第2話「正直レモンごときでそこまで味は変わらないと思ってる」
昔から姉は変わらない。
興味が出るものに対して行動が早い人だった。
知らない世界に対して飛び込むことに臆することはなかったし、反対、自分が合わない世界への見切りをつけるのも早かった。
何食わぬ顔で入ってしまった日本最高学府にだって早々に見切りをつけて中退。
それからほとんど家に帰ってくることもなくインターンや起業、バイトに遊びと毎日毎日どこかに飛び回っていた姉だった。
受験事情も相まって、しばらく会っていなかったその間だってそんな姉の性分に変化が起こるわけもなく。
そのSNSは様々な人種にフォローされていって
旅で県や国を巡っていたみたいで
いつの間にか世界ほとんどをめぐり終えていた後だったみたいで
多くのことにチャレンジをしていて
僕の受験が終わった時には——事業への失敗と旅費の捻出失敗によっておよそ数百万円の借金を抱えていた。
で。
それから。
その後から、『借金返済』と『前から興味があった』という二つの理由からたった一人で始めた劇団を、今やこうして百人規模の大劇団に仕立て上げ、これまた結果的に成功を収めてしまった。
こうしたい。あれ見たい。それ欲しい。
それ嫌い。これ行かない。あれ邪魔、消えて。
それらすべての判断が早く迅速なのが姉だった。
迅速で、素早くて、高速なのが姉だった。
きっと。
きっと姉はすでに持っているのだ。
自分というものを。
自分自身というものを。
しっかりと明確に持っているのだ。
横文字で言うならアイデンティティ。
哲学で言うなら自我。
ウパニシャッド哲学で言うなら自己。
そういうものを持って、基準を持って、線を持って。
そして、彼女は生きているのだ。生きてきた。
毎日毎日。
自分を定義して、生きてきた。
だから判断は早いし、決断も早いし、行動も早い。
自分が明確で、やりたいことが明らかだから。
すぐに行動するし、判断するし。そして——失敗もする。
そして、それに比例して成功もする。
姉の選択肢に動かないことは、ない。
じゃあ反面。
僕は——
果たしてあるのだろうか。
そういう『自分』を。
持って生きているのだろうか。
やりたいことを持って、自分を持って、今日まで二十年間。生きてこれたのだろうか。
ふと手を見る。
電源のついていない、ブラックアウトしたスマホがそこにはあった。
顔が映る。
『佐藤幸人』の顔が映る。
寝起きでむくんだ、ひどい顔。
そんな顔を思わずしばらく見て、見つめて
しかしそこから——何も見えてくることはない。
あまりに当たり前の事実になんとなく腹が立って黒い画面を消そうと電源を入れるも……つかない。
充電は無かった。
「——ごめんなさいね」
朝からお説教みたいなことを言っちゃって。
謝罪の言葉とともに、いつもの普段着に着替え終えた姉が、僕を後ろから抱きかかえるように寄りかかってきた。
「別にいいよ」
一言。
本心から出たそれだけの言葉を述べ、僕は目の前にある最後のバターロールをほうばった。
「お姉ちゃんも心配なのよ。幸人が今後一人で生きていけるのか」
「…………」
「最近どう? 楽しい?」
「まあまあかな」
「……そっか」
そんな風にいつも通りに。
言葉をかけて、姉は微笑んだ。
「にしても——」と言葉をかけて姉は話題を変える。
態勢を変えず、声を変えず、話題を変える。
「相変わらず幸人は優しいのね」
「何が。こんなの普通でしょ」
「ふふ、ご謙遜を。大学生にもなって、こうやって無職のお姉ちゃんに構ってくれる弟ってのはなかなかにいないものよ」
「単に姉さんへの興味がカケラだってないだけだって」
「またまたそんなこと言っちゃって。実はお姉ちゃんのこと大好きなくせに」
「そうかな。割と毎日死ねって思ってるけど」
「またまたそんなこと言っちゃって。実はお姉ちゃんのこと大好きなくせに」
「風呂上がりで濡れたままそのまま滑って頭打って死なないかなって思ってる」
「またまたそんなこと言っちゃって。実はお姉ちゃんのこと大好きなくせに」
「早く頭を打って死なないかなとも思ってるし、頭を撃って死なせたいなとも思ってる」
「またまたそんなこと言っちゃって。実はお姉ちゃんのこと大好きなくせに」
「ここまで言って実はお姉ちゃんのことが大好きだったら、それはもうツンデレとかじゃなくて、ただの情緒が不安定な人だと思うよ?」
そんなやり取りに終始しつつ、無感情のまま最後のパンを口に放り込み終わる。
結構な数を頬張った今更ながら、そのパン。バターの風味で十分すぎるほどうまい。
「ねえ幸人」
「何さ、姉さん」
シャンプーのいい香りが近くまで香る。
「そんなお姉ちゃんのことが大好きな幸人にね。私から、是非お願いがあるんだけど」
「……嫌だ」
抱きしめられた後ろに伸びる腕の感触に、僕はなかなかビビリ散らしながら拒否を言った。
「否定が早いわね。まだ何も言ってないじゃない」
「姉さんが頼み事とかもうほとんど六でもないことだからあらかじめ断っただけ」
「あら、もしかして以心伝心だったり?」
「まあある意味正解だけど、普通嫌な予感って言うよね」
「なら似たようなもんじゃない」
「全然違う」
唐揚げと竜田揚げくらい違う。
「じゃあ一緒じゃん」
「違うじゃん?」
「両方ともレモンかけるじゃん」
「それで一緒になるなら世の中のものは大概一緒になるじゃん」
「……あれ。そういえば幸人はレモンかける派だっけ?」
「え? 何いきなり……。というか何に?」
「唐揚げとか竜田揚げに、レモンかける人だっけって話。昨日飲み会でそんな話になったのよ」
「あるあるだね」
「私にとっては初めての経験だったわ」
「へえ」
「で? 幸人はどっち?」
「半分かけて、半分かけない派」
「ふーん。やっぱ姉弟ね。私もほとんど一緒。グラデーション状にして味を変えていくタイプよ」
「正直レモンごときで唐揚げ様の味はそこまで変わらないと思ってる」
「私も。あれってそもそもわざわざ派閥に分ける問題じゃないわよね」
「たけのこキノコ戦争ほど目に見えた戦乱にはなっていないし、言うほど議論にもなっていないじゃないの?」
「そうかもね。ちなみに昨日の飲み会ではレモンはかける派が多数だったわ」
「まあそう言うこともあるよね。なんとなくだけど女子はみんなかけるイメージある」
「あら、よくわかったわね。そうよ。昨日は女子の方が多かったの」
「へえ。どんぐらい?」
「私入れないで……三人中二人女子」
「……ってことは男一人だったんだ」
「まあ、そう言うことになるわね」
「ハーレムだったんだ」
「そんな雰囲気は微塵もなかったけどね。集まったのがなかなか個性的な面々だったから。彼もハーレム気分を味わうには厳しい状況だったと思うし、まあ彼自身がそう言うタイプの人じゃないってのもあるし」
「まあでも、男としてはそう言う飲み会ってやってみたいものだけどね。飲み会じゃなくても、さ。ほら、今まで僕が入った組織って、男の方が多かったり、男しかいないやつばっかりだったから」
「あなた中高男子校でしょ。そんな軟弱者が逆に女子だらけの空間ってのはなかなか手こずるとは思うけど?」
「それは……まあそうだとは思うけどさ。でも一回ぐらいそう言う組織に入ってみたいロマンは男なら誰にだってあると思うけど。なんと言うか夢とまでは言わないけど」
「ふーん……へえ」
——そう。
「…………っ」
しまった、と思った時には遅かった。
ゆっくり。
しかし、しっかりと。
話が姉の思う方向に誘導されていたことを本能に近い部分で感じ取った僕は慌ててその場から立ち退こうとする。
……も、しかしそれは叶わない。
肩から回されていた手が、いつの間にか僕の腹まで下がっていって。
交差した長い腕は僕の喉仏をしっかりと極められていて。
固められていたて。
普通に圧迫されて、痛い。
リンパが締め付けられていて呼吸がうまくできない。
それはなかなかに強い力で。
動いたら、殺されるぐらいの勢いで。
会話ができるギリギリのラインで。
一体どこで習ったのか。
絶妙な力加減だった。
まあつまり。
要は。
いつの間にか、僕は姉に生殺与奪権を握られてしまったのである。
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