第21話「来ましたよ」
そういえばどうしてこの人が今日ここにいるのだろうか。
そんなことがふと頭の隅によぎったのだけれど、しかしそれ以上思考は奥に入り込むことなく、僕の足はダイニングへ。
手は冷蔵庫へと向かう。
手に取った牛乳パックをそのまま口をつけずに喉に流し込んだ。
とても冷たく冷えたそれは、実感として喉の渇きを得ることができた。
「ねえ」
「何ですか」
「こっちきてよ」
「ちょっとぐらい待ってください」
開けっ放しにしていた冷蔵庫へ、ほとんど空になったパックを詰め込む。
グラスを戸棚から取り出して、手に取った。
そして。
佳奈さんとは少し距離をとった少し離れた位置、足元のカーペットに腰をつける。
「ねえ」
「何ですか」
「こっちきてよ」
「来ましたよ」
「来てない」
そういって、彼女は自分の隣、座っているソファの右をトントンと叩く。
中々の強さで叩かれたそれは、照明の光に当たって埃が舞ったのが見えた。
「こっち」
頬を膨らませ、頬を赤く染め、そしてこちらを鋭く睨んだその顔は、ほとんど反則と言っていいぐらいに可愛らしいものであった。
「…………」
しかしそんな可愛らしい彼女の姿に勝る、言語化不能の『嫌な予感』という抵抗力のせいで、僕の足は重いままだった。
正直、佳奈さんに対してそこまでの警戒は持っていないし、何をされようと抵抗は可能だろうし、だから特段問題はない。
問題はないのだが、それでも、やはり正常な判断能力を失っているであろう人間の近くに行くことに、若干の抵抗があることはもはや本能のようなものだろう。
その頬の朱は、まさか照明のせいではあるまい。
「ねえ」
「はい」
「早く」
「……はい」
とはいえ。
女性には弱い僕である。
女性というか。
まあ特に年上の女性に弱い僕である。
理由は言わずともがな。
僕は黙ってその隣に座った。
少しの抵抗としてその距離を心なし広めにとって。
ソファーに腰をつけた。
口を尖らせてまた、不満げな表情を濃くさせた佳奈さんは、しかし妥協点ではあったのだろう。
特別言葉を挟むことなく、グラスを僕へ傾けた。
「ん」
「……へ?」
「乾杯」
「あ、はい」
ウイスキーとミルクでグラスを重ねるのは流石に初めてだったが、部屋には静かで綺麗なガラスの音が響いた。
佳奈さんは、そして僕を見て笑って。
そしてそのまま中を飲み干した。
「…………」
「…………」
しばらくの無言。沈黙。
その時間はすぐに終わった。
「さっきは大変だったね」
「さっき?」
「優姫にさ。なんか言われてたでしょ」
「……起きてたんですか?」
「寝てたよ」
起きたの。声がうるさかったからね。
「それは……すいません」
「別にいいって。あんなところで寝ていた私が悪いんだし」
と、迷惑げに言葉を出した彼女。
続く言及がなかったところを見るに、その言葉は真らしかった。
「本当、弱くなったなぁ私。まさか優姫の前で潰れちゃうなんて、もう不覚としか言いようがないわよ。……ねえ、あの子私に何かしてなかった?」
「……えっと」
僕は思い出す。
先ほどの。
三枝優姫とした会話を思い出す。
…………。
「はい。何もされてませんでした」
僕は嘘をつくことにした。
「本当? ならよかったんだけどね。いやあの子、最近だいぶ溜まっているらしくてね。綾とか私へのアプローチがもう半端ないのよ、昨日だって別に呼んでないのにここへ来たわけだし」
「はあ」
「今、私がここにいることなんて綾にだって言ってないのよ? 貸してもらったスペアキーでこうして黙って勝手に入ったぐらいなんだし。なのにさらっとここにやってきてさ。ほんと発信機でもつけてんのかってぐらいよ」
「それは……確かにすごい執念ですね」
と言うかさらっと犯罪告白されたんだが、これって通報とかしたほうがいいのだろうか。
えっと……119だっけな。
「消防車呼んでどうするのよ。そして、何も犯罪はしてないわ。言ったでしょ、あなたの姉に借りたのよ」
「だからと言って誰もいないのに人の家へ入りますかね」
「自由に使っていいって言われたんだから、それは別にいいでしょ」
「まあ……姉さんがそう言ったならいんですけど」
『同居人の承諾なく他人に家の鍵渡すのはどうなのか問題』が今生じたんだけれど、これはまたいつかの家族会議に議題として出すことにしよう。
佳奈さんは続ける。
「でまあ、さ。だから、私が酔いつぶれて死んだ格好のままだったわけだし、一緒にいたのは、そんな肉食獣だったし、というわけで、ね。胸のひとつでも触られてたのかと思ったの」
「…………」
まあ、僕がここに来た時にはもうすでに潰れていた佳奈さんと、それを今にも襲わんとしている三枝さんの図がここにはあったわけで。
だから実際のところ三枝優姫がどのような犯行をしたのかは僕の預り知るところではないし、実際彼女の指が佳奈さんの胸部に埋め込まれている現場を押さえてもいるのだが、しかしここでそれを言うことに一体何の意味があるだろう。
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