第19話「……え、ちょ……え?」

 

「——早かったね」


 と、家に帰ってきた僕をリビングで出迎えたのは三枝優姫だった。

 その手にはスト缶。

 僕が苦手な酒だった。

 昔からもよくあったことだが、佐藤家に姉がいないことはほとんどデフォルトで、反対に姉の友人や知人が代わりに家を占拠している状況がほとんど普通……みたいな。

 そんな暮らしが長いからだろう。 

 今更、三枝優姫がこの家に上がり込んでいても特別違和感は感じなかった。

 そして。

 正確に言えばもう一人、リビングには人がいて、しかしその人が僕を出迎える言葉は特になかった。

 どうやら……酒に弱いのは本当らしい。


「佳奈さんも来てたんですね」


「もう寝ちゃってるけどね」

 この人が私を呼んだのにね。



 顔は昨日見たよりもだいぶ赤く染まっている。

 机に投げ出すようにその体を投げ出している無防備な佳奈さんを小突くようにして、三枝さんは笑う。

 その指がかなさんの胸部に沈んでいたことには目をつぶった。


「なんかやめてほしくないんだってさ。劇団。私に」


「……そうですか」


「ん? どうしたの? 昨日みたいにお話しようよ。お酒だってまだ……って、あ、全部飲んじゃったか」


「…………」


「じゃあなんか買いに行こうよ。佳奈さんつぶれちゃって寂しかったんだ。幸人くんも一緒に飲もう」


「いや……ちょっとやることあるんで」


「なにさなにさ。やることってなにさ。絶対大したことじゃないじゃんさ」


「いや、ほんと……お金とか、道具とか、あと色々連絡することとかもあるんですって」 

 

「連絡? え、なにそれ、劇団のお仕事?」


「えっと、まあ……はい」 

 

 他にもやることはたくさんある。

 こうして言われないと動くことのできない自分のていたらくにも腹がたつが、仕方ない。

 今は自分にできることを果たして明日を迎えるだけだ。


「いいじゃんそんなの。どうせ今更成功なんてしないんだし」


「え?」


「私が抜けて、残り二人になって、仲も最悪でさ。加えてその長は素人丸出し、面白みの一つだってなにもない男の子なんだもん。それを一ヶ月程度で一体なにをどうやるっていうのさ」


「……え、ちょ……え?」


「どうせあの意識高い系にでも何か言われたんでしょ。それともオタクくんかな」

 

 表情も変えず、笑顔のままで言葉を並べる三枝さん。

 反対に言葉の棘は何処か増しているように思える。


「むしろ一ヶ月やそこらでなんとかできると思っているのが馬鹿らしいよ。演劇なめすぎ。バカにしてんのかって話だね」


「…………」


「劇ってのはさ。少人数じゃできないものなのよ、それも、本気で何かに夢中になれるやつか、はたまた本物の天才か、それ以外が立ち入っちゃいけない場所なんだ。まあ、私はありがたいことに後者だったから、こうしてのらりくらり生きてこれたけどね。でも、才能もない上に、熱量もない。ろくに計算もできないようなそんな男がいきなり団長をやれる甘い世界じゃないよって話」


「…………」


「あ、でも、別に君のことを責めているわけじゃないからね。この点に関しては、ほとんど悪いのは綾さんだと思うからさ」

 

「姉さん……?」


「うん」 

  

 目を見開いて、深く頷く。


「——こんな面白みのかけらもない子に無理難題押し付けるなんてさ。ほんとどうかしてるとしか思えないよ」

 

 悪気は……きっとない。

 そしてまっすぐ剥かれたその視線は痛いほどに僕の中に入り込んでいった。 

 

「どうせ綾さんからもう聞いてんでしょ? 私の噂……っていうか手グセの悪さ」


「……噂、って」


「別に隠しているつもりもないからいいけどね。多分全部本当だしさ」


 その半分ほどに色ついた水が注がれているグラスを少し傾けて口につけた。

 その唇はひどく妖艶で酔いそうだった。


「そうだ、ついでに暴露しちゃうけど。昨日、私がここに来た理由は別に謝罪とかじゃないんだよね。そんな気持ち微塵もなかったんだ。ただ、佳奈さんと綾さんが一緒にいる部屋で酒が飲めるっていうからわざわざここまで来ただけ。うまくいけば三人で出来るかもなんて思ってもいたしね」


「…………」


「そしたらさ。なんか噂の弟君も来るからって聞いて〜。うお、まじか、ワンちゃんこれ四人対戦じゃね? 朝までコースじゃね? 久しぶりのテンアゲ状況じゃね? なーんて思っちゃって。そしたらちょっとテンション上がりすぎちゃってさ。思わずペース上げて飲んで、騒いで、飲ませて、飲んで、飲んで、飲んで。……そしたら潰れちゃった」

 ほんと、酒ってのは怖いね。私結構強いはずなのに。

 

 言葉が流れる。セリフが聞こえる。

 その意味はわかるのに、しかし頭がそれを受け入ろうととしていない。

 そんなことが感覚的にわかる。


「……で、朝になって起きたら隣で半裸綾様が寝てるわけよ。私結構後悔しちゃってさ。隣にあんな美女を寝かしておいて私が何もしないなんてちょっと勿体なさすぎって話じゃない?」


「もったいない……」


「もったいないでしょ。君だって綾さんに似て顔だけはいいみたいだし、佳奈さんも事務職にするにはもったいないぐらいの美人だよ。もしまたその状況がもらえるなら私は三億円だって出すね。……あ、ちなみにこれ今の私の全財産。あ、血は繋がってないんだっけ? まあどっちでもいっか」


「…………」


「あれ、引いちゃった? ごめんね。これが私なの。それとも金額に驚いた方かな?」


「いや……それは別に」


「そっか。じゃあ続けるね」


 机の上にあるグラスを口に含み直して彼女は言葉を並べなおす。


「どこまで話したっけ。……ああ。そうだったね。私が酔い潰れっちゃったところだったよね。うん、そうだったそうだった。……まあその後よ。起き出した私は結構な二日酔いで頭抱えてしばらくうずくまってたんだけどさ。そしたらなんかちょうどその頃に二階から物音が聞こえて。あ、弟君帰ってきてたんだなんて思って。で、手ぶらで帰るのも嫌だったから、その弟くんとやらの味見をして帰ろうってさ。あんな格好で風呂場にいたわけよ。わざわざあんな性格まで作ってね」

 髪だって洗面台で慌てて洗ったし。


 三枝さんは、口角をさらに上げて。

 頬の肉を上にして。

 エクボを作って。


 しかし——目だけは変わらないままで。

 

 続けた。 


「でも——さ。正直会って話してみて、がっかりしたってのが本音かな。つまんないってのが正直なところだと思う。別に何か熱いものがあるわけでも面白いものを持っているわけでもない。何もない。ただの一般人。普通の人。正直、綾さんが君の何に惹かれたのか全く見当がつかないよ」

 

 そこまで語って、三枝優姫は立ち上がる。

 その表情は未だ変わらない。

 むしろ少し笑顔の経路は増えたような気がした。

 それでも——その影は濃く見える。


「何度も言うけどさ、別にあなたのことが嫌いってわけじゃないんだよ。ただ興味が毛ほどだってないってだけの話だから」

 だから——


「だから、私、昨日君に『やめる』って言ったんだ。こんな人の下で音楽作るのだけは嫌だなって思ってね」

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