第26話「僕はそうでもない」
アパートを出ると雨が降っていた。
土砂降りではないけれど、それでも遠目からその水滴が確認できるくらいにはしっかりと。
この夏、久しぶりの雨だ。
ちらほら歩くここの住人と思しき人たち。
その様子から推察するに、世間的には本日この時間に雨ぐもがこの一帯を覆うことは周知の事実らしい。
あんなテレビも見ずに家を飛び出した手前、当然準備なんてしていなかったし、折り畳み傘は鞄に入れっぱなしだし、まさかあの状態の一条さん宅に物を借りるために再来訪するわけにも行くまい。
「…………」
まあいいか。
少しだけ考えて、僕は雨の中を歩き出した。
雨はそこまで、嫌いじゃない。
音に限っていえば好きなぐらいだ。
滴が肩を落ち頬に跳ねる。
その水滴は顎まで垂れて地地面で割れた。
「さっきはごめんね」
雨の中、僕は話し出す。
「さすがに脈略なさすぎた。いきなりすぎたね。ほんとごめん」
目の前に、人はいない。
「でも同じ説明を三度もしたくないからさ。この方が効率がいいかと思って」
雨音は変わらない勢いのまま、周囲をかき消す。
空気の揺れや、木のさざめき。
それら全てをゼロに近づける。
それでも——足音だけは消えない。
「まさかこうして外に出てくれるとは思ってなかったよ、ありがとう」
お互いの手には携帯電話。
それは、繋がっている。
先ほど。
一条さんと会話を始めるとき。
電源を入れて。
通話を開始して。
彼女に語るふうにして。
そして、全て——語って聞かせた。
「わざわざ、家にお邪魔せずにすんだ」
「…………」
その視線は鋭い。
以前まで。
僕が見てきたものとは別種のものだった。
それはもちろん彼の格好がいつもの目深なフード姿ではないことだって一因なのだろうけれど、しかし間違いなくそれが僕に向けられている目つきの理由ではないだろう。
「久しぶり、小柳くん。シナリオの方はどう? 順調?」
「…………」
答えはない。
ただ、じっと。
雨の中。
彼は僕を見つめ、僕は彼を見つめた。
数秒。
いや、数分。
もしかしたら数十分は立っていたかもしれない。
それでもこうしたい未だお互い風の一つも引かずに住んだところを見ると、その実、コンマ数秒だったかもしれない。
ただ、僕は彼を見て。
彼は僕を見ていた。
その時間があったことだけは間違い無く確かだった。
彼は自分の手をあげる。
繋がったままの。
自分の携帯電話に耳を当てる。
合わせて、僕も耳に当てた。
『幸人さん』
「何かな」
『僕は好きなものがたくさんあります』
「そっか」
『劇が好きです』
「僕はそうでもないかな」
『戯曲を描くのが好きです』
「僕はそうでもない」
『本を読むのが好きです』
「僕はそうでもない」
『何かに熱中するのが好きです』
「僕はそうでもない」
『劇団の人間は嫌いです』
「僕はそうでもない」
『綾さんのことが好きです』
「死ねばいいって、毎日思ってる」
『…………』
「…………」
静寂。
無言。
彼は後ろを向いた。
顔の表情は変わらないまま。
それでも、視線は最後までこちらを見つめながら。
後ろを向いた。
そして、一言。去り際。
彼は最後にこちらに聞こえるぐらいの声で、言葉を漏らした。
「じゃあ——それ全部好きにさせますから」
覚悟しておいてください。
彼はそのまま去っていった。
一度だって振り返らず、
こちらを向くこともなく。
だから。
だからこちらからは彼の顔は見えない。
背中しか見えない。
その表情は窺えない。
感情はわからない。
しかし。
しかし、それでも——
なぜか——僕は彼が笑っているように見えた。
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