僕とあいつ
真乃晴花
僕とあいつ
塾に行くまでの大通り沿いの歩道を友達と歩いていたら、後ろからどん、とぶつかられた。
なんだよ、って思って、通り過ぎようとする男を見たら、そいつは振り返って、言ったんだ。
「ごめんね」って笑って。
それからしばらくして、その男に逢った。
僕は小学校四年生というやつで、春から塾に通っていた。もう半年になる。学校が終わって、ちょっと遊んだり、宿題をした後で、友達と一緒に塾へ行く。帰りは夜になるので、母が迎えに来てくれる。ちょっとウザいけど。
今日も、受講が終わって、塾の一階のフロアのソファーに座って母を待っていた。両親は共働きで、母は仕事が終わってからチャリで迎えに来る。だけど、仕事が長引けば、延々と待ちぼうけだ。
僕は、携帯の無料ゲームで遊びながら時間をつぶしていた。
目が疲れてきて、ふと顔を上げたら、あいつがいた。すぐに、あの時ぶつかったやつだと分かった。なんというか、優しい感じの好青年という印象があった。「ごめんね」と言った声とか、惹きつけられるような目をしていたから、強く記憶に残っていた。
そいつは塾の前のガードレールに腰掛けて、誰かを待っているかのように、ずっと通り過ぎる人を見ている。
でも、普通、こんなところで待ち合わせをするだろうか。塾は駅から少し離れている。塾に通ってるやつの兄貴か何かだろうか。だとしたら、ビルの中に入ったっていいのに。やはり、どうにもおかしい。
じっと見ていたら、ふと目が合った。
やべ、って思ったけれど、視線を逸らすことができなかった。
そうしたら、やつはおいでおいでと手を振った。にっこり笑って。
ちょっと悩んだ。
だって、怪しいし。
でも、路上は塾のビルの明かりでかなり明るいし、人通りもあるから、誘拐はないだろう、と思って、僕は携帯を閉じてビルから出た。
「なに?」
僕から口を開いた。
「君、この間ぶつかった子だね」
僕はうなずく。
「あの時はごめんね」
「別に」
僕はそっけなく答える。
「何してんの?」
「お母さんの迎え、待ってんの。そっちこそ、何してんの?」
「僕はねえ、人を見てたの」
なんでもないように言うそいつに、やっぱり怪しいと思った。
「なんか、食べ物持ってる?」
「持ってる、けど、なんで?」
背中のリュックの中にはチョコバーが入っている。小腹が空いた時に食べる用のものだ。これは、母が買ってくれる。
「僕にくれたら、送ってあげようか」
想像にもしていなかった科白をきいて、僕は驚いた。
堂々と誘拐宣言だろうか。怪しいにも程がある。
だけれども、おかしくはないだろうか。誘拐するなら、「お菓子をあげるからついてこい」ではないだろうか。なのに、こちらがお菓子をあげなくてはならないとは。しかも、普通くれないかと言ったら現金じゃないのか? やはり、変わってる。怪しい。
……でも、送ってくれるというのは、ちょっと魅力的なものだった。
見たいテレビ番組があるのだ。十歳にもなって母親と一緒には帰りたくないというのもある。しかも、チャリにツーケツなんてもってのほかだから、徒歩で帰るのだ。十五分もかけて。他の友達はみんな車なのに。そうだ。送ってくれるというからには、車だろう。
僕はリュックからチョコバーを出して渡した。
「ありがとう」
そいつはそう言うと、立ち上がった。
駐車場に行くんだと、思った。
だけれども、気がついたら、マンションの前だった。
え?
僕はうろたえた。
何だ? 何がどうなってるんだ?
間違いなく自分の住むマンションなのか、辺りを見回して確認した。間違いない。マンションの名前についてる地域の名前もちゃんと覚えのある住所のものだ。
どこを見ても、あいつの姿はなかった。
おかしいな、と思っていると、携帯電話が鳴った。母からだ。
『ようちゃん、ごめーん。お母さん、今仕事が終わったの。これから行くから、待っててねー』
「もう家ついた」
『え? ついたって、どうしたの? 歩いて帰ってきたの?』
「ううん。送ってもらった」
のだと思う。
『え、誰に?』
「え……と、知らないひと」
『知らないひとぉー!? ちょっと、遅くなったお母さんが悪いけど、知らないひとの車に乗っちゃダメじゃない! 何やってんのよ』
「あー、うん」
『どんなひとだったのか、後でちゃんと教えなさいよ!?』
「うん」
僕は携帯を閉じて、マンションの部屋の中へ入った。
携帯を閉じる時に、時間を見た。塾を出た正確な時間は覚えてないけれど、見たい番組のオープニングにはに間に合わないなーと思ったのは覚えている。でも、携帯電話は充分間に合う時間を示していた。車なら五分。別におかしくはない時間だ。
だけれども、腑に落ちない。まったく記憶がない。かかったことはないけれど、催眠術にかかったらこんな感じだろうか。でも、催眠術は、そんな一瞬でかかるものだろうか。
僕は首をひねりながら、リモコンでテレビの電源を入れた。
見たかった番組のはずなのに、どうにもスッキリしなくて、内容が頭に入ってこない。
そうしているうちに、母が帰ってきた。
「ただいま~。遅くなってごめん」
母は少し疲れたようにため息混じりに部屋に入ってきた。
「ようちゃん、教えて。どんなひとだったの?」
「優しそうなお兄さん、って感じ?」
「年齢は? どれくらいのひと?」
「二十歳くらいかなー。大学生っぽい」
「いやあね……学生で車持ってるなんて……」
それはヒガミというやつだろうと思ったけれど、黙っていた。
「もう、なんで乗っちゃったのよ。何もされなかった?」
「あ、チョコバーあげた」
「チョコバーぁ?」
「うん。一個。チョコバーくれたら送ってあげるって言って」
「なにそれ……。それだけ?」
「それだけ」
母は頭を押さえながら、深くため息をついた。
「お母さん、来月からのシフトは塾の日だけ早上がりにしてもらえるように頼むから、それまで、絶対に知らない人の車になんか乗っちゃだめよ!」
実際にどうやってマンションの前まできたのか分からなかったけれど、車じゃないような気はしてた。でも、これは秘密にしなくちゃいけないことだと、感じた。正直に話したら、きっと病院とかに連れて行かれたり、過保護になったりするに違いないから。
「あー……塾に言った方がいいのかしら……マンションも知られちゃってるってことでしょ……」などと、母はぶつぶつ言っている。
「ようちゃん、見た目が普通でも、優しそうでも、実際は分からないんだから、ダメよ! 声かけられたら、すぐに塾の大人のひとに言いなさい!」
僕は適当に返事をして、その場をしのいだ。
きっと、後で父にも言うつもりだろう。別に母は嫌いではない。優しいと思うし、言ってることも常識だと思う。大人なのに、ちょっと可愛いひとだ。危ない目にあったのかもしれない僕よりも、母の方が慌てていて、可笑しかった。そんなひとだから、別に反抗しようとか思ったわけではないけれど、僕は、またあいつに接触した。
あいつは、また塾の前のガードレールに座って人通りを見ていた。因みに、塾に来たときはいなかった。僕はいつものようにソファーに座って携帯電話を開き、ゲームをするフリをした。フリをして、あいつの様子をじっと見ていた。そうしたら、あいつはすぐに気がついて、手を振ってきた。おいでおいでをしているわけではないけれど、僕は、ビルを出て、近づいて行った。
「この間はありがとう」
とりあえず送ってくれた礼を言った。
「いいえ。お菓子、もらったしね」
そいつは頬杖をついて、僕を見上げながら言った。
「見たいテレビがあったから、助かったんだ」
「そうか。それは良かった」
「ねえ、どうやったの? 超能力かなんか?」
僕は思い切って聞いてみた。
そう、瞬間移動なんて漫画みたいだけれど、そう考えれば納得がいったのだ。
「超能力とは、違うかなー」
「じゃあ、どうやったの?」
「空を飛んだのさ」
そいつは人差し指で上空を指差した。
つられて空を見上げてみたけれど、UFOのような飛行物体は見えない。
「どうやって?」
「飛ぼうと思えば飛べる」
「飛べないよ!」
少なくとも、僕は飛べない。
「そりゃあ、人には無理だよ」
その科白にどきっとする。
まるで、自分は人間じゃないって言ってるようなものじゃないか!
「空を飛んでみる?」
「飛びたい!」
僕は即答した。
「いいよ。また、お菓子をくれたらね」
そいつはにっこりと笑って言った。
僕はリュックからまたチョコバーを取り出して渡した。
「じゃあ、行こうか」そう言って、手をつないだ。
そして、気がついたら中空にいた。
ビルよりも高い空に、浮いていたのだ。
一気にテンションが高くなる。
怖いとか、そういった不安はまったく感じなかった。遊園地なんかのアトラクションに乗ったかのような高揚した気分だった。
「すっげー」
下にいる人間は誰も気がついていないようだった。
すーっと、景色が遠ざかった。もっと高い空へ移動していた。夜景が綺麗だと思えるくらいの高さだ。
「あっちが高尾。向こうが迦葉山」と、隣にいるそいつが暗い方を指差して言っている。
残念ながら、日本の地理はよく知らないので、無視して三百六十度見渡していた。
「どこか行きたいところある?」
「行きたいところかー……」
観光地といった場所はすぐに思いつかない。外国に行きたいような気もするけれど、そんなに遠くには、行ってはいけないような気がした。
「そうだ、友達んとこ。えっとー神戸に引越した、友達んとこに行きたい!」
去年、同じクラスで仲の良かった友達が親の都合で神戸に引越した。それ以来、会っていなかった。その友達を驚かしてやろうと思った。
そいつが「いいよ」と言うと、景色が動いた。まるで、衛星のカメラのようで、あっという間に見えていた場所が変わった。自分たちが動いたという感じはあまりしない。地球が速く動いたかのように感じた。
「神戸だ。君の友達がいるのは、君影町。あそこだ」
どうしてそんなことを知っているのかと驚いた。僕でさえ、記憶に留めていないことだ。
そんな風に疑問に思っているうちに、また、気がついたら、一軒の家の前だった。その家の表札には、友人の苗字が掲げられている。
……あいつ、僕をこのまま置いていったとか、ないよな。
ちょっと、嫌な汗が出る。
とりあえず、家を見上げてみた。二階に明かりがともっている。のび太くん家じゃないが、その部屋が友達の篤史の部屋じゃないかと推測してみた。
どうやって呼び出すか。
残念ながら、篤史の携帯の番号は知らない。だから電話で「今、お前んちの前にいるんだぜ」的なことはできない。かといって、インターホンを押して、篤史の親が出たら、なんて説明したらいいのかわからない。
定番といえば、定番だが、窓に向かって小石を投げてみることにする。そんで、近くの電柱の影に隠れて様子を見る。
まるっきり怪しい人間だけど、仕方ない。
僕は小石を見つけて、窓に向かって投げた。
一回じゃ気のせいで終わるかもしれないから、もうひとつ投げた。
電柱の影に隠れる。
カーテンが開いた。
小さい人影。たぶん、篤史だ。
僕は、もう一回石を投げる。そして、名前を呼んだ。
「誰?」と声が帰ってくる。
「俺、陽佑」
「え? 陽佑?」
「降りて来られるか?」
「え、マジで? え、何で?」
ともかく待ってろ、と篤史は言って窓を閉めた。それからすぐに玄関のドアが開いた。
「何でいんだよ!」
篤史はすっごい笑っていた。
「ちょっと、こっち来ててさ」
「マジで!? よく俺んち分かったな」
「転校先は教えてくれたじゃん。学校でさ、宿直の先生に教えてもらったんだ」
「そっか」
我ながら嘘が上手いな、とか思ってしまう。
「こっち、何流行ってんの?」
「こっちはなー」
などと遊びのことや、学校であったこと、友達のこと、親の愚痴なんかをひたすらしゃべった。
時間はあっという間に過ぎて、僕は話がひと段落したところで、別れの言葉を口にする。
「俺さ、お前んちに来てるの秘密なんだ。すぐ戻らなきゃ」
「マジか。大丈夫か?」
「大丈夫、バレない。うちの親単純だからさ」
「そういう親いいよな」
最後に携帯の番号とメルアドを交換して別れた。
篤史が家に入るのを見届けてから、僕はあいつを探した。
内心、これで見つからなかったらどうしようかと思ったが、近くの公園にいるのを発見した。
ブランコの周りを囲む鉄の簡素な柵に腰掛けていた。
「良かった、いた」
「もういいの?」
「うん。あんま長くいて、あいつの親とかに見られたらやっかいだし」
「そう」
僕は鞄からまたチョコバーを取り出して、そいつに渡した。
「塾の前まで送って」
「もう一個あったのか」
そいつは目を丸くしながらチョコバーを受け取った。
「なんか、嫌な予感がしたから」
「嫌な予感ね」
そいつは納得したように笑うと立ち上がって、僕の肩に触れる。
また、一瞬で空にいた。
ぼーっと、東の方を見ていた。これが、最後の飛行のような、気がした。もう、行きたいところがなかったからかもしれない。
やっぱり、そんなに速く飛んでいるというような感じはしなかった。でも、ちょっと冷えた風を感じることはできた。
飛んでいたのは五分くらいだろうか。行きよりも長く感じた。あいつが、気を遣ってくれたのかもしれない。
ゆっくりと、塾の前に降り立った。
行き交う人はいるけれど、驚いた様子はない。飛んでいる間は見えないようになっているらしい。
「さんきゅ、楽しかった」
僕はそいつにお礼を言う。
「いいえ。ちゃんと、お代は貰ってるからね」
そいつはチョコバーを振って見せた。
「ねえ、僕たちの仲間にならない?」
少し目を細めて、神秘的な視線で僕の目を見て、そいつは言った。
それが、どういうことなのか、なんとなく理解できた。
ただ、遊ぶための仲間という意味ではないだろう。
ひとではない何かになってみないかと、そう言われたような気がした。
「仲間になっても、学校とか行けるの?」
「学校に行くよりも、たくさんの知恵を身につけることができるよ」
そいつは笑って言った。どこか、揶揄しているような、そんなような笑みだった。
そして、その言葉の意味は、おそらく、学校には行けなくて、友達にも会えなくなって、家族にも会えなくなることだと思った。
「あんまり断る子っていないんだけど、君みたいな子は難しいか」
「俺、あんまり勉強好きじゃないし」
「あはは。そっか。じゃあ、これでバイバイだね」
「もう、会わないってこと?」
「そ」
「チョコバーをあげるって言っても?」
「僕はお人好しじゃない。いつか仲間になるって言うのなら、考えてもいいけど、そうじゃないのなら、使われたりはしないよ」
「じゃあ、たまに話すとかは?」
「僕を見れる人はあんまりいない。僕が見えない人から見たら、君は独り言をしゃべってる変なひとに見られるよ」
「じゃあ、こうすればいいんだ」
僕は携帯電話と取り出して、耳に当てた。
「これなら、電話してるって、思われるんじゃない?」
「ふふ、やっぱり、君は賢いね。あんまり関わると、さらってしまうよ」
「誘拐かよ」
僕はため息をついた。なんだか、友達をひとり、失くしたような気分だ。
「でもさ、賢いヤツっていうのは、きっとあんたについて行くと思うんだよね。未知の世界じゃん」
「でも、残念ながら、そういうひとは僕たちを見ることはできないね」
そいつは、鋭い目をして断言した。そこには、がっかりしたような、そして、見下しているかのような感情が見えた気がした。
「家族と友達を大事にしなよ。そうすれば、君が大人になっても、きっとまた会える」
会わないって言ったくせに。と心のなかで毒づく。
「……そういうもんなの?」
「そういうものだよ。ま、その時は君をさらうからね」
「楽しみにしてる」
僕は笑った。
本当に、そう思った。その時が楽しみだと。
「ようちゃん!」
母の声がした。
振り返ったら、なんだか、慌てているようで、走って寄ってきた。
「ようちゃん、どこ行ってたの? お母さんも塾の先生も、いっぱい探したのよ!?」
言われて、携帯の時刻を見た。塾が終わってから三十分くらい経っていた。その時間は、篤史としゃべっていた時間だ。
そっか、と思い至る。
移動する時間は一瞬でも、そこでしゃべったりした時間は短縮できないのか、と。
「ちょっと、友達のとこ、行ってた」
「も~、友達のとこって……ひとりで歩いてたりしたら危ないじゃない! 誘拐されたのかと思ったわ~」
母は脱力したようで、座り込んだ。
「ようちゃんの電話繋がらないし、GPS確認したら、神戸なんてところが表示されるんですもの。もう、警察に電話しちゃったじゃないの!」
GPSのことは考えてなかったからドキっとした。警察とは、大事になったなとちょっと凹んだ。
「先生にご報告しなきゃ。警察にも謝らないと」
母は僕の手を握って、立ち上がり、塾のビルへと引っ張って行く。
そっと、振り返ってみたけれど、そこにはもう、あいつの姿はなかった。
母は腰を九十度折って、謝り倒していた。塾の先生たちは「まあ、良かった」とにこにこして見送ってくれた。パトロールしていたおまわりさんが戻ってきてから、また謝り、僕はちょっとお小言を言われた。
家についてから、僕は母に謝った。
また、小言を言われたけれど、やっぱり、こういうのはいいな、と思った。
自分の居場所はここだと、そう思った。
でも、お菓子は常に鞄に入れておこうとも、思った。
いつ、会ってもいいように。
おわり
僕とあいつ 真乃晴花 @10nenmanoriko
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