第14話 黄金、帰還を果たす

 勇疾星が死んでから十日ほど経った。

 その間は寝る暇もないほど忙しく、屋敷に戻ったのは久しぶりだった。

 穎悟は自室に戻るとこれまでのことを確認するように思い出した。

 勇疾星の骸を囲んで、茫然自失としている面子に喝を入れたのは自分だった。精神力を全て使い果たしてしまったような葵、雅、延旺の三匹は使い物にならなかったので、皇宮の一室にとりあえず押し込んでおいた。

 棺の手配をし、隊長たちに軍隊を引き上げさせて、素早く他の将軍たちと協議に入った。

「突入は我々が望んで行ったことではあるが、予想を超える結末を迎えてしまったようだ」穎悟は混乱する己の気持ちを隠すことなく素直に伝えた。

「しかし、勇疾星皇帝亡き今、我々は先のことを考えて動かねばならない」そう続けると皆一様に頷く。

「まずは民にこの事をどのように明らかにすべきか」そう問いかけると宝担が「全て正直に発表したほうがいいでしょう。下手に事故死などと言って隠蔽しても、不信感を招くだけです。我々の突入はすでに民の知るところです。生きて帰還した皇子葵と皇女雅が、勇雲の凶行を知り、当の勇雲とそれを傍観していた勇疾星皇帝の罪を糺した、それが全てだと公表すべきだ」ときっぱり言い切った。

 その隣では、当然のように叡克が座っている。剣が翻るような時には姿を見せないのに、こういう場には、いつの間にか参加している。

「僕も宝担の意見に賛成だ。噂などが広がる前に一刻も早く、皇国の公式情報として広く発布したほうがいい。何より事態が収束したことを知ることで、民が安心し、無用の混乱が避けられる」叡克が宝担の言葉を引き取ってさらりと繋ぐ。

「皇帝陛下の死は、真実を伝えるとして、未だ拘束しただけの勇雲はどうする?」隆昌が困ったように言うと宝担は鮮やかに「あれはしばらく放っておけばいい」と言い放った。

 かつての皇子に対して酷い扱いだとも思ったが、今や敬意の欠片も払っていない自分も大差ないなと穎悟は感じた。

「放っておくってお前」秀超も珍しく動揺したような声を出す。秀超といい、隆典といい、武勇を誇る類の者は、こう言う場面ではあまり役に立たないのだなと思うと、口元が緩みそうになった。

 しかし下手に難癖をつけられてはたまらないと穎悟は口元をひきしぼり、精悍な表情を演出して「勇雲にはいずれ死罪を賜ろう、それが今でなくても構わないと言うことか」と口に出すと宝担は我が意を得たり、といった表情で頷いた。

「凶事よりも慶事を優先すべきです」宝担がそう言うと観數が「新しい皇帝の即位の儀式を先にするべき、か」と呟いた。

「兄である葵を勇貓皇国皇帝として即位させ、同時に雅を皇太女とする。そのお披露目が先の方が、印象がいい。多少話を装飾していると後の世では評されるかもしれないけれど、不当に宮廷を追い出された皇子と皇女が、民の苦しみを知り、義憤に駆られて軍を味方につけて、凶悪な勇雲と皇帝を打倒して帝位に復帰する。こういう筋書きだと民に受け入れられやすい。そしてこれから葵と雅が皇族として生きていく上で、民からの支持が大きければ大きいほど円滑に事を行いやすい」不謹慎な笑みを浮かべた叡克が言う。既に自分は皇国のもっと先を見ているとでもいいたげな態度だった。

「嫌らしい言い方をするな、口を慎め」そう嗜めると叡克は悪びれる素ぶりも見せず「事実だよ。だからこそ上手く利用した方がいいよ」と返す。ただ明晰で賢明なだけでなく、狡猾な政治家としての顔を見せる叡克が少し恐ろしくも思えた。

 取り急ぎ当面の方針が決まったところで、各将軍はそれぞれ役割を分担し、その早急な実現に向かって動き出した。

 皇帝の死と原因、勇雲の拘束、そして近く新しい皇帝が即位するということが、次の日の昼には発表された。皇都のあちこちに事の経緯が綴られた看板がいくつも立てかけられた。皇宮の前には一際大きなものが設置されて、それを見るために集まった貓で騒然とした。隆典ら五軍の者たちが躍起になって集まった群衆をさばいていたが、それは夜遅くまで続いていた。

 その間に勇貓皇国内の各都市に向けて同様の発表をするため、多数の軍の者たちが旅立った。宝担と叡克の知的組の進言を受け入れて、戌貴帝国と子凛公国には後日改めて特使を立て、新皇帝の即位を知らせることにした。

 皇帝の死の公表から五日後、皇帝の盛大な葬儀が執り行われた。準備が不眠不休で行われたため、皇宮のあちこちで足元の覚束ないものを見かけた。勇雲という不肖の息子のおかげで近頃は評価が下げていたが元々は名君と名高かった勇疾星に祈りを捧げるため、多くの民が皇宮の前庭に押し寄せた。

 また五軍の連中が発奮していたが、騒がしさはまだしばらくは続くだろうと思って皇宮内に目を向ける。

 玉座の間に置かれた皇帝の棺の元を、次々に位のある者たちが訪れた。その誰もが余所事のような顔をしているのを見て、本末転倒にも穎悟は悲しく思っていた。だから皇帝には色々と言いたいことはあったが胸にしまって、真摯に祈りを捧げた。

 しばらくすると葵と雅、迅江、そして延旺が姿を見せ、長い時間思い思いに祈祷していた。

 そうして誰もが祈りを終え、誰もいなくなった後、特別に許されて勇雲が玉座の間に入ってきた。反対派が多かったが、秀超が情に訴えてどうせ死ぬ運命なのだから、せめて最後に親の葬儀に参列させてやってくれと言ったので、穎悟はそれを受け入れた。

 後ろ手に縛られ、引っ立てられる姿は犯罪者のそれだった。縄を解かれると勇雲はよろよろと棺に近寄り、勇疾星の顔に手を当て、わあわあと臆面もなく哭き出した。小さく痩せた姿が哀れを誘い、一緒にいた秀超などは涙ぐんでいた。

 今まで自分が犯してきた罪が、自分の父親を殺したのだ。これこそが勇雲にとって一番の罰なのかもしれない、穎悟はそう感じていたが、それで全てが許されるわけではあるまいとも思った。同じように身内を勇雲に殺された民が数多くいるのだ。流された涙の数々は勇雲をどこか遠くに連れ去るだろう、そう確信していた。

 こうして皇帝の葬儀は幕を閉じたが、次の日には新皇帝の即位の儀式を十日後に開催すると民に布告された。怒涛のような準備のための日々が続いた。葵や雅があちこちに連れまわされている姿を何度も見かけた。二匹とも一様に疲れた表情を見せていた。なにせ今度の儀式の主役なのだ、忙しいのは仕方がない。

 同情はするが、変わってやれるものでもないので心の中で激励するだけだった。

 そのような最中にようやく少しだけ時間を見つけて、屋敷に戻ってきたのだ。屋敷には葵や雅はいないようだった、きっと皇宮に泊まり込んでいるのだろう。何か腹に入れたいと思って穎悟は部屋を出た。

 ちょうど迅江が通りがかり「穎悟!なんだか久しぶりだな」と声をかけてきた。

「確かにお前の顔を見るのは久しぶりだな、ずっと軍か皇宮にいたからな」そう言うと「即位の儀式の準備で葵も雅もいないから毎日退屈でさあ」とふてくされたように言う。

「でもどうせ数日後には二匹とも皇帝と皇太女になって出て行っちゃうんだよな」迅江が寂しそうに言う。目に見えてしょんぼりとした姿を見せる迅江に「お前、軍に志願したらどうだ」と声をかける。

「俺が?軍に?」迅江は目を丸くしている。

「そうだ、お前が希望するなら口を利いてやってもいい。正式に試験は受けなければいけないが、誰か師をつけてやるから必要な知識を教わるがいい」

「本気で言っているのか?」

「ああ、本気だ。お前は葵と雅と親しい。きちんと軍に入れば、二匹の護衛の一員として俺が推挙してやろう。葵たちにとっても、立場を抜きにして親しい者が側にいる事は、心強い事だろう」穎悟がそう言うと迅江は困ったような顔をして「ありがとう」と小さな声で言った。

「穎悟、俺さ。葵と出会った時、掏摸だったんだよ。親もいなくて、誰も頼る相手がなくて、そうするしかなかった。だけど葵と一緒に董を出て、いつの間にか、こんな風にたくさんの良くしてくれる貓に出会った」そう、ぽつりと言う。

「でもそれって葵のおかげで、俺の力じゃないんだよな。そう思うとなんだか自分が不甲斐なく思えるんだ」迅江が殊勝な態度でそう言ったので、今度は穎悟が目を丸くする番だった。

「与えられる親切に相応しい自分じゃないって感じがしてさ」気まずそうに小さな声で言う迅江に「皆、始まりはそんなものだ」と声をかける。

「俺だって無軌道に田舎を飛び出て、皇都まで来たはいいが金も食べるものもなく、行き倒れていたのだ。このままここで死ぬのかと思っていたら、親切な者に拾われた。そして食べるものと住む場所、軍への志願に力を貸してもらって、今がある。だから次はそれを俺が、お前にしてやるだけだ」初めて聞く話に迅江は驚きを浮かべていた。

「それに葵のおかげだと言っているが、本当にそうか?葵とともに行くと決めた、お前自身の決断の結果なだけではないのか?ならばお前はなんら恥じることはないと思うが」そう言ってやると迅江は照れ臭そうに笑っていた。

「お前のように明るい軽さを持つものは、平気な顔をして相手の好意を受け取ればいい」

「なんだよ、ちょっと扱いがひどいな」迅江はいつものように破顔している。

「わかった。じゃあ俺、自分のためにも、葵たちのためにも軍に志願する。だから穎悟には軍に入るための力添えしてもらえると助かる。それと荷運びで少しは金を貯めたけど、独り立ちするには心許ないから、もう少しだけ屋敷に置いてくれ」そう言って頭を下げた。

「わかった。軍への志願に関しては力添えしよう。屋敷は見ての通り部屋が余って仕方がないほどだ、遠慮なく使え。それと加仙にお前の試験勉強を見てやるようにと言っておこう」

 迅江は最後の言葉を聞くと途端に嫌そうな顔をして「なんで加仙みたいな堅物に俺を押し付けるんだよ」と抗議の声をあげた。

「馬鹿者、あれで加仙は教えるのが上手い。お前のようなお調子者にはぴったりだ」そう言って笑う。

「仕方ないか」そう迅江は吐き出した後「なあ、さっき言った穎悟を助けてくれた貓って、延旺か?」と続けた。

 穎悟は何も言わずにゆっくりと頷いた。

 

 

 即位の儀式を控えて、準備に忙殺されている嵐昌は皇宮の一室を自分の部屋にして泊まり込んでいた。その日も夜更けに、ようやく仕事を終えて戻って来たところだった。食事はすでに部下と共に済ましており、明日も同じように忙しいことはわかっていたので早々に寝床へ向かおうかと思っていたところだった。

 扉を叩く小さな音が二度聞こえて、雅がひょっこりと顔を出した。打ち合わせなどで何度も顔を合わせていたが、こうして対面で会うのはえらく久しぶりだった。

「嵐昌入ってもいいかな?」小首を傾げて雅が問うので嵐昌は笑顔を浮かべて頷いた。

 小さな椅子に収まり頬杖をついた雅が「こうやって嵐昌と過ごすのって、本当に久しぶりね」と言った。

「儀式が終わると皇宮に住まないといけないから、前みたいに、こうやって楽しくおしゃべりできなくなると思って来たの」そう言って雅は寂しそうに笑った。

「御前軍にいる限り、頻繁に皇宮には顔を出す。だからそう寂しそうにするな」そう言って嵐昌はいつものように雅の頭を撫でた。そして儀式が終わってしまえば確かに今のように気安く雅の頭を撫でたりすることはできなくなるかもしれないと思って、寂しさを感じた。しんみりとした空気が二匹の間に流れた。嵐昌はそれをかき消すように「儀式が終われば雅も皇太女だ。忙しくなるぞ」と声をかけた。

 雅は困ったような顔で「皇太女って何をすればいいのかしら。全然わからなくって。葵が皇帝になるし、私だけでも街で暮らしても良さそうなのに」と言ったので嵐昌は呆れたように「何を言っている。考えたくはないが、この先、葵に何かあったら雅が皇帝になるのだぞ」と返すと「え、そうなの?」と驚いた顔を向けた。

「勇貓皇国は雄でも雌でも等しく皇位継承権が与えられる。雅が皇帝になれば婿を迎えてその子が次の皇帝になるのだ。知らなかったのか」そう言うと、雅は頷いていた。

「それに葵が自ら行けぬような場面ではその代わりを雅がすることになる。例えば危険な紛争地帯での会談が必要になった時などには、皇帝の命が危ないと判断されれば同等の地位のものが代わりに参加することになる。よくあることだ」それを聞くと雅は肩を落として「私も十分大変だね」とつぶやいた。

「雅ならやれる」即座にそう言い切ると、雅は不思議なものを見るような顔をしていた。

「私なんて、怖がりだし、頭も取り立てていいわけでもないし、気も弱いし」

 その言葉を聞いて嵐昌は声を立てて笑った。

「気の弱い、怖がりの愚か者は、強者との死闘の場で、初めて握った剣を上手く足に突き立てることなどできない」皇帝との戦いを指して嵐昌が言うと「あれは」と言って恐縮していた。

「あれは、必死だったから」

「あの場面であれば、誰もが必死になる。けれど冷静に観察して策を弄し、その瞬間を捉えた時に、周りを信じて決死の覚悟で行動できる者は限られている。それが雅の血に依るものか、超えて来た苦難の果てに生まれたものなのかはわからないが」

 そう言って嵐昌は、また雅の頭を撫でた。

「だから、あの戦いを見た者は皆、葵と雅がどちらも皇帝に相応しい者だと確信している」そう言った後「それにしてもよくぞ生きて乗り越えられたものよ、周りで見ていて、いつ首が飛ぶかと本当に肝が冷えた」と言って嵐昌はまた笑った。

 照れたように雅は首をさすっている。

 そして改まったように凛とした瞳を嵐昌に向けると「嵐昌にはたくさんお世話になりました。ありがとう。だけどまだ我儘を言うことを許してほしい。拙い私をこれからも助けて欲しいの」と言って頭を下げた。その姿を見ているとまるで妹が巣立っていくような感覚を覚えて嵐昌は胸が苦しくなった。

「当たり前だ。私はこれからも軍に籍を置くものとして、そして嵐昌自身として、皇太女になる雅のために一命を賭して仕えるつもりだ」嵐昌は椅子から立ち上がり雅の前に跪き、手を握ってそう誓った。そうするといつも見ていた雅の姿は、輝かしい気品に満ちた尊いものに感じられた。

 雅は嵐昌の手を握り返し「ありがとうございます」と言った。そして不意に「いらないって言われるかもしれないけれど」と言って首にかかっている紐に手をかけた。紐には雅の瞳の色によく似た翡翠色の宝石がぶら下がっている。

「私の家族の形見なの。つまらないものだけど、今の私が嵐昌にあげられるものはこれしかないから、持っていてもらえると嬉しい」と言って嵐昌の首にかけた。宝石を握り締めると胸が暖かくなるのを嵐昌は感じた。何か返事をしようと思ったが、上手く言葉が出てこなかったので、嵐昌は感謝の気持ちを込めて雅を抱きしめた。

 

 

 葵の皇帝即位の儀式のために、近頃ついぞ姿を見かけなかった穎悟の部屋から灯りが漏れているのを見て、延旺は扉を叩いた。

 すぐに扉から穎悟の顔が見えて、部屋に招き入れられた。部屋をぐるりと見渡す。思えば十五だった穎悟に与えたのはこの部屋だったと延旺は懐かしく思った。屋敷の主になった今、もっと広い部屋もあると言うのに、ここに住み続ける穎悟の健気さが少し嬉しかった。

 勧められた椅子に腰を下ろすと「後三日もすれば、葵は皇帝ですね」と、語りかけて来た。

「そうだな」と言うと「どのような気持ちなのですか」と問いかけてくる。

「嬉しいという気持ちと、これから葵を待ち受ける数々の試練に対して心配する気持ち、半々というのが正直なところだ」

「延旺様にとっては十五年育てた、亡き勇崇偉帝の子ですからね。親心みたいなものでしょう」そう言って穎悟は笑顔を浮かべた。

「葵は十五年も市井で育ってきた。必要最低限のことは教えてきたが、皇帝としては全く足らぬ。ゆえに足らぬ部分を補う努力を尽くし、周りの者の助けを十二分に受けて、ようやく出発できる。これからの方が、よほど茨の道だ」

「葵にとっては厳しい道のりでしょう」

 穎悟の言葉を聞いて、延旺は頭を下げた。

「その道のりを征くには周囲の助けを多分に必要とする。穎悟、葵をよろしく頼む」そう言うと穎悟は「そんな、俺などに」と謙遜する。

「延旺様こそしかるべき地位に就かれて葵を助けてやってください。葵もそのつもりでしょう」

 延旺はこの部屋を訪れた理由の核心に穎悟が触れたので、淡々と切り出した。

「いやそれには及ばない。私は、皇都を出る」言い切ると穎悟が目を見開いた。

「どうして」

「皇帝の前で葵と雅の剣になるなどと大見得を切ったが、この数日、熟考を重ねてきて考えを改めた。葵と雅はまだ真っさらな状態だ。その側に命を救ったという肩書きのある、かつての重臣が現れれば、必ず皇国の力関係を乱す」

 穎悟はじっと黙っている。

「それに一連の騒動の中で、お前や周りの者たちと接して、皇国には逸材が揃っていると感じた。その者たちが不公平感を感じずに国のために働くのに、私の存在は邪魔だ」

 延旺はまっすぐ穎悟の目を見て、言った。

「しかし実際延旺様はこの度の騒動では、一番の殊勲を立てられた。それは皆が見ているではないですか。誰がそれに口を挟むと言うのです」

「それも理由の一つよ。私も頭がのぼせ上がって功を上げすぎた。このままでは無駄な力を持ってしまう」

「勇崇偉帝の子を救い出し、傾きかけた皇国を救い、皇帝の帰還に助力した。これほどの忠臣がどこにいるのです。そして一体誰がそれを非難すると言うのです」

 穎悟が興奮したようにまくし立てた。これは何も言わずに姿を消した方がよかったかと後悔したが、もう遅かった。

 その後も言葉を尽くし、情に訴えて引き止め続ける穎悟に反論し続けた。

 二刻ほど粘っていた穎悟だったが、延旺の決意が固いのを見とって、やがて諦めた。

「本当に行ってしまうのですか」肩を落として穎悟が言う。

「もう決めたことだ、今度は行先も告げぬ」そう答えると穎悟の顔に絶望の影が見えた。その様が憐れに見えたが「決意が鈍らないよう葵の即位の儀式も見ない。明後日の夜明けに皇都を出るので、北門に駿を回してくれ」そう言って振り切った。

 そして後ろを振り返らずに、部屋を出た。

 次の日は身の回りの物を整理したり、地図を眺めてどこへ行こうかなどと考えて過ごした。追っ手を気にしてとにかく皇都から遠くを目指した前回の旅とは違って、今度は気ままなものだ。自分の軀のみの気軽な旅だ。

 また私は誠心に戻るのだ、そう心に思い浮かべて、夜明け前に屋敷を出た。温暖な土地とはいえ、冬は少し寒い。軀をこするようにして、北門へ向かう。

 屋敷を出てすぐに東から太陽が昇り始めた。夜明けとともに北門が開く音が聞こえた。あたりが明るくなると北門の前に小さく駿の影が見えた。

 駿には誰かが乗っているようだった。まさか穎悟が最後の説得を試みに来たのかと訝しみながら前へ進む。

 まだ誰も通るもののない、夜明け過ぎの門。

 そこで待っていたのは、葵だった。黄金色の被毛がわずかな太陽の光を照り返して輝いていた

 延旺の姿に気づいた葵は、駿から降りた。

 手には勇疾星の使っていた剣が握られている。

「穎悟がお前に話したのか」そう問いかけると「そうだ。穎悟が自分ではもう止められないから、俺が行って止めてこいって」と答える。

 はあ、とため息をついて「穎悟から私が皇都を離れた方がいい理由も聞いたか?」と重ねて問うと「聞いたよ」と返って来たので、またため息をついた。

「ならばここには私と今生の別れを惜しみに来たのか?」

 葵は笑って「まさか」と言った。

「なら他に一体何の用でここに来た。まさかその剣で私を斬りに来たのか?」いい加減呆れてそう言うと葵は慌てて「違う!」と大きく否定した。

「俺、そんなに頭がいいとは思わないけれど、延旺が俺たちの側から離れようとしているのは愛情から来る考えだって、ちゃんと理解している」

「ならば黙って行かせてくれ」話を打ち切ろうと歩を進めて駿に近づく。

「だめだ!」強く言って葵が延旺の腕を掴んだ。

「俺は二度も父を失いたくない!」朝の静けさの中に葵の大きな声が響き渡った。

「俺にとっては勇崇偉と延旺はどちらも父だ!」

 延旺は驚いて何も返せなかった。十五年間育ててきて、自分自身は親子のようなものだと思って来たが、はっきりと葵の口からこぼれた言葉に、柄にもなく動揺していた。

「勇崇偉が死んだ時、俺は幼すぎて何もできなかった。だが今の俺なら延旺のためにできることがある、だから」葵は腕を握ったままの手に、力を込めた。

「父よ、俺の側にいてくれ。俺が今から震える足で荒野を進む姿を見守ってくれ」

 突然転がり込んだ皇帝という地位を、葵は平然と受け入れている訳ではなかったのだ。希望よりも不安の方が大きい中、虚勢を張って笑顔を浮かべていたのだ。あまりの重圧に逃げ出しそうになる自分をずっと抑えていたのだ。しかしそれこそが皇帝の器となぜか延旺は嬉しく思った。そしてその器から溢れてしまった感情をぶつけられる相手が、自分だけだということに今更ながらに気づいた。

「公明正大で温厚篤実、周りの意見を取り入れて立派な皇帝を俺は目指す。延旺がいることで不満の声を上げるものがいれば、行ってきちんと話を聞き、誰もが納得できる判断を下す。俺のできる最大限の努力をもってこの国を今よりもっといい国にする、そのためにお願いだから力を貸してくれ!」

 所々涙声になりながら、葵はひたむきに延旺に訴えかけた。

 その声を聞きながら、あの日、村を出て行った葵の背中を延旺は思い出していた。あれから様々な経験を経て葵の背中は一回り大きくなっていた。これからも成長し続けて、勇崇偉のような大きな背中になるのだろうか。ぼんやりとそう考えていると、延旺はそれを見たいと思っている自分に気がついた。

 今はまだ自分の前で哭いている葵が、皇帝として立派に立つその背を見たいと延旺は思ってしまった。そしてその思いは生まれた瞬間から増殖し続けて、どんどん大きくなっていってやがて延旺自身を呑み込んだ。

 延旺は、ため息を一つついて「剣を寄越せ」と言った。

 涙を流しながら訝しげな顔をする葵から剣を奪い取る。

 鞘を抜いて目の前の大地に力任せに突き立てた。

 両手で柄を握って葵の顔を真正面から見据える。

「これは皇帝の剣だ。お前が今言った、皇帝としてなすべきこと全て、この剣に誓うか」ゆっくりと強く葵に問いかけた。

 その言葉の強さに、葵はぐっと涙を拭って、しっかりと目を見開いた。

「この命を賭けて、全て誓う」はっきりと葵が宣言する。

 延旺はその姿を目に焼き付けた。

 今この時、皇帝が誕生する瞬間に立ち会ったのだ。

「わかった。ならば私はお前の剣として、お前の誓いが果たされるのを扶け、見守ろう」

 そう言い切ると葵はもう涙も見せず、真摯な視線を返している。

「皇帝は成る事よりも、在り続ける事こそが至上の勤めだ。これから先、多くの試練や困難がお前に降りかかるだろう。しかしお前は剣の誓いを胸に膝を屈す事なく、前に進め」

 そう告げると葵はゆっくりと深く頷いた。

 気がつくとあたりは随分明るくなっていた。

 延旺は剣を葵に返して「これは常に持ち歩け」と言った。

「即位の儀式が終わったら、他の者の目のあるところでめそめそと涙を流すな。威厳が失われる」と言って延旺は葵に背を見せた。

「私はもう屋敷に帰る。お前もいい加減皇宮に戻らないと皆が探しているのではないか?」

 そう言って延旺は来た道をまた戻り始める。

「駿は返しておいてくれ」ともう一つ声をかけると後ろから葵が「延旺!」と呼びかけた。

 足を止めて振り返ると朝日を浴びた葵が笑っていた。

「俺、皇帝になって名乗る名前、今決めたから!」と大きな声で言う。

 気になったので「なんという名だ」と問いかけると「父から一文字頂いた」と言う。

 ふと脳裏に勇崇偉の姿が浮かんだ。

 軽く笑みを浮かべて「いい事だ」と返してやると、葵が「俺は今から勇旺葵ゆうおうきだ」と高らかに宣言した。その言葉を聞いて延旺は何も返さずにまた背中を向けて歩き出した。

 葵から離れるに従って、涙が後から、後から溢れて止まらなかった。手で触れてみるとそれは、温かだった。

 

 

 即位の日は、祝賀の民が大量に皇宮の前庭に押しかけ、入れなかった者は幾重にも皇宮を取り巻いた。皆、勇雲への恐怖と怒りを取り除いてくれた新皇帝の顔を一目でも見ようと集まったのだ。皇宮からは色とりどりの花びらが撒かれ、皆笑っていた。

 玉座の間での式典では皇宮の古老から勇旺葵に、皇帝の証である宝輪が贈られた。それが恭しく首にかけられると葵は玉座の階を仰ぎ見た。隣では同じように勇雅が宝輪を受け取っていた。それが終わるのを見て、葵は階を登り始めた。左手には剣が握られている。頂上の玉座までたどり着くと勇旺葵はじっとそれを眺めた。息を一つ吸う。

 一度ここに座れば、常にこの場所に相応しい者で在り続けなければいけない。それは果てしない重圧を勇旺葵に与え続けるだろう。

 だけど。

 だけど行こう、己の意思と運命に従って。

 勇旺葵が玉座に座り、まっすぐ前を見つめると、玉座の間にいる全ての者が一斉に跪いた。

「私は勇旺葵。たった今、勇貓皇国の帝位を継承した。身にあまる名誉と重責ではあるが、皆の力を借りて立派に果たそうと思う。私の目指す国は、国中の者が昨日よりも今日が幸せと感じる国だ。その実現の為に、この一命を賭して挑むつもりだ」

 勇旺葵の言葉が終わると皆顔を上げ、そしてまた深く跪いた。

 儀式が終わると勇旺葵と勇雅は宮殿の露台に出て、民衆の祝賀を受けた。万雷のような拍手と舞い上がる花びらが華やかな風景に彩りを与えていた。勇旺葵と勇雅は並んで立ち、祝賀を受け入れた。祝賀は喜びと興奮の中で、長く、長く続いた。

 その日、勇貓皇国開国以来、初めて短尾の皇帝が、立った。

 

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黄金の還る刻 −勇貓皇国伝− あすか@N @asuka_nakano

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