第24話「僕、寝起きはいい方なんだ」
天井の無味乾燥な天井の白とは違い、横を向けば、そこには多様な世界が広がっている。
窓。
大きなそれが、横にはあった。
足元まで広がる窓。
透明度の高いそれは、きっと僕の身長よりも高い。
世界をより広く見渡せるものだった。
目が覚めた時、体勢が仰向けでなく横を向いていれば。
あるいは、この定期的に耳に触る機械音と水の滴る点滴がなければ。
もしかしたら、僕は今自分がどこにいるのかを正確に把握することはできなかったかもしれない。
そんなことを思ってしまうほど、その窓は、病院という施設に似つかわしくない大きく、広かった。
視線を外に向ける。
目を向ける。
僕は思った。
舞台のようだと。
そんな風に目の前を思った。
雲は邪魔にならない程度の存在感でそこにあって。
空気は遠く澄んでいて。
音は無音で。
それでも草木はさざめくにとどまっていて。
それらが邪魔にはならなくて。
そして。
そして眩しいぐらいの満月は、爛々とスポットライトのように輝いている。
この病室と、そしてこの一帯を照らしている。
わがままに、いたずらに。
自己を主張し尽くしている。
そんな光景。
そんな風景。
再び、僕は舞台のようだと思った。
綺麗だな、とも思った。
そして、それ以上は何も思わなかった。
ケータイを見る。
メールを見る。
その一行だけを見た後、僕はケータイを閉じた。
風が、舞う。
雲が流れる。
草木が揺れる。
月を隠す。
光が切れて。町全体が暗闇に包まれる。
そこで、僕の視線も切れた。
「起きて」
寝起きの瞬間、花束を持った人間が真横に立っているほどに目覚めが悪いこともないとは思うのだけれど、それに加え、肩を揺さぶられつつ、叩かれつつ、しまいには頬を叩かれてまでして目を覚ました人間というのは、世界広しといえども中々にいるまい。
まして、起床者が昨日に交通事故にあった人間ともなれば、その特異性はより増すだろう。
「というか起きてるんでしょ。早く起きてよ」
「……寝てたよ」
「そうだった? てっきり狸でも飼っているのかと思ったんだけど」
「どちらかと言えば狐の方が好きかな」
「ちょっと意味がわからない」
「別に意味なんてないよ」
今、僕、頭動いてないし。
それだけ言って僕は体を起こす。
昨日の夜に確認はしたが、それでも部位に異常はない。
ヒリヒリと痺れたままの頬を撫でつつ僕は言う。
「てか、なんで叩いた」
「寝てるかと思って」
「だとしても入院者を普通は殴らないでしょ」
「殴ってないよ。叩いたの」
「同じじゃん」
「綾さんは結構寝起きは悪いからね。仮眠とってるあの人を起こす時はいつもそうしてるし。だから、君もそうなのかと思って」
「僕、寝起きはいい方なんだ」
「あらそ。じゃあ今度からは声をかけるだけにするね」
「大丈夫。もう二度と君の目の前では寝ることはないから」
「…………」
「…………」
無言。
彼女は手に持った花を乱暴に台の上に置いて。
そして、ベットの縁に座った。
「なんか会うのは久しぶり、かな。三枝さん、今日はどうしたの?」
「……お見舞いよ」
「へえ」
「当然でしょ」
ため息一つ。
これ見よがしに、息を吐いた三枝さんは、視線を僕には向けない。
「当然かな」
「当然でしょ」
「君にとってみれば僕って、わざわざ見舞いに来てくれるぐらいの人間なんかじゃなかった気がするんだけど」
「うん別にそれは今でも、変わらないよ」
彼女は頷く。
「佐藤幸人はつまらない人間で、面白みのかけらだってない、私の興味の対象外。何にもなくて空っぽな人間。その評価は一生変わらない。別にあんたの人が変わったようになったからと言って、その本質は何も変わってないんだから」
——でもね。
「確かに私は畜生だし、ビッチだし、空気が読めないわがままな人間だと思うけどさ。それでも人の心ぐらいはあるの。知り合いが過労で交通事故起こしたとなったら見舞いに行くぐらいは当然だって、そう思うぐらいには一応ね」
「それは……ありがとうで、いいのかな」
「別にお礼はいらないし。そんなもののためにここに私はきたわけじゃない」
「そっか」
「…………」
視線が僕を向く。
まっすぐ。
しっかり。
それが近づく。
いつの間にか彼女の手は、僕の胸倉を掴んでいた。
顔が引き寄せられる。
目が近くに。
息が近くに来る。
香りの良い香水が、鼻を通って心地よい。
「…………」
「どうしたの? いきなり」
「…………」
「三枝さんらしくないよ」
「……別にらしくないなんて言えるほど、私と君って関係深くないと思うんだけどな」
「そうかね」
「違うって言うの?」
「僕としてはもう結構連絡させてもらった間柄だったからし」
「私はほとんど無視してたけど」
「それでもメッセージは返してくれてたよね」
「それは……あんたがしつこかったからね」
「結局曲だって作ってくれたし」
「…………」
「昨日も送ってくれたよね。三曲、わざわざ演技と戯曲の一場面に合わせた編集までしてくれて。おかげでとっても見やすかったよ」
「違う」
「ん?」
「……四曲よ。今朝も合わせて送ったでしょうが」
「そっか、ごめん聞いてなかったよ」
彼女の顔を改めて見る。
その目の下にはクマがある。
コンシーラで隠れきれない部分があった。
「でも、そうだね。じゃあその三曲に対する批評だけど」
「…………」
「うん。よかったよ。すごいと思った。さすがだね、ありがとう」
「……っ」
胸を掴んだ腕の力がこもる。
「何がしたいの、あんた」
「今は劇を成功させたいかな」
「過労死するまでやるぐらいやるぐらい?」
「死ぬつもりはないけどね」
「てことは……やっぱりまじなんだ」
「一応、真剣ではあるよ」
「…………」
「…………」
「本当……訳わかんない」
「…………」
「なんなの、お前」
「…………」
「意味わかんない」
「そんなこと言われても」
「いや、本当。まじでさ、もしかしてわざとやってたりするの?」
「…………」
「素人が、私の音楽を聞いて、その劇を見て、どうしてその言葉程度のしか出ないわけ? 私が作ったものの価値がわからないとでも言いたいの?」
その腕と瞳は震えている。
そこから、三枝優姫がここにきたのは僕のお見舞いなんかじゃなく、そのセリフをいうためだったことは明白だった。
あふれんばかりの文句と呪詛と、憎しみを。
僕に向かって吐くために。
ここまで彼女はやってきた。
言い訳を用意して。
ようやく僕の前に現れることができたのだろう。
「私だけじゃない。意識高いあの子にだって、個別にあんた同じようなこと言ったらしいじゃん。『すごかった』『演技うまいね』『感動したよ』って短い言葉だけ」
「だね」
「ぶちぎれてたよ、あの子」
「そっか、不思議だな」
「確認は取ってないけど。どうせオタク君にも似たような言葉をかけたんでしょ」
「うん、まあそれなりに」
「……まじでバカにするのも大概にして。私たちは真剣に生きてんの。高いレベルで戦ってんの。あんたとはそもそも生きてる次元が違う。何もないあんたなんかに理解できるわけがないことなの」
「そうかもね」
僕は肯定する。
彼女の言葉に過ちは一つもない。
僕は肯定を返す。頷きを返す。
「だから僕は別にリテイクを用意して欲しいだなんて一言だって言ってない。今のままで十分だって思ってる。すごいと思ってるのは本当の本心から出た言葉。同い年なのにこんな代物が作れるなんて本当すごいと思う。尊敬してるよ。僕には逆立ちしたって作れそうにない」
「…………」
「それでも——毎日毎日、君たちが僕に勝手に新しく焼き直しを送ってくるのは君達だ」
「…………」
「僕は君たちにリテイクなんか求めてない。僕は何もできないから。だから君たちに必要以上に何かを求めるようなことはしてない。自分のできることしかしてないし、それ以外の雑務しかしていない。僕は特別何も言っていないのに、それでも君たちが勝手に新しい作品を僕に送りつけてくるだけだ」
「……そうだよ」
三枝優姫は口を開く。
「別に私たちは何か言われたから作品を作ってるわけじゃない。やり直しを言われたから、物を作ってるんじゃない。命令されたから音楽を作ってるわけじゃない」
彼女は続ける。
「でも、お前はまた、言うんだろ。作品をもらって、見て、鑑賞して、聞いて。その後に」
『よかったよ』
「なんて、無機質で適当な言葉で、私たちの作品を評価するんだろ。素人らしく、何も知らない空っぽな人間らしく。真剣にものを作った人間の気持ちなんか全く理解できないような人生を送ってきた人間らしく」
「ああ、そうかもね」
確かに僕は何もない人間でただの素人で空っぽだから。
だから、きっとそんな言葉しかかけれないだろうね。
それまで言ったところで、三枝優姫は一層力を込めて、僕を睨み付ける。
「だったら、じゃあ、お前はもっとしっかり作品を受けとるべきだろうよ……! そんな私たちが時間作ってわざわざものを作ってやってるんだから、何もないお前はただ感謝して言葉並べてもらっとけよ……! なんで毎回毎回適当な感想だけ返すんだよ! なんでそんなどうでもいいものを見た時みたいな感想を返すんだよ! なんでそんな業務的なんだよ! もっと有り難がれって! もっと感動しろって! もっと響けって!」
「だから言ってるじゃん。『すごい』『感動した』って」
「……違う、そうじゃない!」
三枝さんは叫ぶ。
もしかしたら看護師さんにその声は届いているかもしれない。
それほどに大きくて響く声だった。
「本当、僕にはできそうもないよ、本当にすごいものを作り人たちだって、心の底から思ってる」
「だから違う! そうじゃない! そうじゃないんだよ!」
彼女はさらに声を荒げた。
「私たちが欲しいのはそんな言葉じゃない! そんな薄っぺらい言葉なんかじゃない! そんな他人事みたいな言葉なんかじゃない!」
「じゃあ何さ」
「何って……!」
「君は一体僕に何を望んでいるの? 感想を言って、客観的にすごいと評価して、尊敬して、敬意を込めて称賛して。——それ以上、僕に何を望むっていうの? 何もない空っぽの僕に対して、一体何を望むっていうの?」
ほとんど鼻が合わさるほどに近づいたその顔の位置のまま、彼女に問いかけた僕。
その視線はずれることもないまま。
彼女はゆっくり言葉を出す。
「私たちは……! お前を。お前みたいな、空っぽで何もなくてロクでもない人間を、——私は……」
「…………」
「私、は……」
「……」
「お前なんかに……私は……」
「…………」
そこまで言った彼女は、胸倉に当てた手をどけた。
何かに気づいたように。
何かに気づいてしまったかのように。
彼女は目を大きく広げて。
潤んだ瞳をこちらに向けて。
そして、最終的にその目を逸らした。
視線を外に向けた。
力なく、その場で茫然と僕に向く。
しかしその視線は、全く僕を見ていなかった。
それから。
何事か、と看護師さんが駆けつける前まで、彼女は茫然としたまま虚空を見つめたままだった。
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