異世界行きのエレベーター

 大都市東京にしては行き交う人も少ない平日の午後四時前。

 自宅から二度乗り換え、御茶ノ水駅で降りた。

 几帳面な千鶴さん、ヒュームさんは既に到着していた。

 時間ギリギリに到着した私を二人は特に咎めるでもなかった。


 駅を出ると明大通りを下り、山の上ホテルを通過。

 明治大学を通り過ぎると、町の雰囲気が鄙びたものへと変わっていく。

 私は東京生まれ東京育ちだが、この街は実に表情豊かだとよく思う。


 神保町は江戸時代、武家屋敷が立ち並んおり、その界隈に旗本・神保長治が広大な屋敷を構えていた。

 神保氏の邸宅前を通る小道に「表神保小路」と名前が付き、これが神保町の名前の起こりとされてる。


 靖国通りに出て小川町方面へと歩く。

 この一帯は古書店街だ。

 明治10年代。神保町周辺には様々な大学が建てられた。神保町交差点から白山通りへ向かった先の「学士会館」には、その名残りとして「東京大学発祥の地」と書かれた石碑がある。

 史料によれば、東京大学がこの地に建てられたのは明治十年の四月。

 現在の所在地である文京区本郷へ移されたのは、明治十八年のことだ。

 以降、明治十三年には駿河台に法政大学の前身である「東京法学社」、現在の神田神保町三丁目にのちに専修大学となる「専修学校」が開校。

その後、明治十八年に中央大学の前身である「東京法学院」、

明治十九年にのちに明治大学となる「明治法律学校」が建てられ、神保町界隈はたちまち学生街となった。


 この時代こそ神保町が“古書店街”になるきっかけだった。

著名な近代文学研究家として知られる野田宇太郎は、自著『東京文学散歩』で「神田の古書街は明治時代の学校出現と共に始まった」と記している。


 その当時の主な客層は、大学教授や学生だ。

想像するにたやすいが、年度替わりには上級生たちが授業で使い終えた教科書を売り、新年度になれば、下級生たちが教科書を求めて買いに来る。

 年度が替わるごとに、そのようなやり取りが文化として発展、神保町は世界にも類を見ない一大古書店街へと発展していった。


 大正十二年の関東大震災で一帯が焼け野原となった後、大正~昭和初期に急速に復興が進んだ。

 個性的な看板を抱える古書店の数々はその当時に建てられた看板建築で、ノスタルジーな趣を醸しだしている。


 目的地である「古書センタービルヂング」という実態が容易に想像できる雑居ビルもその時代の遺物だ。


  〇 


「少々気になる失踪者がいましてね」


 数日前、私と千鶴さんは祓い屋協会の連絡役であるヒュームさんに呼び出され、神田の警察署でなかなかにきな臭い事象について相談を受けていた。


 ヒュームさんは両親ともにスコットランド人で、母方の家系はジャマイカにもルーツがある。

 その他にも本人も把握ししていないような血統を持っているが、何にせよ我々純正アジア人とは程遠い顔立ちだ。

 隔絶した島国という特殊な環境下であるため、我が国はほぼ単一の人種で成り立つ国である。

 国際結婚が増えているとはいえ、ヒュームさんのような顔立ちの人が訛りの無い流暢な日本語を話すのはかなり珍しい風景だ。

 もっともヒュームさん本人は生まれも育ちの日本なのでメンタル的には日本人なのだろうが。


 日本では毎年、年間八万人を超える人が失踪している。

 最も多いのが家庭関係による問題で次いで認知症を含む疾病関係、事業・職業関係と続く。

 親とケンカして家出したり、認知症の老人が徘徊して行方不明になっているわけだ。一方で、犯罪関係は、小数点以下に過ぎない。

 そして、そのほとんどはすぐ見つかる。

 不気味なのは、失踪したままの不明者が少なからず存在することだ。原因も「その他・不詳」が四割を超える。毎年数百人~数千人が姿を消し、理由すら分からないというのだ。

 そのうちでも多いと言われているのが借金返済のため風俗や地方の温泉宿のコンパニオンなどに売り飛ばされる例

、新興宗教への出家だが、おそらくその中――ほんのごく一部だが――には"こちら側"の世界が関わっている。

 東京の人口は千万人越え、首都圏は四千万人を超える。

 不詳の失踪者は小数点以下のごく一部とはいえ、分母が大きいため数はそれなりになり、その中には厳然として神秘が関わる失踪が存在する。


 ヒュームさんは祓い屋協会の連絡役が使用する特殊なデータベースを使っており、特定の条件で警察関係の事件を横断検索して"こちら側"の事件を検出している。

 中には機密性の高い事項も含まれるため、彼と会う時は大抵最寄りの警察署になる。


 今回、呼び出された理由は数人の不詳の失踪者についてだった。

 彼らの失踪場所は神保町。それも共通してとある雑居ビルに入るのを目撃された後に姿を消している。

 親族、友人の話によると彼らは大なり小なりがオカルト好きであり、以前から件の雑居ビルの話をしていたと証言が取れている。


 ヒュームさんに見せられた失踪者の写真は全員が若者だった。

 無鉄砲をするのは若者の特権だ。そういう私も二十代半ばの若者ではあるが。


 「こちらで把握していることは以上です。何か質問はありますか?」とヒュームさんが締めくくると、千鶴さんが出し抜けに言った。


「ヒュームさん、都市伝説やネットロアには詳しいですか?」

「仕事ですので、それなりに」


 ヒュームさんは出し抜けな質問にポカンとして答えた。


「天明君は?」


 私は自覚できるような間抜け面で答えた。


「仕事ですので、それなりに」

「雑居ビルは何階建てですか?」


 ヒュームさんの回答は十階建てとのことだった。


 私はオカルトサイトの物書きだ。

 前言通り"それなりに"そのテの話には詳しい。

 千鶴さんの質問とヒュームさんの回答は私にとって十分に意味のあるものだった。

 加えて件の雑居ビルは噂のスポットであり、近々取材に行こうと思っていた場所だった。


「まさか異世界に行ったなんて言うんじゃないんでしょうね?」


 彼女は事も無げに言った。


「そうかもよ?」


  〇 


 ネットロアは伝播過程で少しずつ姿を変えるのが常だが、一般的に知られるエレベーターで異世界に行く手順は以下のようなものが知られている。


必要なもの:十階以上あるエレベーター


1.まずエレベーターに乗る。

(乗るときは絶対ひとりだけ)


2.次にエレベーターに乗ったまま、四階、二階、六階、二階、十階と移動する。

(この際、誰かが乗ってきたら失敗)


3.十階についたら、降りずに五階を押す。


4.五階に着いたら若い女が乗ってくる。

(その人には話しかけないように)


5.乗ってきたら、一階を押す。


6.押したらエレベーターは一階に降りず、十階に上がっていく。


 インターネット掲示板を主な発祥元するネットロアに同様の話は多い。

 普段乗っていた電車がいつの間にか異世界に漂着していたきさらぎ駅はその代表例だろう。

 古書店と喫茶店と欧風カレーの有名店が入ったこの建物で、最近、ある噂が密かに話題になった。

 「このビルのエレベーターは異世界に繋がっている」というものだ。 


 昭和四十年代に竣工した古書センタービルヂングは、半世紀以上の歴史の間に改修と増築を繰り返した。

 その結果、建物は新宿駅や渋谷駅のような奇怪で不合理な構造になり、表通り側は従業員用の夜間出入口のみになっている。

 大通りから古書センタービルヂングの表記を確認すると、我々は建物を二つ通り過ぎ、角を曲がって建物の裏側に周る。

 古ぼけた小型書店と喫茶店が立ち並ぶ一角にひっそりと一般客用の入り口がある。

 薄暗く、何かしら妖気のようなものが漂っているように私は感じた。

 入口をくぐり、ヒビの入った階段を通り過ぎるとその奥にエレベーターがある。


 今回は千鶴さんと私の二人で行く予定だ。

 伝説ではエレベーターに乗るのは一人だけだが、二人同時に出かけて失踪した失踪者もいるので――加えて私一人だと心もとないという言外の千鶴さんとヒュームさんの判断で――この体制になった。


 念のためにヒュームさんが外で控えていることになっている。

 本当に異世界に行くのならば外界の時間の流れなど関係ない可能性があるが、決まり事として零時になっても我々が戻ってこないようならばヒュームさんが応援を呼びに行く手はずになっている。


 黄昏時は逢魔が時だ。

 古くから魔物に遭遇する時間帯と言われており、数々の妖怪画で知られる鳥山石燕は『今昔画図続百鬼』で逢魔が時を描いている。

 失踪者たちが最後に目撃されたのもこの時間帯だ。


 薄汚れた築五十年越えの雑居ビルはノスタルジーよりも薄暗い神秘を感じさせた。


 千鶴さんがエレベーターの上ボタンを押す。

 十階で回数表記が止まっていたエレベーターが降りてくる。

 やがて一階の表記が点灯し、ゆっくりとドアが開いた。

 ヒュームさんに見送られ、私と千鶴さんは無機質な金属の部屋に乗り込んだ。

  

  〇


 古書センタービルヂングには個人経営の小規模古書店がいくつかと、欧風カレーで人気のレストランが入っているが、帰宅時間帯でなければランチタイムでもないため、閑散としていた。

 それでもここは世界最大の大都市、東京である。

2.の段階で人が乗ってきて結局、数回のリトライを余儀なくされていた。


「これ、成功した人いるんでしょうか?」

「うん。私も自信なくなってきた」


 私の不安に千鶴さんも不安で相槌を返した。


 そうして試みを始めて六度目。

 我々は成功に大きく前進した。

 四階、二階、六階、二階、十階と他の利用者にとっては迷惑この上ない無意味な上下動を繰り返し、十階に着くまで誰も乗ってくることは無かった。

 二つ目の手順をクリアし、手順通り続いて五階のボタンを押す。

 やや古いエレベーターは微かにガタガタと音をさせながら着実に下降し、回数表示が一つずつマイナスされていく。

 九階、八回、七階、六階……

 表示が五階に近づくにつれて我々の間で緊張感が高まっていく。

 五階の回数表示が点灯する。


 果たしてそれは起きた。

 微かな揺れと共にエレベーターが止まる。

 扉が開くと、人が乗ってきた。

 乗ってきたのは若い女性に見えた。

 少なくとも見た目には千鶴さんのような小奇麗な若い女性だった。

 世間一般に霊能力者と定義される存在であろう私は、少なくとものその方面の事象へのアンテナは鋭い。

 ――彼女は人間では無い。。

 見た目にはただの若い女性に見えた。だが、明らかに人間では無かった。

 恐怖が私の全身を走り、寒さに備えて厚着した服の中で大汗をかいていた。

 

 ――一方の千鶴さんは私と少し反応が違っていた。

 手順では若い女性には話しかけてはならないことになっているため、何も言うことは出来なかった。

 表情から推し量るしかなかったが、千鶴さんは恐怖しているようには見えなかった。

 緊張していないわけではないのだろう。

 それでも、恐怖とは別の何か、微かに親しみを含んだ畏怖のように見えた。


古いエレベーターのドアがゆっくりと閉まる。

 私は手順を思い出し、慌てて一階のボタンを押した。


 五階で停まっていたエレベーターは下降ではなく上昇を始めた。

 六階、七階、八階、九階、十階。

 階数表示は十階で止まったまま、十階までしかないはずのビルをガタガタと音をさせて古ぼけた鉄の塊はただひたすらに上へと進んでいく。

 上昇は永遠に続くかのように思えた。

 間違いない。これは神秘の事象だ。

 緊張で全身が強張る。


 やがて永遠にも思えた上昇が止まった。

 いつの間にか五階で乗ってきた若い女性は姿を消していた。

 ゆっくりと扉が開き……眩い光が狭いにエレベーターに飛び込み、充満した。


 その明るさに目がくらみ、やがて目が慣れた。


 静かだった。

 静かで穏やかな世界がエレベーターの外に広がっていた。


 頭上には雲一つない快晴の空が広がり、足元には青々とした田園風景が広がっている。

 田圃には稲が実り、実った稲穂が神戸を垂れている。

 田圃には河が流れ込んでいる。

 質素な小屋があり、微かに機織りの音が聞こえる。

 遠くには岩山が見え、岩山には洞窟がある。


 まるで日本の原風景のような、日本人の心象風景のような世界だった。

 千鶴さんがそっと足を踏み出した。

 私もそれに続いた。


 心地のよい風が頬をくすぐり、太陽の温かさが全身を包む。

 エレベーターの中で感じていた恐怖は綺麗に消え去っていた。

 まるで大いなる何かに抱かれているような、不思議な感覚だった。


「天明君」


 一歩先に進んでいた千鶴さんが手招きする。

 彼女は先んじて歩き出し、私もそれに続いた。


  〇


 どこまで行って凪のような穏やかな世界だった。

 歩いても歩いても景色は変わらず、人の気配もない。

 機織りの音がする小屋に入ってみようとしたが、扉を開けることは出来ず、中の様子を確認することも出来なかった。


 一体、どれほどの時間が経ったのだろう。

 腕の時計は止まっており、空は晴れ渡ったままで時間を知る手立ては一つも無い。

 そうしているうちにさすがに不安になってきた。  


 千鶴さんが立ち止まった。

 彼女はポケットからスキットル取り出すと中身を撒いた。

 撒かれた液体から微かにアルコールの匂いがした。


「これから私がやることに合わせてくれる?」


 彼女は深く二度お辞儀をし、二度拍手をして、瞼を閉じて深く一礼した。

 二例二拍手一礼。

 多くの神社で行われている参拝の作法だ。

 私もそれに従った。


  〇


 いつの間にか古ぼけたエレベーターに戻っていた。

 足元には昏倒した若者たちが横たわっていた。

 写真で見た失踪者たちだった。

 エレベーターはゆっくりと下降し、やがてガコンという音をたてて一階に到着した。

 ドアが開くと、そこは元の雑居ビルだった。


  〇


 時計は深夜零時を指していた。

 一体どれほどの時間が経っていたのか知る術は無かったが、少なくとも地球上ではおよそ八時間が経過していたようだ。

 入り口で待っていたヒュームさんは我々の姿を確認すると、どこかに電話をかけた。

 ほどなくして警察と救急車がやってきた。

 失踪していた若者たちは救急車に乗せられて去っていった。


 終電は終わっていたが、ヒュームさんは車両も手配していた。

 ヒュームさんがハンドルを握り、我々は車中で起きたことを語った。


「神隠しですね」


 「何が起きたのだと思いますか?」と見解を求められ、千鶴さんが答えた。


「五階で乗ってきた女性に神様の気配を感じました。風宮家は代々の神職の家系なので、間違いないと思います。

なのでお酒と二例二拍手一礼で神様への敬意を示して、元の世界に帰してくださいとお願いしました」


 二例二拍手一礼には本来、神様を称える意味合いがある。

 一人相撲は江戸から明治にかけて大道芸として行われていたが、一部の神社では神事として古くから行われており、神事としての一人相撲は神様と相撲を取る儀式である。

 なお、一人相撲は最後は必ず人間が負けることで終わるように定められている。負けることで神様のご機嫌を取るとの意味合いだ。


 更に千鶴さんはつづけた。


「エレベーターで一見無意味に見える上下動を繰り返すのは、古代の儀式が現代化したものだと思います」


 古い神話では天界は頭上、冥界は地下にあるパターンが多い。

 メソポタミア神話の女神イシュタルは冥界下りをした。

 ギリシャ神話のプロメテウスは天界の火を盗んで地上の人間にもたらした。

 古代マヤ文明の遺物、パレンケの石棺はロケットが描かれたオーパーツだとオカルト好きの間では言われているが実際は天界、地上、冥界が描かれた宗教画だ。

 『古事記』にはイザナギが亡きイザナミを追って黄泉国に入るエピソードが描かれている。


 古来、人にとって天界も冥界も地続きの世界であり行き来できるものだった。

 エレベーターに一階から乗って上下動を繰り返すのは天界、地上、冥界を疑似的に行き来する儀式ではないか。

 都市伝説やネットロアで異世界と呼ばれているものと隠世かくりよ、あるいは幽世かくりよと呼ばれるものは、同じまたは似たものではないかというのが千鶴さんの考察だった。


「あのビルに幽世に行く道が出来た理由は?」

「それはちょっとわからないな。神様のすることなんて、結局人には計り知れないからね」


 千鶴さんは私の質問に答えると口を閉じた。

 彼女の考察を聞き終えると、私は自分が激しく疲労していることに気付いた。

 彼女もそうなのだろう。

 これ以上は黙っておいた方がよさそうだ。


「あと一つだけよろしいでしょうか?」


 沈黙から疲労を感じ取ってくれたのか、ヒュームさんが念押ししたうえで言った。


「異世界への旅はいい旅でしたか?」


 あの世界がいい旅であったかどうか、私は的確に表現すべき言葉が思い当たらなかった。

 ただ一つだけ確かな事実を私は述べた。


「貴重な体験ではありましたよ」

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奇談 -東京祓い屋探偵事件簿ー ニコ・トスカーニ @scriptum8412

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