Nocturne 【亡き水鳥のために】

古月 はる

第1話

「何をみているの」


尋ねると、彼が慌てて手を振って。


その手が側の楽譜棚に当たって、我先にと、音の指示書が落下する。


絨毯の上で動力を失った紙切れたちは、ややふとく、やはりやや武骨な指に優しくつままれた。


しかし、いささか不満そうである。


「楽譜をしまっておく場所を作らねばね」


「はい。...失礼しました」


謝罪の言葉に微笑み、彼の視線を感じていた指をそっと撫でる。

そして左手の指輪をはめ直し、ため息をついた。


結婚を控えた身だというのに、なんと情けない。

その相手が好いた相手ではないなど。


「サスティラさま、もうすぐ侍女がいらっしゃいますよ」


間違えようのない彼の声で現実に戻された。

そういえば、彼はどうして、侍女の存在に気づくのだろうか。


この北西の塔、最上階に通ずるのは西の塔から伸びる渡り廊下のみ。

渡り廊下は窓からは見えず、足跡など聞こえて来るはずもない。


「また今回も、お話をなさっただけで終わってしまいましたね」


「...ごめんなさい。

ねえ、アラティーダ。

なぜいつも侍女が来るとわかるの」


ピアノの蓋を閉じていた彼の腕が、ぴたり、と動きを止めた。


「なぜでしょうね。

わかってしまうんです。勘なのでしょう」


他人事のような言葉にサスティラは目を細めた。


「そうね」


なぜ、彼がピアノを弾くのか。


どこの家の出なのか。


尋ねてみたいことは山ほどある。


しかし、それを聞いてしまって彼を現のものと受け入れれば、この城に戻ってくる言い訳がなくなるような、そんな錯覚に囚われたのだった。



日の出に目を細めている彼の目は髪と同じ蜂蜜色で、その上をカラメルの睫毛が瞬いていた。


「お元気で」


此方を見ずに残された言葉にうなづき、侍女の開けた扉に近づく。


「次いらっしゃる時には、譜棚もできているでしょう」


「楽しみだわ」


軋みもせずに扉はふたりを隔てた。



アラティーダと呼ばれた男は雫を見た。

我が目から滴る雫だ。




彼女の艶やかなうすい金の髪。


それが風に揺蕩う様が目に焼き付いて離れない。


しかし、記憶の中の彼女はみんな、自分とその青い瞳を合わせなかった。


いままでサスティラ第五王女は自分に優しくしてくれた。


たかが音楽師の自分に。


自分が彼女にしたことといえば。


ただ声楽を教え、ピアノを教えた。


管楽器クラリネット協奏アンサンブルもしたが。



しかし、間にできた関係はそれ以上だった。


音楽は、セレナーデを誘引した。


叶うわけのない、残酷な恋である。



それがわかっていたから、アラティーダは偽の名を愛する人に教えた。


本当の名は、自分以外知り得ぬ。


それを破れば、今度こそ我慢ができぬほどの恋だったのだ。



ラウェルはまなじりを拭った。


日の出の湖、その光の道を、嫁入り行列が進んで行くのが遠目に見えた。


決して手に届きそうにない距離だった。

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