた晃のその言葉を、ぼくは今でも鮮明に思い出せる。



     ◇



「……何だって?」

 その時のぼくは唐突な言葉を理解出来ず訊ね返す事しか出来なかった。

 当然だ。性に興味があるとすら思っていなかった晃の口からそんな言葉が出ると夢にも思っていなかった。身体を拭いてあげている時に晃の男の部分が軽く大きくなった事くらいは何度かあったが、単なる身体的反応だと思って気にもしていなかった。その程度には成長したんだな、としか思っていなかったのだ。

「だから、一度セックスさせてほしいんだよ、兄さん」

 今まで見た事も無い意を決した強い表情で晃が繰り返した。

 冗談なのかと再度訊ね返せる雰囲気ではなさそうだった。

 その時のぼくが軽く頭を抱えながらどうにか絞り出したのをよく覚えている。

「……どうして?」

「僕に誕生日プレゼントは何がいいか訊いたじゃないか」

「確かに訊いたけれども……」

「だから僕は兄さんの質問に答えたんだよ、セックスさせてほしいって」

「そこが分からない……」

 分からない。

 本当に分からなかった。

 仲の良い方ではなかったけれど、これまでそれなりに上手くやっていたはずだ。

 急に性的な話題を口にする関係性でもなかったはずだ。

 だと言うのに、何故晃は急にぼくとのセックスを望んだのだろう。

 何も分からないぼくはどうにか晃の真意を探ろうとする事しか出来なかった。

「何を言っているのか自分で分かっているのか、晃?」

「分かっているよ。気が迷ったわけじゃない。ずっと考えてた事なんだよ」

「ずっと考えていた? 本当に?」

「本当さ。僕は本気で兄さんとのセックスを望んでいるんだ」

「その意味、本当に分かってるのか? だって、ぼくは……」

「ぼくはその兄さんとセックスしたいんだ」

 取りつく島も無いようだった。

 晃の決心は遥かに固く、生半可な事ではその思いを覆す事など出来そうも無かった。

 近親相姦になるんだぞ、と一般常識に訴え掛ける事も出来なかった。晃もそれくらいは百も承知だろう。百も承知でぼくとのセックスを望んでいるのだ、晃は。その程度の事が分からないくらいぼくの弟は愚鈍じゃない。

 それにこれはぼく自身でも不思議な事だったのだが、近親相姦自体にはそれほど抵抗感が生じなかった。家族で交わったからと言って大した問題ではない気がしてしまうのだ、今の晃の様な強い意志の前では。それを受け止めて受け容れる意思があるのならば、近親相姦など本来は大した意味を有さない。そんな気がした。

 そんな事よりも重要なのは『晃』が『ぼく』を求めている事だった。

 ぼくと晃のセックスは単なる近親相姦には収まらない。

 もっと別の意味を持った、もっと根本的に異なる行為なのだ。

 そして恐らく晃はそれすらも分かっていて、ぼくとのセックスを望んでいるのだった。

 花火が鳴っている。窓からは見えないが大輪の花を夜空に咲かせてもいるんだろう。

 同じだ、と感じた。

 晃は花火と同じ様に強い想いを咲かせようとしている。例え一瞬でしかないにしても。

「分かったよ、晃」

 気が付けば意外にもあっさりと口にしてしまっていた。

 予感があったのかもしれない。晃の願いを受け容れなければ、この先絶対に後悔してしまうだろうという予感が。そうして訪れるかもしれない後悔に比べれば、弟との近親相姦など取るにも足らない事象に過ぎないのだと。

「本当かい、兄さん」

 嬉しそうな申し訳なさそうな表情を浮かべる晃。

 ぼくはその表情の真意を探るより先に訊いておかなければならない事があった。

「本当だ。それより晃、一つだけ先に訊かせてほしい」

「何?」

「滑稽な事を言っていると自覚して訊くけれど、やっぱりぼくは……、『受け』の立場なんだよな? 俗に言う『攻め』じゃなくて……」

 ぼくの言葉に晃は視線を伏せた。泣き出しそうにもなっているみたいだった。

 何よりもその事実こそ心苦しく思っているように。

「うん……、そうだよ、兄さん……。僕に兄さんを『攻め』させてほしい。こればかりは本当に申し訳ない事だと思うんだけど、それでも……。それでも僕は……」

 ぼくは晃の瞳から溢れそうになっている涙を人差し指で拭った。

 そうするべきだと自然に行動してしまっていた。

「そんな事で泣くなよ、そもそも無茶な事言い出したくせに」

「うん……、ごめん……」

「泣くなって」

 言いながらぼくは晃の唇と自分のそれを重ねようとした。

 花火の音が鳴り響く中でのロマンチックなファーストキス……。

 になるはずだったけれど、そのキスは意外にも晃の手の平に阻まれてしまった。

「キスは駄目だよ、兄さん。それは本当に好きな相手に取っておいてほしいんだ」

「セックスはするのに?」

「うん……、キスだけはしちゃ駄目だと思う……」

「まったく……、妙な事を言う弟だな……」

 けれど、それが晃の一番譲れないところでもあるんだろうな、と感じてもいた。

 最後の気遣いでもあるんだろうな、とも。

 そうして、ぼくと晃は花火大会の花火が鳴り響く中、本当に奇妙なセックスを行った。

 行為自体が終わるまで、十分も掛からなかった。

 キスを禁じられて、愛撫すらもほとんど行わなかったからだ。

 晃の望んだ通り、ぼくと晃はセックスだけをすぐに終わらせたのだ。

 違和感は無かった。晃の放出と鼓動を体内に感じた時にも後悔は感じなかった。

 そのセックスはきっとぼくと晃の儀式の様なものだったのだろう。

 この世界への最後の反抗の様なものだったのだろう。

 セックスが終わった後、ぼくと晃は肩を寄せ合って花火の音を聞いていた。

 もうすぐ両親が家に帰って来るかもしれないが、それまでは二人で花火を感じていよう。

 そう思いながら、五年前のセックスと花火大会は終わった。



     ◇



 晃が死んだのは花火大会の三日後の誕生日だった。

 ぼくが母から連絡を受けて自宅に戻ると、晃は既に眠る様に息を引き取っていた。

 元々身体が弱かった晃なのだ。いつこうなってもおかしくはなかった。

 悲しくはあったけれど、驚きはしなかった。

 予感はあったのだ、ぼくにも、晃にも。

 それで最後の願いを遂げようと無茶な事を言い出したのだと思う。

 晃は残したかったのだ、自分がこの世界に生きたという証を。

 どんな間違った形であったとしても、例えぼくを傷付ける事になったとしても。

 それに関しては安心してほしい、とぼくは考える。ぼくは後悔していないし、意外にも傷付かなかった。兄らしい事などほとんど出来なかったぼくが最後の最後で晃の想いを遂げさせてあげる事が出来たのだ。後悔なんてあるはずがない。勿論、傷付いてもいない。正確には身体に少し傷が残ってしまったが心に残る傷は一つも無い。

 花火の破裂音に耳を傾ける。震動がぼくの全身を響かせる。

 晃の鼓動と放出を思い出す。

 ぼくはこれからもずっと思い出し続ける、晃の生きた温度を。

「なんのおと……?」

 一度寝ると朝まで熟睡してしまう朱美でも、花火の音には反応してしまうらしい。

 ぼくと同じ布団で眠っていた朱美が目を覚ましてぼくを見つめていた。

「やあ、朱美。花火だよ、この音は」

「はなび……?」

 まだ頭が半分眠っているらしい。ぼくの言葉を理解するまでもう少し時間が掛かりそうだった。それよりもその寝惚けた表情が晃によく似ていて、何故だかぼくは微笑ましくなってしまう。

 晃が死んで十ヶ月後、ぼくは娘を産んだ。この朱美だ。

 父親は晃だ。遺伝子を検査してみなくても分かる。ぼくは晃以外とセックスした事は無かったし、それ以外の男とセックスしたいと思ってみた事すらない。そもそもぼくは女の方に性的魅力を感じているんだから、当たり前と言えば当たり前だった。

 生理が遅れていると検査してみて妊娠が発覚した時には少しだけ驚いた。あくまでも少しだけだ。晃の射精をぼくの女の部分で感じた時から考えていたのだ。ぼくの中に晃の残滓が残っていたら嬉しいと。驚いたのはぼくの願いが天に届いた事だ。まさかあの一回限りの晃の射精が受精に繋がるなんてまるで奇蹟みたいじゃないか。一説によると近親者同士では妊娠しにくいという話も聞くのに。

 ぼくは子供の頃から自分の身体に違和感を有していた。性自認が現実の肉体と異なっていたのだ。ぼく自身は男なのに、どうして女の身体で産まれてきたのか理解出来なかった。それでぼくはこれまで男として生きて来た。家族は優しかった。そんなぼくを受け容れてくれたし、晃もぼくを兄さんと呼んで兄として扱ってくれた。

 だからこそあの日は驚いたのだ、兄として扱ってくれていた晃がぼくとのセックスを望むだなんて。それと同時に晃の強い意志を感じたのも事実だ。優しかった晃がぼくを傷付けるかもしれない事に悩まないはずがないのだから。

 それでも晃は自分が産まれた証を何処かに刻み付けるために、ぼくとのセックスを望んだのだ。ほんの少しでも誰かに覚えておいてほしかったのだ。まさか一度のセックスでぼくを妊娠させようとまでは思っていなかっただろうけれど。そうなったらいいと思ってはいたかもしれないが。

 ぼくは……、ぼくは自分の身体が女でよかったと少しだけ思う。あくまで少しだけ。

 性自認とは異なるけれどぼくは女の身体で産まれてきた。女の部分で誰かとセックスする事があるなんて考えてもみなかった。誰かの子供を出産するなんてそれこそ夢ですら見ていなかった事だ。それでもぼくは朱美を産みたかったのだ。そのためなら女の身体を最大限に利用する事だってやぶさかじゃない。

 晃の子供を妊娠していると告白した時、父さんと母さんは産む事に反対しなかった。勿論、複雑そうな表情こそ浮かべてはいたけれどぼくと晃の想いを尊重してくれて、面倒な書類の提出なんかもしてくれた。きっと父さんと母さんも憶えていたいのだ。十五歳になったばかりで死んでしまった息子の事を。

 一般常識的には間違った選択だったのかもしれない。

 構わない。間違っていたとしても、ぼくは晃の兄でありたいし朱美の母でありたい。

 ぼくは愛し続ける。晃の事も、朱美の事も、ずっと。

「はなびっ!」

 やっと今花火が上がっている事を理解した朱美が、嬉しそうにぼくに抱き付いて来た。

「はなびみたいっ! おかあさん、みにいこっ!」

「そうだね、それも悪くないかもしれないね」

 そう言って朱美を抱き上げながら感じる。

 朱美の温度、朱美の鼓動、花火の破裂音、花火の震動、そして、晃の鼓動と熱を。

 ぼくは、忘れない。

 あの花火大会の日、たった一人の弟が必死に生きた姿を。

 花火と共に感じた弟の心臓の鼓動を。

 そうして生きていくのだ、たった一人ぼく達の生きた証である朱美と一緒に。

 ずっと。

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