第7話「いません。いたこともありません。いるはずがありません」

 駅から家までが遠く感じる。

 まだ夕方に差し掛かったばかりだというのに、いつも見ているはずの帰り道が心なしか暗く見えるのは、きっと天気のせいだけではない。

 重い足を前に進めながら慣れ親しんだ家の前にたどり着く。

 鍵は……開いていた。

 というより、開けて出て行ったことを思い出した。 

 佐藤家では誰かがいるときは鍵を閉めなくていい、なんていうのがルールで暗黙にしてある。

 僕は重みのない扉を開いて玄関に足を入れた。乱暴に靴を脱ぎ捨ててる。


「……ん?」

 

 違和感を感じた。

 何か……いつもと違う。

 足を止めて光景を再び視界の中にとらえ直す。入れ直す。

 すぐにわかった。


 視線は下。

 廊下に上がる前の玄関に置かれる靴。並べられた靴。

 それが明らかにおかしかったのだ。

 数が、二つ。

 革靴とサンダル。それぞれ一つずつ。


 そこにはあった。

 サンダルの一つは間違いなく姉のだろう。


「身に付けるもので考える時間奪われるって、あまりにも下らないって思わない?」


 とかなんとか。

 いつだったかのそんなセリフを想起する。


 余談ではあるが、姉はファッションというジャンルにおいて無頓着な人間だった。

 まず一つとして、彼女はこのサンダル一つ以外に普段靴を持っていないし、二つとして、服に関しても彼女は黒のジーンズと黒のTシャツしか着なかった。


 まあこれまたどうでもいい話なので聞き流してもらって結構なのだけれど、ちなむと僕の靴は三足ある。

 きちんと靴箱に、靴箱の中に三足。

 今履いている靴の他に、三足。

 きちんと並べて置いてある。

 玄関が特別狭いとか、各人一足以上の靴を放置してはいけないとか、靴は靴箱に入れなければならない暗黙ルールがあるとか、そんなよくわからない決まりがある分けでなく、ただ単、玄関に並べていると、姉が勝手に履いて行ってしまうから僕は自分の方を避難させているだけだ。

 大体、姉に履かれて帰ってきた靴たちはこのサンダルのように見るも無残な姿で返却されてくる。

 いつだったか。

 明け方に僕のブルーのスニーカーを履いて行った姉が、そして帰り際の夕方にピンクの革靴に変えて持って帰ってきたこともあった。

 もちろんそんなものを無個性という武器で大衆に迎合して久しい僕なんかが履けるわけもなく、泣く泣く僕は自らのスニーカーを諦めた次第だった。


「……これ、誰のだ」

 

 ということで。

 僕は普段見ない『我が家の玄関に靴が二足以上並んでいる』という光景に、僕はなかなかの違和感を感じたのだった。

 脱ぎ捨てられたサンダルとは反対、丁寧に並べられているローファーは見覚えがない。

 

 友達、か?


 耳をすます。

 微かに誰かの会話の声が聞こえてくる……気がした。

 その主な語りは確かに姉のものだが、しかし時折聞こえてくる相槌の声は姉のものとは違う高さの声。


 恐る恐るリビングの扉を開く。


「あら、お帰りなさい」


「……姉さん」


 リビングには半裸の女性と普通の女性が一人ずつ。

 言わずともがな、前者は姉だった。

 その手にはウイスキーのボトルが握られていて、その中身はほとんどはもう空だ。


「ずいぶん早かったわね。問題なかった?」


「うん、まあね」


 初顔合わせの場、公園まで残り一ヶ月という状況にある劇団の会議で、三人のうちコミュニケーションに難がある変人二人が早速絶縁状態になって、残り一人はその姿すら表さなかったまま、次回の集合時間も連絡先の交換も満足にできることなくその場で自然解散してしまった、というさっきの展開を『問題ない』という表現に片付けてしまうことはとても強く抵抗を覚えてしまうけれど、しかし今更ここでそんなことを論ったところで何が変わるわけもない。

 ということで簡単な言葉と頷きを返しただけの僕だった。

 とにかく今はそんなことより――


「…………」


「どうしたの幸人? 黙って佳奈見て」


「いや、その……」


「ん? ……ああ、そっか。幸人と佳奈って初対面だったわね」


 納得がいったような顔をした姉。

 煽るように傾けたそのボトルの残りを口に含んで飲み干した。


 そして……僕の視線の先にいる『佳奈』と呼ばれた女性が顔だけをこちらにゆっくりと振り向く。

 グラス片手に口をつけながら、片手を後ろにつきながら。

 こちらを向く。

 ショートヘアの髪が細かに揺れて切れ長に光る目が見えた。

 あまり強くないのだろう。その顔はどこかほんのり赤い。

 それだけで、僕は彼女に親近感が湧いた。


「あれ。そういえば何であなたたち初対面なのかしら。私、今まで結構、あなたとは家で飲んでいたと思うんだけど」


「まあ確かに宅飲みはしてたけど、それだいたい私の家じゃん。綾の家で宅飲み自体は結構珍しいよ? だいたい半年に一回とかぐらいだし」


「あら、そうだった? じゃああなたが来たのって今日合わせて三回ぐらい?」


「そんなもんかしらね。よく覚えてないけど。でも、確かなのはその三回とも、幸人くんは家にいなかったわね」


「……だっけ?」


「とぼけんなって。あんたが頑なに幸人くんがいない時しか私を家呼んでなかっただけでしょ」


「あーなるほど、そう言われれば確かにそうだった気がするわ。まあでも、だったらそれは至極当然の話よね。幸人に変な虫がついたら困るもの」


「変な虫って……。うち、あんたと友達やってもう結構経つと思うんだけど」


「だから、よ。私と長い期間友達ができるということは、その分私に近しい性質を持った幸人とも、十二分にうまくいく可能性があるということだもの。そんなの、当たり前に要注意人物判断をせざる得ないわ」

 

「でも、綾たちって血繋がってないんでしょ? それに、姉弟関係だって中学からって話じゃん。だったら別に綾と幸人くんの感性が似てるってことは、そうもないんじゃないの?」


「それを言われてしまうと血縁関係にまつわる面倒な話が結構続くからぜひ遠慮したいのだけれど。……てか、なんであなたが佐藤家の血縁関係を把握してるのよ。怖いわね。なに、あなたも私のストーカー?」


「んなわけ。あんな変態みたいなのが二人も三人もホイホイ現れてたまりますか」


「そりゃそうだ」


「血筋の話は、えっと……去年ぐらいだったかな。今日みたいに二人で飲んでる時にあんたが言ってたのよ」


「あら、そうだったっけ。あまりに記憶にないのだけれど」


「うちがあんたのブラコン具合を見かねて忠告して注意して、しつこくしつこく忠告して。そして、なんかいきなりブチギレたすごい剣幕であんたが言い返してきたのよ。『血は繋がってないからあなたの心配することにはならないし、問題ないし、私はあの子と結婚するし!』って」


「改めて、記憶にないわね」


「都合がよろしい記憶力であられますことで」


「むしろあなたがよくそんな細かいところまで覚えてるわね。なに……本当に私のストーカーなんじゃないの?」


「いやまあストーカーではないけど……でもまあ残念なことにうちは多分あなた以上にあなたのことを知ってるかもね」


「……なに、そのドラマみたいなセリフ。今日はもう演劇はいいわよ」


「違うって。別に私は役者もやったことないし。そうじゃなくてさ。単にうちはあんた以上にあんたの面倒を見させられているんだって話よ」


「面倒?」


「昨日なんか、ついにうちはあなたの生理周期を把握させられたわけだし」


「え、なにそれ怖い」


「言っとくけど嫌がる私に無理やりルナルナを同期させたのはあなただからね?」


「ちょっと記憶にないわね」


「その誤魔化し方ちょっとずるすぎないかしら?」


 そんな言葉を一つと息を一つ。

 ゆっくり挟んでグラスを傾けた。

 先に話した姉の口が開く。


「うん、まあでも確かに——」


「……ん?」


「運営とか経営とか生理とか……そう言った面倒なことは今後一生全部佳奈にやってもらえばいい、なんて思っている私がいることは否定しないわ」


「やっぱうち、あなたと友達やめるわね」

 

「…………」

 ……。


 なんとなく。

 僕以外と会話をしている姉の姿というものが新鮮すぎて新しすぎて、だからこうやって立ち尽くしたままに話を聞き入ってしまったわけだけれど、それだけでもなんとなくの理解できた。

 状況を掴めるだけの情報はわかった。


「——と、ごめんね弟君。置いてけぼりみたいになっちゃって」


「あ、いえ。そんな別に」

 

 その人は丁寧に振り向いて僕に笑いかけた。


 よっと

 と、言葉を吐き膝を立て立ち上がる。

 

「自己紹介がまだだったよね。——私は、佳奈っていうの。昔は綾と同じ大学で同じ部活で、今は劇団の同僚」


「あ、ご丁寧にどうも、です。僕は……えっと——」


「佐藤幸人くん、だよね。……ああ、ごめんね。さっきの会話からも分かる通り、私、綾から結構君のこと知っちゃってるの。だから自己紹介はいらないよ」

 にしても……

 と、にこやか笑顔を爽やかに向けて、彼女は続ける。


「さすが、綾の弟ね。血は繋がってないにしても、こうも似てくるものなのね。意外だな。えっと何かな、こういうのって。オーラっていうか、雰囲気っていうのか。……ねえ、君、結構モテるでしょ?」


「そんなことは……はい。全然です」


「またまた〜。そんなこと言っちゃって、そういうの、お姉さんには分かるんだぞっ。ねね。今まで何人ぐらいに告白された? 彼女はどれぐらいいたの? 言ってみなさい? ね? ね?」


 と、今度は小悪魔的にいやけた表情になって佳奈さんは笑った。

 しかしその中性的な顔立ちは変わらずとても整って、非常に清涼感にあふれている。

 口元から覗く白い歯と、細かに揺れるショートヘアもあいまって……なんというか、本来受けるべき印象は『うっとおしい』はずなのに、どこかとても爽やかで気持ちが良かった。


「——それ以上近づいたら殺すわ」


 冷たい時刻から鳴り響くような声が、下……ではなく、横から突如聞こえてきた。

 怒髪天という表現が一番正しいだろう。 

 酒による赤みを含んだその顔は、もはやほとんど鬼のようにも見える。

 ただでさえつり目がちな、そのまなこが一層釣り上がって、開かれて、僕を睨んでいた。


「そんなことのために私はあなたを今日、ここに呼んだんじゃないの」

 わかってるでしょ? 


 と、今度は佳奈さんに向かってその視線をそのままぶつけた。

 肩を竦めるようにしてその言を受け入れた佳奈さんは座った。

 佳奈さんを見つめた姉の視線がゆっくりと僕に向き直る。

 開かれた目のまま僕を見る。


「あと……幸人に彼女なんているわけないじゃない。あんまりいい加減なことを言うのはやめてもらえるかしら」


「……いや、ちょっと待ってよ姉さん」

 その言葉を挟んで遮った僕。


 まあ、一応ね。

 僕だって戸籍上は男な訳で。

 つまりプライドの一つや二つぐらいならある。

 だから当然、そんな名誉に関わることを公然と、平然と、まだ会って間もない女性の前で言われて、ただ黙ったままで入れるほど、僕は大人しくもないのだ。


「なにかしら」


 姉は変わらずの表情で僕を見つめる。


「勝手に決めつけないで姉さん。僕だってもう二十歳だよ? 彼女の一人や二人ぐらい当たり前にいたって——」


「——いないわよね?」


 言葉が遮られる。圧で押し切られる。


 ……あれ、おかしいぞ?

 いきなり声が出なくなった。


「…………」


「いるわけないわよね?」


「…………」


「いたことも、ないわよね?」


「………………い」


「ん?」


「いる……って言ったら?」


 視線を微かに向けつつ、僕は彼女の言葉を待つ。

 おかしい。何故か足の震えが止まらない。


「……そうねぇ」


 少し考えるように頭に手を置いた姉。

 時間は数秒ほどで足りたらしく、その手はすぐに下された。


「まあ、幸人もお年頃だし、ね」


「…………」


「いてもいいとは——思うわよ?」


「…………」


「……でも」


「……でも?」


「でも——その場合、相手方の住所を教えてほしいかな」


 そういって姉は目を細めて笑った。

 僕は尋ねる。


「…………えっと」


「ん?」


「それは、つまり、えっと……」


「うん」


「どうして……でしょうか?」


「別になにもしないわよ?」


「…………」


「ただ……ちょっとご挨拶に伺うだけ」


「……それは」


「ああ、大丈夫。別にそんな心配しなくても、私、お礼参りなんかしないわよ」


「……ほ」


 少し安心。


「そんなもので済ませるわけがないからね」


「…………」


 綺麗に上げて落とされた。

 いや、まあだいたい予想はしてたけども。


「じゃあ……もう一回聞くわね?」


「…………」


「あなた、彼女なんていないわよね?」


「…………」


「い・な・い・わ・よ・ね?」


「はい、いません。いたこともありません。いるはずがありません」


「ふふふ。……でしょう? お姉ちゃんは正直者の幸人が好きよ」


 笑い微笑み、いつの間にか僕の背後へとやってきた姉は、ゆっくりと僕を抱きしめた。

 温かくて柔らかいはずのその感触を、どうしてか僕はうまく感じることができなかった。

 プライド? なにそれ、美味しいの?


 横目を向ける。

 依然、変わらない様子でグラスを傾けている佳奈さんがこちらを見ながら笑っている。

 一体彼女の目には目の前のこの光景がどう映っているのか、僕はそれがとても気になった。

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