最終話 実数対虚数!呪いに打ち勝つのに必要なのは?

 境界線の証明。それが、これからの物理学を決めるものになるのは間違いない。美織はごくりと唾を飲み込んでいた。

「向こう側にいかないため、向こう側に干渉しないため。そして、もう二度と悲劇を繰り返さないために必要なことだ」

 史晴はまるでそこに向こう側の敵、神と呼ぶしかないものに向けて宣言しているようだった。それを、誰もが黙って耳を傾ける。

「宇宙の成り立ちの解明は続けていくべきことだ。だが、それは異空間とは別でなければならない。干渉してしまうことは、それこそ物理学が成り立たなくなるからだ。それを、伶人は証明した」

 自らの死をもって。史晴はそこで一度目を閉じる。それは追悼のためと、ここからは正確性を要することだと気合いを入れ直すためだ。

 曖昧な証明は向こう側に引きずられ、こちら側で死ぬことになる。戻ってくる時には死が待つ曖昧な存在にされてしまう。

 今、史晴がそれを避けられているのは、すでに伶人と清野によってマイナスを与えられているからだ。干渉を僅かに避けることに、あの呪いが寄与している。しかし、正確に証明できなければ向こう側に引きずられるし、全く見当違いの答えだと、このまま呪いで死ぬことになる。まさに難しいさじ加減が必要だ。

「虚数解であり、それが一般解となるものだな」

「ああ。本来ならばあり得ないその特殊な一つの解が線引きの条件だ」

 裕和の質問に答え、いいかと史晴は全員を見渡す。本来ならば一人で、もしくは美織と解決すべきかと思っていたが、美織が周囲にも助けを求めるべきだと主張した。だから、史晴は素直にそれに従った。伶人が、彼女は特殊だと見抜いたのだから、彼女の言葉には従うのがいい。そう判断している。

 それに中途半端に知った状態で、この問題を解決してしまったら、後で興味を持ってその数式に挑んでしまうかもしれない。それを避けるためにも、この件に少しでも関わったメンバーは一緒にやるべきだと思う。美織はそれを、理屈ではなく直感で理解しているのだ。

 思えば、何度も美織の直感に助けられたと史晴は思う。美織を見ると、やりましょうと力強く頷いた。

「椎名。適宜、計算の補助を頼む。酒井は俺の数式を追いながら同時に間違いがないか検証してくれ」

「はい」

「了解」

 こうして最後の証明が始まった。すると、不思議なことが起こる。

「えっ」

「なんだ?」

 それに気付いたのは、葉月と学だ。ぐにゃっと空間が歪んだというか、不可思議な感覚が襲ってくる。足元がぐらつき、立っていられない。しかし、計算に集中しているメンバーは気付いていない。

「あれだ。別の、虚数の層が干渉を始めているんだ」

「ちっ。本当に数式だけを引き金にしているとはね。むこう側の神様は、大数学者様か」

 学が干渉しているというので、葉月からは思わず皮肉が漏れる。ずっと、そうだろうとは思っていたものの、証明を始めただけで干渉が始まるとは困ったものだ。ただし、こんなにも早くに変化が現れているのは、先に証明した二人が認めた男だからに他ならない。

 が、同時に気づくこともあった。まだカワウソ姿の史晴とそれに付き添う美織。その二人の周りだけは何事もないように止まっている。やはり、美織はイレギュラーな存在なのか。

「まあ、そうだろうな」

 あの史晴をここまで変えたのは美織だ。彼女が関わらなければ、今もなお史晴は神と呼ばれる存在を認められず、また、従兄が魔法使いにされたなんて想像できなかっただろう。この問題を解く最初のきっかけを与えたのは美織だ。

 それにあの論文を見つけたのも美織だった。いくつか伶人の論文は読んでいたはずなのに、問題の論文には辿り着けていなかった。これもまた、美織は干渉されないからだろう。

「どうしてだ?」

 しかし、疑問も生まれる。女子だからというのは理由にならない。葉月だって女だし、清野だって女だ。しかし、美織だけが違う。

「――まさか」

 薄々思っていたことだが、まさかそうなのか。向こう側にいる神は、そして伶人も清野も、救おうと思いつつも呪ってしまった理由はそれなのか。

 思わず史晴と美織を見る。いつの間にか、史晴の姿は人間に戻っていた。服はいつ着たんだ。そんなことも解らない。

「ああ」

 ぐらぐらと動く世界。先にこんなにも影響を受けているのは、葉月が気づいてしまったからか。

「これだ」

 そんな時、史晴から声が上がった。

「あってます。どういう数値を入れても、この時空の穴は証明できます」

 そしてしばらくして続く美織の声。美織は逐次解析を得意としているから、こういう場面で強い。

「大丈夫だ」

 そして、後から追い掛けるように証明していた裕和からも、オッケーの声が上がる。さあ、これで完全に証明されてしまったぞ。

 すると、実験室ががたんと大きく揺れる。干渉が大きくなったのだ。

「きゃっ」

 美織が思わず史晴に抱き付くと、揺れは収まった。しかし、ぽっかりと穴が部屋の中心に開く。

「あっ」

「なっ」

「まさか」

「やはり」

 そして、その開いた穴から現れたのは、まごうことなき史晴だった。ただし、きっちりとタキシードを纏い、支配者たる風格が漂っている。

「じゃあ、先輩を呪っていたのは」

「向こう側の、俺」

 美織と史晴が呆然と呟くと、現れた虚数の史晴はにやっと笑う。

「まったくの予想外だったよ」

 虚数史晴はそう言ってすっと美織を指差した。予想外とは実数の史晴が数式を特定することではなくお前だと、怖い目が物語っている。

「わ、私?」

 美織からすれば寝耳に水のような話だ。自分が予想外とはどういうことなのか。まったく理解できない。

「――俺が傍に寄せるのは、お前の推測では伶人だけだったってことだな」

 しかし、さすがは史晴。向こう側の自分が言いたいことを瞬時に理解した。住んでいる空間が違うだけで、思考形態は同じというわけか。

「そういうことだ。あの男を上手く導き、こうやって殺す手筈まで整ったというのに、まったく、その女は予想外の変数というわけだよ」

「なっ」

 あまりの言い様に、美織はむっとしてしまう。同じ顔をした史晴という人物であるはずなのに、虚数の方は腹が立つ。

「ぐいぐい来る奴だからな」

 しかし、史晴は同意している。おい、こらと注意したい気分だ。やっぱりムカつき度は違っても同じ人物。

「そう。どういうわけか、この女の傍では磁場が変わる。お前もよく笑うし、よく呆れるし、ともかく変化が多い」

「おおい」

 虚数史晴。マジで殴りたくなってきた。こいつ、自分のことを喧しい女だと思っているのは間違いなかった。

「そうだな。俺もびっくりだった。でも、どういうわけか、それが心地いい」

「っつ」

 しかし、不意打ちのように史晴がそんなことを言うものだから、美織はドキッとしてしまった。それに、虚数史晴は舌打ちする。

「が、それも終わりだ。お前もその女も消してやる」

「っつ」

「徳井先生!」

 美織が息を飲むのと同時に、史晴は美織を引き寄せて怒鳴っていた。なぜか、そうしなければならないと、身体が勝手に動いた。

「おうっ。みんな、後で文句は言うなよ」

 そんな声がしたかと思ったら、どんっと再び空間が揺れた。そして、それは確実に虚数史晴と、史晴が出てきた穴を揺さぶっている。

「こ、これは」

「伶人は確かに俺を恨んだだろう。なんせ、お前は俺だからな。でも、気づいた。向こう側にいたお前と俺は違うって」

 だから、この最終兵器と、美織を大事にしろと言ったんだ。史晴はぎゅっと美織を抱きしめる。唯一の違い。唯一、何かを与えてくれる人。それが美織なのだ。だからこそ、こうやって違う結果が現れた。単純に死を受け入れるのではなく、そしてただ伶人を恨むのではない。正しい答えへと導かれた。

「くそっ。そんな」

 虚数の史晴が揺らぐ。いや、無理やりこちらに干渉していた虚数が揺らいだ。

「伏せろっ」

 これもまた、なぜか勝手に口をついて出ていた。史晴と美織はしっかりと抱き合ったまま、床に伏せる。

「こんな、結末が。俺と同じやつを消すこと。それが総ての安寧のはずなのに」

 諦め悪く、虚数史晴が手を伸ばしてくる。しかし、その手に美織は思わず噛みついていた。

「っつ」

「あんたと先輩は違うんだから。占部史晴は、この世界の人ただ一人よ!」

 美織が言い切ると、虚数史晴に食らいついた手から崩壊が始まった。それはプラスとマイナスが出会ったことによる、ゼロになる作用。

「ああっ。何故だ?どうしてこちらの世界にだけ」

「教えてやろうか」

 苦悶の表情を浮かべながら消えゆく虚数史晴に向けて、実数たる史晴が睨みつける。

「なんだ」

「空間に穴を開けることは可能だ。干渉も可能。しかし、どうして普段、干渉もし合わなず、しかもどちらの空間も成り立つと思う?」

「!?」

「そう。僅かに違うんだよ。この世界の物質と反物質の関係のように、僅かに違いが出る。それが、お前の世界では椎名がいないという事実だ」

「そ、そんなっ」

 自分が完璧だと、自分が証明したことが正しいと信じていた史晴が消えていく。それは過信が生み出した傲慢だったのだと、身をもって知らせるように。

 この結末を用意したのは、それこそ本当の神じゃないだろうか。美織は悶えながら消えた史晴を見ながらそう思った。

 そして、総ては終わった。空間の捻じれや揺れは消え、元の静かな実験室へと戻った。

「終わった、のか」

「みたいですね」

 史晴と美織は互いに見つめ合い、そして健闘を称えるように抱き合った。すると、周囲からヒューヒューと囃し立てる声がする。

「ちょっ」

「これで二人が付き合うのは確定だな。よし、結婚式は椎名が無事に博士号を取った年だ」

 動揺する美織を放置して、葉月がそんなことを宣言する。すると、裕和と学からいいぞと拍手が上がった。

「まったくもう。いいところは見れなかったし、あの箱は消えちゃうし。でもまあ、新しい門出か」

 そして徳井もそんなことを言って笑っている。

「ちょっ」

「その」

 こうして二人を放置して、周囲が勝手に盛り上がっていた。しかし、終わったんだと温かい気持ちになる。だから、美織はまあいいかとにっこり笑った。でも史晴はどう思っているんだろうと、そう思って史晴を見ると、にっこりと微笑み返された。

「俺は、俺を恨んでいたんだな。科学しか信じないのは駄目だ。そのために、今回のことがあったんだと思う」

 そして史晴が不意打ちにそんなことを言って、ぎゅっと抱き締められる。もう実験室は大パニックだ。

「うっせえぞ」

 どこからか、文句の声が飛んできて、いつもの大学の光景が戻ってきたのだと知った。ようやくもう、カワウソになることもなく、死を意識することもない。もう史晴は自分の家に帰ってしまうけど、それは関係ない。

「ああ。今日からゆっくり眠れるな」

 美織はそう思って笑ったのだったが――

「どうして?」

「どうしてだろう」

 その日の夜。いつものようにカワウソ姿の史晴がいた。しかし、今度は苦しむことなく、するんと変化してしまったのだからびっくりだ。

「――あれだ。最後の意地悪じゃないですか?」

「それか――お前の傍を離れるなという、伶人の善意なのかも」

 虚数史晴の悪あがき説と伶人の善意説。そんな二つを出し合って、結局二人は笑ってしまう。

「まあ、もうしばらくは」

「そうだな」

 たぶん、そう。二人が何の遠慮もなく何の疑いもなく一緒にいられるようになったら、変化しなくなるはず。

 それまでは、ときどきカワウソに変化しちゃう史晴に付き合うしかない。

「じゃあ、これからもよろしくお願いします」

「ああ。こちらこそ頼む」

 そうして、何だか強制的に同棲生活は続くことになるのだった。



―おわり―

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

先輩はときどきカワウソになる!? 渋川宙 @sora-sibukawa

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ