第23話 ——でも。

 佳奈さんは帰った。

 行き場所は、知らない。

 去り際に何かを言っていた気がしなくもないし、何も言ってなかった気もする。

 その視線が悲しげに満ちたものであったのか、あるいは諦めを持ったものであったのか。

 それらほとんどが、記憶にない。

 

 それでも。

 その中でかすかに覚えているものとしてあるのが、何度となく言葉を尽くして僕を説得しまいとしていた彼女の姿と、その際に口から出た多くのセリフぐらいで、しかしその代替は僕の臓に響いていくことはなかった。

  

 一人。

 時計の針と、冷蔵庫の駆動音だけが部屋に響いて、静寂が意識の中に入り込む。

 尖って鋭く。

 中に入り込んでいく。

 

 先の自室でのように、別段、考え込むようなことはしていない。

 考えるまでもない。

 考えるまでもなくなった。

 佳奈さん。

 彼女の吐いた言葉が、綺麗すぎるほどにその通りだったから。

 間違いがないほど、おっしゃる通りだったのだから。

 

 僕と彼女は似ている。

 境遇も、現状も。

 ほとんど同一人物のようにそっくりで。

 似過ぎている。

 まるで生き写しかのような状況に不気味な笑みさえ浮かんでくるほどに。

 そっくりそのまま僕のようだ。

 

 だから、きっと佳奈さんの言葉は正しい。

 そして、彼女の言う通り、僕は劇団をやめるべきで、全てを放り出すべきなのだ。

 自分を壊して苦しめて、壊れてもなお生き続けなくてはいけない地獄に向かう前に。

 僕は引き返すべきなのだ。

 

 佳奈さっはとても優しい人だ。

 自分の辿った苦しい道を。

 後輩に歩ませたくない一心で、言葉を出してくれたのだろう。きっと。

 それほどに苦しい日々で。

 それを止めてくれようとしているのだ。

 

 事実、佳奈さんと話すまで、僕は失意の底にいたし、あそこに自分がいるべきでないとも思っていたし、全てを投げ捨てしまおうとだって思ってもいた。

 

 だから、ここは退却が筋のシナリオだ。

 佳奈さんの忠告通りに。

 引き返して。

 忘れて。

 放り投げて。

 知らないふりをすることが、きっと正しい選択だ。

 

 それ以外は間違いで。

 それだけが正解で。


 以上。

 どう鑑みても。どう考えてみても。

 僕は彼女の言う通りにするべきだ。

 そうするべきだ。

 それ以外、選択肢はない。

 

 だから、僕はきっとそうするし。

 そして彼女と同じ道をたどる。

 忠告とは反対に。

 同じ苦しみを味わう。


 ——でも。


 それでも。

 

 そんな似ている僕と佳奈さんだけれど。

 そっくりな僕たちだけれど。


 それでも彼女は一つ、間違えていた。

 大きく一つ、違えていた。

 僕と彼女における近似の解釈として、確実に異なっていることが一つ、あった。


 僕と彼女の違い。

 大きくて、明らかで、大切な違い。


 確かにそれは、たった一つの違いだし。

 それ以外は彼女の言う通りだし。

 ほとんど誤差のようなものだけれど。

 

 それでもその違いが結論を変えてしまうほどに重要なもので。

 大切なものだった。

 

 佳奈さんにはなく。

 僕にはあった。

 

 あるいは。

 

 佳奈さんになく。

 僕にはなかった。

 

 それだけの違い。

 その程度の違い。

 そんな違い。



 僕は知っていた。

 自分を知っていた。

 

 

 そこから、

 そこから考えた仮定と予想を確かめる明日を固めて。

 彼女と自分の違いを、確かめようとして。

 

 ——僕は一つ、答えを用意する。


 それはきっと仮定だけれど、

 正しくないかもしれないけれど、

 それでも。

 その中でも。


 改めて。


 僕は佳奈さんが語って聞かせた言葉を思い起こして、考え。

 思考の中で整理する。


『私たちは似ている』


『熱にすがるしか、私たちはできない』



 姉さんが語った言葉を思い起こして、考えて。

 意図を整理して考えて。


『好きなもの、見つかった?』


『あなたにしかできないことなの』

 

 考えて考えて考えて。

 

 頭がちぎれんばかりに考えて。


 そして。

 そしてようやく。

 僕はその仮定を——結論に変えた。


 答えを、出した。


 なるほど。

 

 確かにそれは、僕にしかできないものかもしれない。


 なんて、そんな自惚れの結論。


 僕は、そこに至った。

 

 


 

 横になる。

 目を閉じて、横になる。

 思考の海に深く浸かるため、

 より具体的な思考の変遷を描くため。

 暗闇の世界を——受け入れる。

 

 しかし。

 きっとどんな人だってそうであるように。

 そんな思惑から、瞼の裏に描こうと思ったそのイラストは、形になることはなかった。








 それから。

 その日から。



 およそ一週間。

 僕はたったの一回も眠ることはなかった。






 

 頭を下げ、連絡を取り、スキルを磨いて、努力をして。

 空気を考え、読んで、表情を作って、言葉を作って。

 足を働かせ、頭を動かし、手を止めることなく。


 ただただ。

 彼らのために働いた。動き続けた。


 必要なものがあれば、言われる前に用意した。

 わからないことがあればすぐに検索をかけた。

 知らないことがあれば人に聞いた。

 雑務が目に着けば、誰に言われるまでもなく全てをやった。

 出来を問われれば、迷わず肯定した。

 

 自信やプライド、意地や見栄をかなぐり捨てて、仕事をした。技術を磨いた。

 自分の存在意義や存在理由があまりに希薄なものに支えられていることを目の前に突きつけられながら、僕は自分の仕事に従事した。


 彼らにしかできないことは、たくさんある。

 僕にしかでいないことは、ない。


 間違いなく紛れもないそんな当たり前の事実を受け入れ、受容し。

 代わりは誰だっているのだということを肝に命じて。

 

 自分に何もないことを自覚しまいと、体を動かし、頭を働かせ、意思を排除し、考えることを捨てた。

 何もかもを捨てて、何もかもを考えず。

 僕は働いた。


『お前の代わりはいくらでもいる』


『お前でなくてもいいんだ、別に』


『だってお前には何もないのだから』


『お前は常に空っぽなのだから』


『何もなくて、色もなくて、つまらない人間なのだから』


『お前でなくてはいけない理由なんて、どこにもない』


『お前の存在は誰の何の関係もない』


『お前が死んだところで誰も困らない』


『だから』


『だからもし、それでもお前が生きたいというならば』


『そんな醜い分際で』


『まだ息をしたいというのなら』


『じゃあ』


『お前は人の嫌がることをやれ』


『誰もやりたがらないことをやれ』


『嫌な顔一つ見せず』


『自分らしくなんて幻想は捨て切って』


『自分の人生を捧げて』



『ただ人形のようになれ』


『……だってそうだろう?』


『選ばれた人間と、そうでない人間』


『まさか、前者が自分であるなんてうぬぼれはあるまい』


『そして、後者が自分であるとも思うまい』


『そもそもだ』


『選ばれる土俵にすら立たせてもらえなかったお前だ』


『お前は欠陥品。そもそも評価に値しない人間』


『評価すらされることはない』


『競争すらさせてもらえない』


『ならば』


『ならばそんな欠陥品らしく』


『自分を犠牲に誰かに貢献してみせろ』


『自らの人生を投げ出して』


『使い捨ての道具のように』


『ただ生きて』


『ただただ生きて』


『そして使い潰されて』



『そして誰か——のために死ねばいい』



『つまり、そうだ』


『お前はほとんど生贄だ』


『それが欠陥品のできる唯一のことで』


『それしかできないのがお前という存在だ』


『……おお』


『ちょうどいいところに大通りがあったな』


『交通量も、多い』


『大型トラックまでやってきた』


『ん?』


『何だ、どうした』


『飛び込まないのか?』


『お前はあの佐藤綾の弟だろう?』


『ネームバリューだけはあるんだから、な?』


『話題にはなるかもな?』


『団長の死』


『それを乗り越えて、劇をする劇団員』


『涙しつつ演じる演者』


『共感する観客』


『無事に幕は引かれ』


『それはきっと多くの感動を与えるだろうな』


『きっと涙なしには語れないだろう』


『だからまあ』


『広告宣伝には——もってこいだと思うんだけどな』


『……なあ』


『佐藤幸人』


『お前はどう思う?』



 そんな言葉がかすかに頭の淵から聞こえて。

 声が大きくなって。

 自意識が霞むほどに黒の感情が大きくて。

 

 一年。

 これを耐えたあの人は、一体今、どんな気持ちで生きているのか。

  

 想像すらできないし、したくもない。


 だから、

 だから、僕はそれを見ないため、それに引っ張られないため、より仕事に没頭した。集中した。


 

 そして。

 それはきっと、誰とも違うやり方で。

 佳奈さんとは異なるやり方で。

 姉さんにはできない接し方で。


 だいたい一週間。


 本当に一睡だってする暇もなく、労働に勤しみながら、彼らに接していた。

 

 

  

 

 



 目が覚めたら、病院のベットの上だった。

 交差点で信号待ちをしていた。

 そのところまでは、覚えている。

 


 まあ、僕は交通事故を起こしたのだろう。

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