第16話「いや、僕が聞いているのはそういうことではなくて……」
中途半端な時間と日取りだからか、一応の都内であるこの通りに人通りは少ない。
だから、何か特に邪魔立てされることもなく、スムーズにここに至ることができた。
それでも、体感的に意外と遠かった印象が強いのは、きっと僕の気分と、この場所の縁の薄さが理由になるだろう。
大きめの看板には、地名と『レンタルスペース』の文字が並ぶ。
記念すべき第二劇団初の練習場所がここだった。
と言うか公演当日までの練習場所として姉があてがった場所がここだった。
ちなみに日取りと場所はグループにしっかりと連絡している。
あれから——彼女と彼に会ってから、まだ一週間しか経っていない。
姉からは
——力を貸せるのはここまで
と、また、割と真剣な感じでメッセージが飛んできた次第である。
姉も第二劇団が出演する公演と同じものに出るらしく、これから一週間ほど帰ってこないようだ。
そのせいか、雰囲気がいつもと違って、少し態度が尖って見えた。
……なんだろう。最近の姉は。
少し調子が狂う。
あんな感じは、なかなかに見慣れない。
やはり——好きなものというのは人を変えるのかもしれない。
好きが人を変えて、魅力的にさせることができるのかもしれない。
熱中するとは、いったいどんな気分なのだろう——。
いつか、
いつの日か。
そんなものに、僕も出会えるのだろうか。わかるのだろうか。
ということで。
そういうことで。
なんとなくのらりくらりとここまで適当にやってきたわけだけれど、本番まで残り一ヶ月もないというなかなかにハードな現実は消えて無くなることもなく。
割と、真剣にやらないとまずい状況だ。
今までは一応弱みを握られ仕方なく——という建前の元ではあったのだけれど、しかし今はそれ以上に姉の言葉の真意を知りたかった。
一体どうして僕なのか。
その答えを探りたかった。
しかしまさか、ただ聞いただけで答えが返ってくるとも思えない。
だから——まあ、僕の選択肢は自然と一つしかないわけなのだが。
で。
先の指示通り、できることをやれなどと言うアバウト極まりないご命令を授かって、そしてそれなりに仕事はこなしてきたつもりだったのだけれど、しかし未だ僕自身がいったいどんな能力を持っているか全く把握できていないその時点で、それはほとんど何も指示されていないのと同義だろう。
以上を頭の隅に考え置きながら、階段を登り終える。フロントに着いた。
どうやら……もう既に来ているようだ。
やる気のない店員からその部屋番号と大まかな場所への案内を受け、僕は指定されたその階と場所に足を向ける。
なんとなくカラオケに近いその様式は、しかしはるかに異なる部屋面積の大きさから、それとは違うことが理解できる。
今すれ違った人や部屋の隙間から見える影を伺う限り、どうやらその用途としてはバンド活動や会議室、はたまた塾の指導などにも使われているようで、非常に多様だった。
部屋は最上階。
扉を開けた。
「——遅いですよ。時間はしっかりと守ってください」
真ん前に広がる鏡のせいだろうか。
やたら部屋が広く見えた。
その左隅の方。
台本を片手にパイプ椅子に着席している彼女を見るのは一日ぶりのはずなのに、なぜかそれが少し久しぶりに感じられる。
僕に視線を一瞬だって向けていないことも起因しているのかその表情は変わらず真剣で色合いがなく、人間味の欠けたものだ。
僕は軽い会釈と一言だけの謝罪で場を済ますと、反対側に目を向けた。
「…………」
あいも変わらず目深にかぶったフードの彼も、これまた変わらずPCに何かを打ち付けていて、その様子は先日と大差ない。
もしそんな変わらないものの中で特別変変化していることに言及するのであれば、まず一番に挙がることに彼と彼女、一条凛と小柳千尋の距離感がものすごいことがあった。
いわゆる精神的距離感みたいな、そんな生易しいものとは全く異質の、
しっかりと示された部t理的な距離感である。
なんだかもう……お互い露骨すぎないかと言わんばかりに離れている。
小柳くんは僕から見て左隅の方に地べたに座りつつ猫背でタイピングを繰り返しているだけでここまで僕に対しても何一つ行動は返されていないし、一条さんに至ってはそのパイプ椅子が向く方向からして彼への明らかな拒否が見て取れる。
しばらくそんな状況を眺め、考える。
……そうだった。この問題が残ってた。
忘れていたわけでいたわけではなかったのだが、それでもやはり、見てみないふりをしていた。
僕だって人間だ。
精神安定上、こんな地雷原のことなんか一瞬だって考慮の中に入れたくない。
見て見ぬ振りぐらいする。
むしろ生物としては正常で懸命な判断だろう。
まあとはいえ、その問題がこうして目の前で顕在化している中、何もしないというのは流石にない。
この解決がまず僕が最初にやらねばならないことのはずだ。
と、また少し考え、決意を固め、そして、まだ一応の会話が通じそうな方に近づく。話しかける。
「あの……すいません。ちょっといいですか」
「はい、なんでしょうか」
「どうしたんですか、これ」
「どうした、と聞かれましても」
視線は未だ台本の上で未だこちらを見ることすらしない。
「私はただ、綾さんに言われた通り、指示通り、稽古場所のここにきて、ただ座って次の命令を待っているだけです」
「いや、僕が聞いているのはそういうことではなくて……」
「ただ——私よりも早くそこに害虫が来ていたので。最初はここに入るのも躊躇してたのですけどね。それでも綾さんからの指示に従わないわけにもいかないです。だから、こうして、嫌な気持ちを押し殺して我慢して、苦肉の策として、目を腐らせまいと背中を向けているわけです。……何もおかしなことはないでしょう?」
「…………」
おかしなことがあるかないかと聞かれれば、それはもう認識から言葉のチョイスにかけて全てがおかしいとしか言いようがない一条さんではあった。
なんだっけなこの人。
最初会った時に感情が死んでるとかドヤ顔で言ってたような気もするけど、あれはどうやら僕の気のせいだったみたいだ。
めちゃくちゃ怨念残ってる。恨み骨髄だ。
前から思ってましたけど、
あなたしっかり人ですよ。
ロボットどころかむしろ普通に人間寄りの人ですよ。
まさかそんな言葉をかけれる雰囲気ではないことぐらいには一応空気の読める僕は、とりあえず作った安い笑顔と「そ、そうか」なんていうありふれた言葉をかけるだけにして、その場を後にした。
……だめだ。女子怖い。
とにかく彼女からその和解を切り出させるのは難しそうだ。
ということで狙い変更。
その隣に数歩歩いて、後ろから近づく。
そーっと覗き込むようにしてパソコンを見た。
『死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね』
……が、だいたい数十行。
延々と長々と、そして現在進行形でも書かれていたその早すぎるタイピングを見た時点で僕は目の前の生物とのコミュニケーションを諦めた。
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