第22話「……恒星」

「ま、別に外傷はないし、その形跡もないし、だからまあどっちでもいいんだけどね」


 と言う言葉で話題を変えた佳奈さんは、ソファに深く座り直す。

 少し、僕と彼女の距離が詰まった。

 

「実はさ」

 

「はい」


「私も、昔言われたんだよね」


「……なんの話ですか?」


「わかるでしょ?」


 彼女を見る。

 目はまっすぐ僕を見つめていたので、その衝突は自然に起こった。

 佳奈さんは、目を細めて微笑む。

 

「薄っぺらくて、何もなくて、芯がなくて、そして——空っぽ」


「…………」


「お前はそんな人間だって、ね。私も言われたことがあるんだ」


「…………」


「あれは……うん。そうだな。まだ劇団を作ったばっかの時かな。私と、綾と、そして他の劇団員が二人だけの時。四人しかいなくてさ。今と違って規模なんてほとんど小さくて、できる舞台なんてほとんどなくて、みんな何役もこなしてて——って言う、そんなほんとギリギリだった時。そのうちの一人と演目を決める会議で意見が食い違ってさ。弾みというか、ヒートアップの結果というか……ね。その子に言われちゃったのよ」


『空っぽのくせに』


「ってさ」


 その目は、僕を見ているようで、しかしその実、遠くに向けられている。

 眼差しは、鋭かった。


「一瞬『言っちゃった』みたいな顔したんだその子だったんけど、でもそれもホント一瞬でね。その後に続けられた言葉は結構辛辣だったわ」

 『お前だけだ』

 『この中で』

 『このメンバーの中で』

 『お前だけ』

 『お前だけ何もない』

 『何も感じられない』

 『何も伝わってこない』

 『何も思ってない』

 『意思がない』

 『意志もない』

 『つまらない』

 『空虚で薄くて空っぽで』

 『白くて白くて白々しくて』

 『熱くなってなくて』 

 『熱が一つもなくて』

 『情熱が感じれなくて』

 

「『冷めている』——んだってさ、私」


 痛々しいその表情をまっすぐに見れず、いつの間にか僕は視線を下に逃していた。 

 

 それを見たからか、それとも思い出した結果か。

 少し笑い声を漏らした彼女は言葉を続けた。


「……ふふ。いや本当、全くその通りだと思ったわ。私に何もないことなんて私が一番よく知ってた。一番知ってたし、一番わかっていた。何もない。なんにもない。好きなことも、好きなものも、好きな人も。趣味だって、夢だって、職業だって、映画だって、音楽だって、アニメだって、小説だって、漫画だって、ドラマだって——演劇だって。今だ、夢中になったことはない。だから、その時に、その子に言われた言葉の羅列に、私は傷つくことなはなかった。もう悲しいとか悔しいとかそう言った感情全部を通り越して、気持ちよくすらあった。もしかしたら少しイっちゃったかも。それぐらいに痛快な言葉だった」

 

 返す言葉の隙もない。

 目を見開いて、言葉をまくしたてる佳奈さんは、そのままに言う。  


「だから——そうだから、彼女はきっと正しい。その言葉を私にかけたあの子は正しい。何一つ、間違ったことは言っていない。私は間違いなく空っぽで、何も持ってなくて、何もない人間で、熱い何かもない人間で。……そして、あの場所にふさわしくない人間なのだから。『劇団』なんて言う、熱い人間ばかりにいる場所に私がいたら、その温度を下げてしまうんだから」

 

「…………」

 

「まあ、結局直接言ってきたのはその子だけだったけど。でも他のみんなも同じことを考えてたんじゃないかな。その子はそのまま激昂していなくなっちゃたし、後に声をかけてきた人は一人だっていなかったし、みんな消えていなくなっちゃたし」

 

 佳奈さんはグラスを机に置く。

 ゆっくり、なでるようにそれを置く。


「で。だから当然さ。そんな冷めた私は即刻劇団をやめるべきわけだ。……まあ当然だよね。みんなが熱くなって何かを目指してる中、私みたいな熱のない奴がいても、いたずらに足を引っ張るだけだもん。このまま私がここにいる理由はないし、好きでもない劇団に居続ける理由はないし、そもそも綾に連れてこられた結果無理やりに入った演劇の世界なわけだし。みんなだって、私がそこにいるだけで迷惑なわけだし」

 でも——さ。 


「無理だった。そんなことできなかった。私にはできなかった。もう、手遅れだった」


「……手遅れ?」


「うん」

 

 そのまま虚空を見つめつつ、膝を抱えて丸くなった佳奈さんは言う。


「私はさ。知っちゃったんだ。冷めて、何もなくて、空っぽでつまらない熱の持たない私は、知っちゃったんだ。この世に……あんな熱いものがあるって。熱い何かを持っている人がいるって。自分とは違う。確固たる夢と目標を抱えて努力を努力と思わず前に進んでいるエネルギーがあることを私は知っちゃったんだ」

 

「…………」


「最初は……自分でなろうとした。あの情熱に。あの『恒星』に。自分がなれないか、その熱を持てないか。それを毎日模索した。劇団から離れて、いろいろ探して、趣味を探して、チャレンジして、鑑賞して、体験して、努力して、忙しくして。毎日毎日の時間全てを探索に当てていた。見つからないか、探していた」


「……恒星」


「うん。そ。結構いい例えでしょ」


 佳奈さんは笑って、微笑む。

 その笑顔の種類は、明らかにいつも浮かべているものとは異質に見える。


「でもさ。うん。やっぱり無理だったよ。今更私があの人たちのようになろうなんておこがましかった。……だってさ。そもそも彼らはこうやって趣味を探して見つけてないんだ。自然と引き寄せられて、いつの間にか、知らぬ間に始めているんだ。私みたいに、光に憧れることをしていない。そんなこと考えてもいない。それが元からそうであるように、いつの間にか歩みだしているもので、歩きだしているもので、そもそも意識なんてないんだよ」


 目元に光はない。

 その瞳の意味は、しかし僕が知るには物事を知らなすぎた。


「無理なんだよ。惑星が恒星になることはできないんだ。私が輝きに憧れを持って、なりたいと思って、羨望を持っているその時点で、自ら光を持って、熱を持つことはできない。どんなことをしても何をしても、絶対、できない」


「…………」


「私は、知ってしまった。この世にあんな熱いものがあるを知ってしまった。その輝きと光を知ってしまった。だから、もう自分の冷たさに耐えることはできそうにない。見て見ぬ振りは……もうできない」


「…………」


「だったら、さ。じゃあ、私はどうすればいいと思う? 熱を見て、熱を知って、熱を欲して、あまつさえ、自分が熱になろうとして。そして当然失敗して。そんな私は、一体何をどうして、どうすれば、熱を持てると思う? 自らの冷たさに、凍えずに済むと思う?」


 問いかけの後。 

 彼女は黙った。

 視線はもう、僕の方に向けられていない。

 まっすぐ、目の前のグラスに注がれている。

 その光を失った瞳からは、全くどんな感情も伺えなかった。

 

 僕は考える。

 その瞳を見つめつつ。

 僕は考える。


 いや違う。

 考えるまでもない。

 だから、これは。

 言うべきかどうかを考えている。

 つまり、そう言うことだ。


「……そう」


「…………」


「その通り。考えている通りよ」

 

 言外の意図を汲み取った佳奈さんは、そのまま目を変えずに微笑んだ。


 酷く歪に。

 歪んだ笑顔で微笑んだ。


「私みたいな人間、冷たく空っぽな人間が熱を抱くためにはね。ただの星が熱を持つためにはね。やっぱり恒星が必要なのよ」


「……だから」


「うん」

 だから、今、私はここにいる。

 熱にすがって、熱が持てるように、

 ここにいる。

 

「…………」

  

 佳奈さんは薄くは笑って言う。


「あの時——私に『空っぽ』だって言葉をかけた、そんな『佐藤綾』のそばに、いる」


「…………」

 

 佐藤彩。 

 僕の義理の姉で。

 心の底から死んで欲しい。

 そんな、僕の姉さん。


「もちろんいるために努力はしてるの。いつだったか、幸人くんに渡した情報だってその一つね。あの子たちのそばにいるためには、あの子たちの役に立たなくちゃいけないから。綾たちにできないこと、できそうにないことのフォローを全力でできるように、頑張ってる。努力してる」

 毎日毎日。

 ほんと、死にそうになるぐらいに頑張っている。


 指し示されたそのスマホに視線を送る。

 

 ……なるほど。

 なんとなく、僕は理解をする。納得をする。

 あの情報の異質性はそこから生じたものだったのか、と、納得をする。

 

 確かにあの情報の質は高いが、しかし、如何せん高すぎるとは思っていた。

 それが……狂おしいほどの努力による産物だと言うなら、納得可能だ。


 きっと、これだけではないのだろう。

 個人情報収集だけではない。


 他にもたくさん。

 彼女はできるのだろう。

 できるようにしたのだろう。 

 熱に寄り添えるように。

 暖かさにすがれるように。

 恒星に——近づけるように。


 でも……それは。


「……うん。それは確かに、とても辛いことよ。辛く苦しく、無謀で無駄で、きついこと。自分が何もために生きているのか、なんのために自分なのか、自分とはなんなのか——それらを見失って、私はもう一年になる」

 そんな人生、ほとんど死んでいるようなものだよね。


「そんなこと、私だってわかってる。誰よりもわかってる深く、深く、わかってる。……でも、それでも、これしかなかったのよ。後悔のしようもない。だってそれしかないんだもの私に取れ得る選択肢はこれしかなかった。これ以外なかった」


「…………」


「だから……これは忠告」

 そして——今日、私がここにいる理由。昨日、私がここに来た理由。


「公演前の忙しい時間の中、最後に取れる自由時間を最後に使って——大事な友人の弟君が壊れるのを見たくなくて——綾の目を盗んでまでしたここにきた」


 佳奈さんは、僕を見る。

 その目に——まだ光はない。


「今すぐ、劇団をやめなさい」


「…………」


「私のようになる前に、私みたいになる前に、早く逃げ出してしまいなさい」


「…………」


「あなたが感じてるその熱を、もしあなたがこれ以上深く知ってしまったなら、きっともう後には戻れない」


「…………」


「もしかしたら……もう遅いかもしれないけど。それでも今よりは酷くならないように忠告として」


「…………」


「それは……きっと、あなたを死ぬまで蝕むことになるから。苦しめることになるから」


 佳奈さんは僕を見て。 


「だから、ね。幸人くん。あなたを思って、もう一度だけ言うわ」


 その表情は、真に真剣で。


「今すぐ——劇団を抜けなさい」


 人のことを思った——濁った瞳の色をしていた。

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