第8話 麻績(おみ)のオババ


 綿積之麻績わたつみのおみは、それぞれの探索隊たんさくたいが出発するまで、姫ジンとともに神津島こうづしまにとどまり、探索隊たんさくたいの安全と輝々星神かがほしのかみの無事を祈った。麻績おみの里に向かったのは、次の潮盈しおみつる日であった。沿岸の潮流に乗り、西にむかった。船上から探索隊たんさくたいの進む山々が見えるたびに思いを馳せて祈った。


 麻績おみの里は、綿津見わたつみの生まれ故郷であり、麻綿わたづくりの拠点である。族長、綿積之麻績わたつみのおみは、久しぶりに故郷の匂いをいだ。

 渥美半島あつみはんとう地先ちさきには、麻績別おみわけの里があり、伊勢海の入り口には、神島かんのしまがある。故郷の匂いとは、神島かんのしまの匂いである。もう麻績おみの里は目と鼻の先である。


 麻績別(おみわけ)の里は船つくりの基地きちである。木祖川きそがわ飛騨川ひだがわから運ばれた丸太材まるたざいは、河口に集められて選別される。筏船いかだぶねの骨格が作られると、麻績別おみわけの里に曳航えいこうされ、用途に応じて船が作られる。船ができると神島かんのしまに運ばれ、安全祈願あんぜんきがんが行われる。綿積之麻績わたつみのおみは、麻(あさ)だけではなく、船つくりのおさでもある。 


 族長は、若い頃より筒之麻績つつのおみと呼ばれて、丸木に筒穴を掘る名人であった。綿津見わたつみ神津島こうづしまで活躍するようになると、族長は、自らを筒之麻績つつのおみと名乗るようになった。


 神島かんのしまには海と山の交わるふるさとの匂いがするらしい。だが、今日は違った。筒之麻績つつのおみの表情には厳しさが漂っていた。おさ神島かんのしま烽火のろしが上がったのを見逃さなかった。


 太陽が真南まみなみに上ったころ、一行を乗せた船は、麻績川おみがわ下流の小さな水戸みなとに着いた。そこで十艘じっそうの小さな双胴そうどう丸木舟まるきぶねに乗り換えて、さらに川を上った。


 漕ぎ手の掛け声もなく、丸木舟まるきぶねは静かに進み、日が沈む前に麻績おみの里に着いた。川をまたぐように大きな水門すいもんがあり、丸木船まるきぶねは門をくぐった。中に入ると、そこはみずうみになっており、そこからは幾つもの支流に分かれ、支流ごとに船着場ふなつきばと集落があった。


 「ここがわれら麻績おみ族の里であります」

筒之麻績つつのおみはジンに向かい、改めて遠来の賓客ひんきゃくとしてうやうやしく迎えた。


 「あさ栽培地さいばいちはさらに上流にあり、葉、実、茎とそれぞれに分離してここまで運んでまいります。運ばれたあさは、ここで選別せんべつされてつむぐ人や薬師くすしの手にゆだねられます。さあ、むかえの者たちがやってきました。」


 ジンを迎えたのは、麻績おみ蛇神かかかみオババと一族の姫たちであった。ひめたちは船着場ふなつきばに並び、若姫わかひめ幼姫おさなひめと年の順に出迎えた。若姫わかひめの一人がジンの手を取り引き上げ、オババの前にさそった。オババは麻績おみ母神ははかみであり、土地の主神ぬしがみである。


 麻績族おみぞくもまた、神産巣日神かみむすひのかみ先祖せんぞとするつち族である。日高ひだかの国は、あめ族の宇都志うつしと、つち族の宇麻志うましの子孫たちが、それぞれに分かれて国を守っているが、それは特別なことである。日高の国以外のほとんどの里では母神ははかみ主神ぬしかみである。つち族の世界であり、母神ははかみは皆、蛇様かかさまと呼ばれている。


 ここ麻績おみの里も、土地のぬし蛇様かかさまである。ジンの前にいるその主神ぬしかみは、麻績蛇神おみのかかかみオババであり、麻績族おみぞくの頂点にある。

 このオババが、あめ族である宇都志うつしひめジンを出迎えている。今や、あめ族唯一の姫神ひめかみ となった姫ジンに最大の敬意をあらわし、手を取り合って涙した。


 あさを栽培する人、あさの繊維を取り出し糸を紡ぐ人、ここからぬさふさぬのひもなわに仕上げる人たちが、それぞれに忙しく立ち回っていた。


 麻績おみの里にはもう一つの大きな役割があった。あさの処理は特別であった。乾燥葉をいぶすと霊妙れいみょうな効果があり、神事しんじには欠かせなかった。

 しかも薬用として痛みを和らげ、気鬱きうつやまいにも効いた。若い巫女みこつきさわりには、乾燥葉かんそうばは重宝された。


 オババは、ジンの手を引いて自分の屋形やかたに招いた。屋形と言っても先祖の祭壇さいだんを挟んで、寝室と居間がある程度の小さな部屋へやであった。

遠来えんらいたび、さぞやお疲れでありましょう。さあ、ゆっくりとくつろいで下され。」


 居間いまの真ん中には囲炉裏いろりがあり、つち水瓶みずさしにはお湯がたぎっていた。


 「この熱いお湯に、麻績おみ枯草かれくさを、ほれこのように少し浸しますと、かおり高い白湯さゆになります。ゆっりと召し上がって下されば、心も落ち着き、長旅ながたびの疲れは、一気に取れましょうぞ。ほれ、それははちみつでこの地の産物でござる。少し口にするだけで、心が和みまする。」


「まこと、かおり高き白湯さゆでありますこと。それにこのようなはちみつ、これまで口にしたことがございません。日高ひだかの里を出航してからというもの、ほんとに長い長い旅でありました。」


 ジンは、白湯の香りを楽しみながら、ほっとした気分で、蜂蜜を味わった。

船旅ふなたびは初めてのことで、この先どうなるやらと不安をいだきつつの旅でありました。毎日、毎日がいのちえる日と思い、今日のこの日を迎えることができました。この一杯の白湯さゆ、一杯のかおり、はちみつによって、命細いのちほそった長旅ながたびの疲れを忘れることができましょう。オババにはお礼の言葉もありません。」


母神ははかみを亡くされ、このたびは父神ちちかみをもなくされたばかり。姫君ひめぎみの心中をおもんばかりますに、まこと心が痛みます。日高ひだかの国を思えば、一刻の猶予ゆうよもないでしょうが、今夜こんやは、ゆるりと身体からだをいたわり、おやすみくださいませ。」


 そこに若い巫女みこがやってきて「の用意ができました。どうぞ湯屋ゆやにお越しくださいませ。」と告げた。


 「そうそう、まずはおに入っていただこう。麻績おみの里には、山の中腹にいずみと申して、温かいおわいいております。そこから、この屋形やかたまで湯を引いておりますゆえ、いつでも身体からだきよめ休めることができます。旅の疲れがいやされましょうぞ。」


 その夜、族長、筒之麻績つつのおみは、長旅ながたびの後ではあったが、一族のおさ十名ほどを集めて、捜索の覚悟かくごを示した。


 「さて、みなも承知しょうちの通り、今日、あめ族のひめ、オトウツシ姫ジンがわが麻績おみの里にお着きになった。すでに麻績おみ以外では、三人の族長による輝々星神かがほしのかみの探索が始まっている。オトウツシ姫ジンはわが麻績おみの里であずかることになった。木祖谷きそだに伊那谷いなだにの捜査は、わが一族の綿津見わたつみとその弟、都見つみが向かっている。木祖谷きそだに都見つみ隊はヒカネのきみが隊長として同行されている。非常事態ひじょうじたいそなえて川筋の態勢たいせいを強化すべし。」

一族は、族長の一言一句を聞き漏らさずに心にとどめた。


 「帰着時に神島かんのしま烽火のろしが上がった。麻績別おみわけの里からの連絡である。昨日、木祖川きそがわの河口に大量の土砂水どしゃみず倒木とうぼくが流れてきた。河口にある筏木組衆いかだきぐみしゅうの里が壊滅状態かいめつじょうたいだとの知らせであった。」

族長の話に、一同は不安の表情も見せずに、聞き入った。


 「上流の山々で異変が起こっている。飛騨の脛巾はばき衆からも、山、谷の異変の状況が報告されている。噴火と洪水で山が崩れている。探索隊以外のものは、明朝、麻績別おみわけの里に救援に向かえ。われらアツミの探索隊に一時の猶予ゆうよはないぞ。うつし族なくしてアツミの明日はない。わが麻績おみの里は、明日より一族あげて、熊野、紀伊、大和一帯を探索する。」


 ささやかな宴が終わると、ジンはオババの部屋にもどった。

「今夜の族長オミは、随分と張り切っておりましたね。安心してわが麻績おみの力を信じていだきますように。」

 オババは、ジンの震える気持ちをおもんばかって、いたわりの声を掛けた。


 「今夜はうつし族の再興を願って、このオババが、秘蔵ひぞうあさきますゆえ、心安らかにお眠りくださりませ。それにこの世に珍しいはちのひれを用意しました。大きな母蜂ははばちはねを特別の脂でつないだ等身大とうしんだいのひれ。これを打ちかけて眠れば、姫が麻績おみの里に来た意味が解けましょう。これは代々よよ麻績おみのオババが身に着けるもの、ほかに誰も身に着けたものはありません。今宵こよいは特別の夜でございます。」


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