第3話「言ってないです」

「ねえ。幸人」


「……なんでしょうかお姉様」


「男の方が少なくて、女の子がみんな可愛いくて綺麗」


「…………」


「そんな組織……。あなた、興味はない?」


「ないです」


「ほんと? みんな可愛いわよ?」


「全くないです」


「さっきと言ってること違うんじゃない? ロマンとか夢とかほざいていたじゃないの」


「言ってないです」


「ああ、そう。そっか。ふーん。そこから誤魔化すの。……わかったわかったわ、仕方ないわね」

 

 姉はまた、ゆっくりとその力を込める。言葉も込める。

 また一段と息苦しくなった。


「話を戻していいかしら」


「……え?」


「うん」


「戻すって……」

 えっと……どこにだろう?


 あなたにお願いがあるの——のところかな……。


 そんな風に考えを馳せ、言葉とともに問いかけるも、しかし姉は首を横に振った。


「違うわ。もっと、前」


「……前?」


 再び思考をたどる。巡らせる。

 ……しかし、思い当たる節がなさすぎた。


 だから当然無言になってしまうが、しかし彼女はそれを大分勝手に、好きに解釈したらしい。


 姉は深く頷いてみせた。

 

「じゃあ早速——」


「…………」


「私があなたのオムツを替えたことがある——という話に戻すけど」


「今僕すごくびっくりしているんだけど、それはとても仕方のないことだと思うんだ」


 まさかそんな話がここまで生きていたことにも驚いたし、何より改めて姉から出てきた言葉の羅列が凄まじすぎる。

 間違いなく今、僕の脳はショックで正常に動いていない。

 

 避難の声もしかし姉には届いていないようで、「ふふふ」という怖い笑い声が細やかに聞こえるだけだ。


 ……いや、マジでなにこれ。

 僕は一体この後、何を語って聞かされるのだろうか。

 

 そのまま姉は続ける。


「私があなたのパンパースを変えていたという話をした後。確か……あなたは疑いの言葉をかけたわね?」


「……いや、疑いっていうか」


 嘘だ、そんなわけないと、僕は言ったのだが。

 てかたちの悪い冗談に決まってる。


 何度も何度も繰り返して言うように、僕と姉は義理の姉弟である。それも期間は中学一年以降。

 さらに言えば年の差も半年ほどしかない。

 そしてオムツというのは基本的に対象年齢は五歳以下を想定して作られているもので、当然、着用する期間は幼少期のはずで。

 そして幼少期に僕と姉はまだ他人同士であり、さらに僕がパンパースを履いていた時には、この姉だって当然オムツを愛用していた年のはず。

 つまり、姉と僕は互いに相手にオムツ姿を目にすることが叶わない関係性なのだ。


「まあ、そうよね。確かに論は通ってるわ」

 それだと確かに私はあなたのおしめを変えることはないし、それを見ることもできないし。


「だろ? ……と言うかなんでこの話を引っ張るんだよ。あれは一時の場当たり的な冗談でしょ。話なら別のを——」


「でもね、幸人」


「——っ!」


 と、この角度体と顔を見ることもできないはずなのに、しかしその姉の口が三日月のように、上弦のように、ゆっくり、にたりと笑ったことがわかった。

 感覚的にわかった。


「それはあくまで『幼少期』だったら……という仮定の話でしょ」


「…………?」


「対象年齢、ねえ。でも実際的にオムツを履くのに年齢制限はないわ」


「……まさか」


「さっきも話したじゃない? 昨日の話。昨日のあなたの惨状の話。覚えてる? 私忘れちゃったんだけどさ。……あれ、そういえば幸人さんは何をしていらっしゃったんでしたっけ」


「ね、姉さん?」


「覚えていませんか? あなたが家に帰ってきて、私が家に帰ってきて」


「……待って。少しだけ待って」


「その後家にあったテキーラを結構飲んだわね。美味しかったからよく覚えているわ。……で、その後に色々二人でしたわよね」


「ちょっと、ねえ待って、ねえ、一回落ち着こう。一回待とう」


「落ち着くのは、まあそれはそれで別にいいけど……でも幸人。あなた……いいの?」


「……え?」

 

 そう言った姉は笑った。


「そのまま落ち着いちゃって、視線を下に、下半身にやっちゃって——それで本当にいいのかしら?」 


視線を僕の下に向けて、微笑んだ。


「昨日一体……何があったのか? 詳細に、事細かに、詳しく、鮮明に、聞きたかったり……しないかしら?」


「…………」


「そうね。何だったら呟いちゃうのもありかもね。昨日の私との——『逢瀬』の時間を、さ」


「…………」 



 …………。

 ……………………。 



「ということで本題に入りましょう」


 …………。


 ほとんど半泣きのまま、おむつを着用しつつ、義理の姉に肩を抱かれて首を絞められている男に、はてさて一体どんな権利があると言うのか。


 つまり僕は黙って首肯を繰り返すだけだ。


「私があなたにお願いしたいのは——劇団の運営よ」


「……運営?」


「ええ」


 僕の声に上機嫌な調子で言葉が返ってくる。


「私が劇団をやっているのは知っているわよね? その数が結構な規模になってきたことも、知名度が上がってきたことも」


「……まあ」

 人並みには、ぐらいのレベルだけども。


 だいたい百人ぐらい……だと聞き及んでいる。 

 それが劇団としてどれほどの規模なのかは僕の預かり知るところではないけれど、それでも決して少なくはない数なのだろう。


「そうね。まあ多いか多くないかは質の問題もあるし言及はしないけれど、でもだいたい人数だけで言えばそれぐらいよ。お金も結構集まってるし。スポンサーだってまだいくつかのところから声かけてもらってるしね」


「……へえ、すごいね」

 ほんと、すごい。

 

 と僕は心の中で反芻した。


「別に何も凄くなんかないわ。私は自分の好きなことをやっているだけだもの」


「そっか」


 これ以上この話題を続けたくもなかった僕は、話を前に進める。


「……で?」 


「ん?」


「何、お願いって」


「あら。聞いてくれるの?」


「聞かなきゃ多分僕は死ぬからね」

 身体的に且つ、社会的に。


「馬鹿なこと言うのね。お姉ちゃんが大好きなあなたを殺すわけがないでしょ」


「なるほど、こうやって人殺しは起きるのか」


 一つ勉強になったが、しかしできれば被験者ではなくそれを知りたかった人生である。


「では、聞かれたから言うけども」


「聞かれなくても言っただろ」


「とにかく、ね。劇団が思ったよりも大きくなって、多くの人を受け入れるようになってきたのよ」


「うん」

 さっきも聞いた話だ。


「で……まあ選抜とかもするようになるんだけどさ。それでも劇に興味がある人ってのは、何かしらおかしいところがある人が多いから。だから、やっぱり色々で様々で多種で多様で個性的な人種が集まってくるわけよ」

 

「ふむ」


 それはまあ、わかる。

 こうして真後ろにいる狂人は劇団を作るに至ったわけだし。


「それでまあ……これはどの組織にだって言えることだとは思うのだけれど、そう言う個性的な人間が集まるとね。やっぱり確執だったり衝突だったり……そう言う不協和音がどうしても起こってしまうものなのよ」


「ほほう」


 それもわかる。

 スポーツでも有名スター選手だけを集めたチームが必ずしも上手くいくことのように、個性的な人間というのは集まるとなかなか難しい。

 それも……志と夢以外の多くを持っていない若人の集団であれば、それはなおの事だろう。


「その中でも選りすぐりに、個性的で協調性もなくあまりに集団生活に向いていない人間三人がいて……。ほら、組織とかで煙たがれていろいろなところをたらい回しにされちゃいがちの子とか、いるじゃない? そういう子たちっているじゃない?」


「まあいるよね」


 よくわかる。

 頻繁に聞く話だ。

 僕の入っていたサークルにも、まま一定数そういう奴はいたので、きっとよの集団行動というのはほとんどそういうものなのだろう。知らんけど。


「私ってほら。昔の自分見てるみたいでさ、あまりそういう人たちのこと放っておけないのよ。……で。昨日の飲み会の時に結局また新しくあの子たちのために劇団を作ることにしたのね」


「ふむふむ」


 それも……わかる。 

 この場合、その名称は第二劇団……というのだろうか。

 とにかく面倒な人間を一箇所に集めて処理をしてしまうという発想は社会においてありふれて当たり前なものである。

 第二営業部とか。第三技術部とか。

 世に溢れて久しいものばかりだ。


 そして、それに姉が感情移入してしまうのだって理解できる。

 風に流れ聞いた噂話がすべて本当だとは思っていないけれど、それでも姉が集団生活を不得意にしていたエピソードを三桁ほど簡単に思い浮かべることができる僕からしてみれば、それは当然のシンパシーと言えた。


「だからね幸人」


「うん」


「あなた、そこの団長やりなさい」


「あれ、いきなり訳がわからなくなったぞ」


 なんでだろう。

 文脈も言語も声も音も、それらすべてが聞き慣れたもののはずなのに、しかし言葉が頭に全く入ってこない。

 理解ができない。意味がわからない。

 何を言ってるんだこの姉。

 何を言ってるんだこの人。


 そんな風に言葉を尽くして、心を尽くして、遠回しに姉の頭具合の心配を申し上げつつ不平不満をのたまったわけなのだけれど、しかし忘れていたが僕は姉に生殺与奪権を奪われている身であるのだった。

 だから、当然拒否権なども僕の元にはないわけで、その首はまた一段ときつく締め上げられた。痛い。きつい。息できない。

 

「別に断ってもいいのよ?」


「だったら力入れるのを今すぐやめてくれると嬉しいな、お姉ちゃん」


「私はただ可愛い可愛い弟に、心を込めたお願いをしているだけなのだし」


「それは朗報だね。……でもなんでまた一段ときつく締め上げられたのか、僕わかんない」


「ごめんなさいね。あなたに拒否をされると意思に反して体が勝手に動いちゃうの」


「それはきっと立派な名前のつく病気のはずだから、僕は今すぐ病院に行くことをお勧めするな」


「嬉しいわね。お姉ちゃんを心配してくれるの?」


「そのまま一生病院から帰ってこなくていいって思ってる」


「あら、随分とひどいことを言うのね。お姉ちゃん悲しいわ」


「状況からして当然の言葉だと思う」


「もうお姉ちゃんあまりに悲しくて悲しくて……昨日あなたと過ごした熱い赤ちゃんプレイの数々の動画を、ネットの海にアップロードしちゃいそう」


「お姉ちゃん大好き! 愛してる!」


「あら、よかったわ」


「……ってなに。動画あるの?」


「そうね」


「…………」


「だいたい……三十個ぐらいかしら」


「多いなぁ。嫌だなぁ。多いなぁ。嫌だなぁ。多いなぁ。先遠いなぁ。多いなぁ」


「リベンジポルノってやつね」


「普通は男女が逆なんだけどね」


「性差別ね。私、戦うわよ」


「少しは文脈を考えて話して。そっち側に話を持っていくともう二度と帰ってこれない」


「……ってあれ、これってなんの話だったかしら」


「姉さんが脅して、僕に団長をやれと迫っている場面だよ」


「ああ、そういえばそうだったわ」


「忘れていたことに僕はびっくりだよ」


「むしろよく覚えていたわね」


「こっちは被害者で切実だからね」

 

 そんな掛け合いをあと数十回だけ続けて、最後。再度。

 姉は僕に問を投げる。


「……で、どうするの? 劇団。やるの? やらないの?」

 

 少し間を置いて僕は口を開く。


「……まあ。本心として——心の底から——切実に——是が非でも——何があっても——絶対にやりたくない、なんてそんな本音は一回置いておくとしてさ。じゃあまあ一応、まじで聞くけど。……これの話って僕に拒否できる話なの?」


「……あなたは何を言ってるの?」


「今のところ僕は普通の疑問しか言ってない」

 

 さっきからおかしいのは間違いなくあんただ。

 姉は心外とでもいいたそうに言葉を続ける。


「あなたが拒否することはもちろん可能よ? そうに決まっているじゃない。姉は弟に寛容なものなのよ」


「ほう」


「お姉ちゃんがあなたに無理強いをしたことなんて一度だってないじゃない」


「ほほう」


「私はあなたが大好きなのよ。あなたの人権は私が守るわ」


「なるほどね」


「幸人愛してるわ」


「本音は?」


「断ったら殺す」


「……もう僕は何を信じて何を疑えばいいのかわからないよ」


「あなたは私だけを信じればいいのよ。私だけを信じて、私だけを見ればそれでいいの。むしろ私以外を見てはダメ。私以外を見たら殺すわ」


「怖い怖い怖い。……てか痛い痛い痛い!」


「あらごめんなさい。無意識に力が入っていたわ」


「もはや潜在的なやつじゃん。精神的なやつじゃん。寝てる時とかに歩き出すやつじゃん。ホラー映画でよくあるやつじゃん。絶対いつか僕殺されるじゃん」


「愛ゆえに——ってよくある話じゃない?」


「よくある話ってのが『アリ』か『ナシ』だったら、それは迷いなく『ナシ』だけどね」


「…………」


「…………」


「……ふふ、相変わらず可愛いわね」


 あ、こいつやばい。

 そんな本能に近いところでの鳥肌が止まらない僕はおそらく動物としてとても正常なのだろう。

 当分の間はその笑い声がトラウマになることは確定的で、きっとしばらく夢にも見ることが容易に想像できる。

 そんな嫌すぎる確信を胸に抱いてしまった僕だった。


 ……もうやだおうち帰りたい。


 と。

 まあそんな泣き言や問答を何度か展開しつつ。

 当然それが受け入れられるわけもなく。

 

「——あなたにしか頼めないの。お願い。……ね。だめかしら?」


 譲歩も妥協点も、一切なし。

 最終的にそう発せられた姉の言葉に、弟はただ、小さく首肯を返すしかなかった。

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