第25話「示談もない感じ?」

 あれから。

 特別重傷でもなかった僕は、二、三日を安静に過ごし、医者からの快諾を得た後、退院を果たして家に帰った。

 いくら病院のベットで安静にしていてもやはりなかなか疲れは取れていないようで、慣れ親しんだソファに飛び込んだ後、僕は泥のように意識を失った。

 

 そして翌朝。

 凝り固まった体を簡単にほぐしながら体を起こす。

 いくら柔らかいとはいえ、やはりこのソファでは寝起きに適さない。

 改めて、自分の硬いベットに対し、それなりの愛着と敬意を持ったところで、僕はシャワーを浴びにいった。


「…………」


 改めて。

 自分が現在なかなかにひどい顔をしていることに気づく。

 寝癖がひどいことは、毎朝のことではあるが、しかしその下にある眉や目に鼻と口元。

 肌の隅に至るまでボロボロのぐちゃぐちゃになって、僕の顔は出来上がっていた。

 幼児が悪ふざけでやった福笑いでももう少し丁寧になると思えるほどだ。……いやそれは言い過ぎだろうか。

 まあとにかく。

 少なくとも、人前にさらけ出せる顔ではないことだけは、確か。

 さらに――仲の良くない異性に会う前だというのなら、それはなおのことだろう。

 


「で」


「ん?」

 

「なんであなたがここにいるんですか?」 


「なんでって言われても」


「私は、一応、あなたのことをそれなりに常識のある人間だって、そう評価していました」 


「なぜに過去形」


「現在進行形で問題が発生しているからです」


「一応今でも僕は常識人のつもりなんだけど」


「わかりました。では今の状況を鑑みてください」


「えっと……うん、わかった」


 僕は周囲を見渡す。

 一面を見る。

 ダイニングと連結しているタイプの小さな一部屋はどうやらリビングの役割を果たしているようで、食事用であろう僕の前にある机には、僕用に敷かれたコースターとお茶が湯気を揺らめ動かしている。

 角の方へ紙の束がドカッと並べられていてそのテーブル自体はとても狭く見えた。

 右を見ると、そこにはこの部屋の中でいちばんの存在感を放つ趣味のいい戸棚があって、中には大きなな盾と、そしてトロフィーの数々が所狭しある。

 反対側に目を向けると、そこは明け放れたままの扉があって、彼女の格好がまだ寝間着姿であることを考慮すると、どうやらそこが寝室らしかった。

 

 と。

 以上を踏まえて。

 頭に思考を通して。

 僕は言った。

 

「お邪魔してます」


「帰ってください」

 

 そう。

 時間にして昼の十時。

 ここは一条凛の家で。

 彼女は一人暮らしで。

 

 僕は今、そこにきているのだった。


「早く帰ってください。通報しますよ」

 

「別に不法侵入はしてないじゃん。ここまで通してくれたのは一条さんだし」


「仮とは言え一応の上司相手にしてお茶の一つも出さずに返すと言うのは私の中で非常識であるとそう判断したまでです。一応常識人なので」

 あなたと違って。


 そんな目をしながら、彼女は言葉を並べた。

 その言葉や表情も、いかんせんや柔らかい素材であろうそのパジャマを纏った状態で言われても、毛ほどだって怖くはなかった。


「というか、なんで私の家を知ってるんですか。あれですか。ストーカーですか。あなたもあの変態と同じなんですか」


「姉さんが知ってたからさ」


「じゃあしっかり個人情報保護法違反なんですね。ではぜひ塀の中で罪を償ってください」


「ちょっと刑罰重くないかな?」


「弁護士からくる手紙に震える日々をお過ごしください」


「普通にリアルで嫌な想像を促さないで」


「犯罪は犯罪なので」


「示談もない感じ?」


「私の貴重な惰眠を妨害しておいて、そんなチャチなもので許しが出るわけがないでしょう」


「あのサラダ屋十回分でどうかな」


「…………」

 

 わかりやすい沈黙。

 その肩が、かすかに揺れたのも見えた。

 僕は続ける。畳み掛ける。


「十五回」


「…………」


「じゃあ二十回」


「…………」


「わかった三十回ならどうだ」 


「……十五回でいいです」


「よし、三十五回で手を打とうか」


「コップ空ですね。もう一杯お茶いりますか?」


「ありがとう」

 

 この人ちょろいなぁ。

 見かけによらず。

 いや、これは今の見た目のおかげかな。

 

「じゃあ、私の気が変わる前に早く帰ってください」


「ちょっと待って。せめてこの出されたばかりのお茶ぐらい飲ませてよ」


「じゃあそれ飲み終わったらでいいです。早く帰ってくださいね」


「あ、お茶菓子とかってある? 少し小腹が空いちゃって」


「クッキーとか苦手ですか?」


「大好き」


「昨日焼いたのがあるのでそれでもいいですか」


「手作りとはこれまた嬉しいね」


「じゃあそれ食べたら早く帰ってくださいね」


「あ、ごめん、コースター汚しちゃったんだけど」


「待っててください。今、替えを持ってきます」


「ありがとう」


「それ敷いて食べて、飲んだら、すぐに帰ってください」


「やっぱ一条さんって実は普通にいい人だよね」


「これ以上の要望を言った場合、サラダ程度じゃ済ませないですけどね」

 寝不足は本当なのです。


 と、一条さんは本当にケータイ電話を探し始める。

 その姿に全く冗談の気配が全く感じられなかった僕は、慌てて言葉を止めて、お茶を口に入れた。

 うまい。


「……と言うか本当に何の用ですか? 朝から……と言うよりももう昼ではありますが、それでも普通、二、三度しか会ったことのない一人暮らしの異性の家に押しかけてくるなんて尋常ではありませんけれど」


 と、ケータイは見つけたらしいが、しかしそのバッテリーが空であることを認めた彼女は、ようやく話を聞く気になったらしい。

 ここにきて初めて、応答の姿勢を見せた。


「別にそう言うわけではありません。ただ、話を聞くまで本当に帰らなさそうだったので渋々耳を傾けただけです」


「全然それでも嬉しいな」


「ちなみにそのお茶飲み終わったら本当に帰ってもらいますから」

 その頃にはきっと、公的権力への連絡手段だって復活しますし。

 

 と。

 相変わらずの無機質で通った冷たい声は、これまた変わらず、全く冗談に聞こえなかった。

 

 その後。

 簡単に飲み干すわけにはいかない目の前のお茶を僕は少しづつ口に含ませる。

 ムフゴンの中、一条さんがようやく気になっていたであろうことに触れた。

 僕は彼女に見えたい角度に、自分のケータイを置いた。


「その」


「ん」


「怪我とかって」


「怪我……? ああ、これね」

 

 ケータイから手を離し、慌てて右手を上にあげた。

 その動きに不信感は抱かなかったようで、彼女の視線は僕の腕と共に上にある。


「入院していたんのではなかったんですか?」


「まあ、うん。してたよ。昨日退院したけど」

 ご覧の通り。


 と、痛々しいその包帯を見せつけるようにして腕を上げた僕。

 彼女の顔は、変わらず無表情のままだ。

 

 気にはなっていたのだろう。

 視線が時々下に向いていたことはわかった。

 それだけではなく、きっと情報伝達は言っているはずだ。

 グループで痛々しい情報を記述したのは僕なのだ。

 まあ全員から既読無視されはしたのだけれど。

 そうですか、と、納得の言葉を出した一条さんは続けた。


「きっとバチでも当たったんですね。ご愁傷様です」


「身に覚えがなさすぎるな」


「そういうところも含めて、ですよ」

 

 それだけ言って、彼女は大きくため息をつく。


「で、今日はなんですか。いつもルームでやっているような演技指導でも、してくださるんですか?」


「僕、そんなことやったことないよね?」


「やってるじゃないですか。偉そうに、中身のない言葉をかけるだけ言葉を私にかけるやつですよ」


「僕、素人だからさ。技術的なことはさっぱりなんだ」


「そうですか。すいません。私があなたにヘイトを伝えてからの一週間。その様子を見る限り、あなたの言葉を解釈する限り、団長様はどうやら私の演技では満足いただけないのかと勝手ながらに思ってました」


「僕は一言だってそんなことは言ってないよ」


「…………」

 不満げにこちらを見つめる視線。

 その意味合いは聞くまでもなくわかった。


「基本的に僕は称賛しかしてないはずなんだけど」


「そうですね。確かに、あなたは称賛の言葉以外吐くことはなかったです。毎日毎日、演技場に足を運んではただ適当な言葉で褒めて帰るだけでした」


「適当って、ひどいな」


「適当でしょう?」


 一条さんは僕を睨んだ。


「毎回どうでも良さげに私の練習風景を見にきて。『よかった』『すごいね』『魅入られた』そんな中身のない言葉ばかり並べて。ろくに細かい部分に着目することもなく、工夫したところに気づくでもなく。ただ、素人のように演技を見て眺めて、適当な感想をのべて帰っていく日々だったでしょう?」


「言い方の問題じゃない?」


「事実ですから」

 

「君の中の僕ってそんな凶悪だった?」


「いえ別に。先日も申した通りです。私個人に限って言えば別にあなたのようなつまらない人間、特別な印象も何もありません」


「そか」


「ただ、そんな人なあなたではありますけれど、それでも、せめて共感性ぐらいは持っている方なんだと、そんな程度には評価していました」


「共感性、ね」


「わかりやすくいえば『染まりやすさ』と言う言い方をしてもいいですけど」

 

 彼女は、無表情のままに言葉を並べる。


「ここで言う共感性という言葉の意味は二つです」


 一条さんは指を二本出す。


「理性部分と感性部分の、二つです」

 

 一つを畳んで彼女は言う。


「一つは、他人にも自分と同じ意識の高さを求められた時、そのレベルにすぐ適応できることを指して言ってます。私が第一劇団であったように。私たちがあなたに対してそうであったように。多くの組織の中で起こる問題のように。そう言った圧力に対して、理性的に、ある意味本能的に、空気を読んで、すぐに適応できる人間であるという評価です」


「そうだね。君に結構はっきりと言われたね」


 思い出す。

 面と向かって。

 正面切って。

 ある意味気持ちよく、

 普通に核心を撃ち抜かれたように。

 

 ——趣味とかあるんですか?


 と、言葉をかけられたことを思い出す。

 

 一条さんは言葉を続けた。

 

「二つ目は、熱伝導が早いことです。周りが熱くなって、真剣になって、全力で前に進んでいる時、その熱に合わせて自分の温度を高められる人のことです。空気を読むわけではなく、その空気の一部になるように、いつの間にか夢中になって、当事者になって、周りが見えなくなって、主観だらけになって、全力になることを指します。ここで大事なのは『いつの間にか』と言う部分で、ほとんど感性の話です」


「似たような例え話をこの前聞いたな」


「綾さん……いや、佳奈さんですかね」


「知ってたの?」


「仲良いんです」


 普通は一つ笑ってもいいところなのだろうけれど、一瞬左上に目をやっただけで、しかしほとんどその表情は変わることなく、口調すら変わることなく、一条さんは口を開く。


「この二つの共感性は、きっと多くの人がほとんど持ち合わせているものではありますが、それでもあえて言うなら、佳奈さんはその両面の共感性を過度に持っている人でした。自分が凡人であることに非常に悲観的で、意識的で。だからこそ、十二分に自分の持ってない熱を人から取り入れることに徹している人でした」


「恒星、だっけ」


「そうです」 

 その例えで言うなら、彼女はきっと惑星なのでしょう。

 

 

 彼女は頷く。

 そして僕を見つめた。


「あなたはあの日、私に謝った。正確にはあの男にだって三枝さんにだって謝罪の言葉を述べた。『真面目に向き合ってなかった。真剣ではなかった。申し訳ない。反省している。もう一度チャンスをくれ』と、そんな言葉を真摯にかけました。頭を下げて、言葉を述べました」


「そうだね」


「確かに、それからの雑務への取り組みは評価に値するものです。ほとんど副団長のように、手際よく、要領よく、効率よく、私たちにとってストレスのない素晴らしいサポートを整えていただいたことは、間違いなく素晴らしかった。人間ここまで変わるのかと正直舌を巻いたほどです」


「そう言ってくれると嬉しいな。ありがとう」


「だから——きっと、あなたは理性の部分では共感性は高いのでしょう」

 でも


 一条さんは言葉を続ける。


「そこまでやって、それほどに頑張って、怪我までするほどにやり切って。そうまでして、あなたは一体どうして私たちの演技にはまともな感想一つだって用意しないのですか? ただ演技を見にきて、鑑賞して、褒めて、そして去っていくだけなんですか?」


「つまり……どう言うこと?」


「あなたは感性の部分で、『共感性』が絶対的に欠けている」


「まだ難しいな」


「じゃあはっきり言います」


 そう言って、一条さんは、言い切った。


「どうして——それほど労力を割いておいて、努力をしておいて、まだあなたは劇に夢中になっていないのですか?」

 個人的な話をすればですが——


「なぜ、あなたのような熱のもたない人間が、どうして私の演技で——」

 

 そこで、何か気づいたのように、黙り込んだ彼女。

 表情にあまり変化は見えないけれど、それでも明らかに前とは異なるその姿に、僕はただ、無言で見返すだけだ。


「私の、演技で……」


「…………」


「あなたに……私は……」



 と。

 そこまで言って。

 ついにその口は黙った。

 一条さんは口を噤んだ。


 黙って。

 僕を見ながら、

 僕を見つつ、

 その大きな目を一層大きなものにしながら。

 

 まるで、何か、気づいてしまったかのように。

 彼女は黙った。


 そして、しばらくずっと——黙ったままだった。

 

 視線を外して僕は、前のカップを手に取る。

 久しぶりに口に含んだ目の前の紅茶は、とても冷たくなっていた。

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