『趣味が持てない』という人に向けた十万字の小説

西井ゆん

第1話「やめたほうがいいよ」

 目が覚めた。

 ふと。目が覚めた。

 目の前には天井。

 白く狭い。

 無機質で何もない天井。

 僕は布団から体を起こす。


「……だる」


 酒だろう。

 そんな感じがするだるさと、頭痛だった。

 やたら尻が重い。

 まるで体に根が生えてしまったかのような。

 そんな症状。

 そんな状態。

 なんとなく、気持ち悪い。


 慣れないな、ほんと。

 

 昨日飲んだテキーラが、頭の奥深くで揺れて脳の奥を刺激しているみたいだった。


「……断酒しよう」

 

 一体何度目になるのかわからない決意を胸に、僕はベットの淵に手をかけた。

 重い尻を、持ち上げた。

 当たり前に、根が生えていることはない。

 そんなあまりに当然の事実を肌感覚で確認しつつ、それでも尻に残る変な違和感を感じつつ、僕は下の階にある洗面台に向かった。

 

 ——ソファに行けば姉が死んでいた。


 もちろんこれは比喩で、当然彼女の生命維持活動が停止していたわけもない。

 どうにもこの人に対する「死んで欲しい」という願いが先行しすぎて、事あるごとにこういった表現をしてしまいがちになる。


 正確に言えば、姉は寝ていた。

 上半身裸で。

 下半身下着で。

 タオルケットを上にかけて。

 派手に、寝息を立てていた。

 残念ながら今度は比喩じゃない。事実だ。


「…………」

 

 ベットほどのサイズがあるソファにまた大きく寝返りを打った姉が、仰向けになる。

 彼女の起伏の激しい体に視線がいってしまうのは、おそらく男性的な何かと、この姉と僕に血縁が存在していないという二つの事実によるものだとは思うのだけれど、それでもしかしなんとなく。

 姉と呼称する相手に対しそういった性の感情を抱くことへ、当然の抵抗感はあった。


 だから。

 だからきっとこうやって。

 ほとんど歩くペースを変えることもなく、僕は、これを一瞥だけして洗面台へと向かったのだろう。


「……ん」 


 顔を洗った水音のせいか。

 その後、ダイニングに向かった足音のせいか。

 今、手に取ったパン袋のせいか。

 はたまた、お昼時のせいか。


 とにかく姉は起きたようだった。

 僕はそれに視線を向けることなく座った。スマホの電源ボタンを長押す。


「……ねえ、幸人」


「何?」


「……水」


「…………」


 特に何か言うこともない。

 僕は前に転がっていたペットボトルを手に取る。


 蛇口をひねって水を入れた。

 姉へ投げる。


「ありがと」


「…………」


 ゴクゴクと。

 五百ミリリットルは喉に流れていって。

 姉の息継ぎとともにその姿は消えた。


「……ぷはっ。——あー生きかえる」

 

「それ、やめたほうがいいよ」


「……?」


 口に腕を当て、男らしく水滴を拭った姉にツッコミを入れる。

 僕の視線はパンのまま。

 パンの袋のまま。


「水の一気飲み。喉にいきなり流し込むと、水中毒とか低ナトリウム血症にとかになる……とかならないとか」


「あー……そういうこと」


 どうでも良さげに声を出して、頷いて見せる。

 相変わらず適当な姉だった。


「うん、水中毒ね。知ってる知ってる」


 相変わらず適当な姉だった。

 初耳な知識だったことは明白だろう。

 姉はとりあえず腕を組んで頷いて。

 そしてメンドくさげにボトルを投げてきた。

 簡単に手でそのボトルを弾く。

 ゴミ箱の淵を数回転した後、中へ消えていった。


「投げるな」


「お見事」


「うるせえ」


 なかなか点かないスマホにいらつきながら、僕は二個目のパンを摘む。

 姉は拗ねたような表情のまま、自身の膝に肘をつく。


「んーでも仕方ないじゃない。こんなにも頭が痛いんだもの」


 頭のこめかみから痛みを抑えるように、グリグリと拳で押し込んでいる。

 セリフの反面、表情はとても涼しげだった。


「姉さん別に強いわけじゃないんだし。酒の席はあんま無理しない方がいいと思うよ」


「それでも大人には飲まなきゃいけない時ってのがあるのよ」


「いや、大人って」


 一笑。


「僕と姉さん、そんなに歳は変わらないでしょ」


 物欲しそうに見つめる姉にその残り。パン二つのうち、一つを投げる。

 器用に彼女は口で受け取った。


 ……もぐもぐ。


 効果音が聞こえてきそうなほどに、口の中に消えたその穀物は、すぐに彼女のエネルギーの一部となったようで、心なし顔色は先ほどよりも明るい。


「馬鹿ね」


「…………」


「半年も違うじゃない」


「半年しか違わないんだよ」


 世間一般の姉弟ではまずあり得ない距離感だろう。

 姉弟というか。

 兄弟全般に言えることだが。


「そうかしら」


「お前は十月十日という言葉を知らないのか」


「頑張れば子供なんて半年ぐらいで行けそうじゃない?」


「姉さんは人類に一体何を期待してるんだよ」


 てか『頑張れば』ってなんだ。

 何をどう頑張る気なんだこいつは。


 姉は何やら顎に手を当て思案顔を続けている。あの真剣な顔が間違いなくロクなことを考えていないことはわかった。


「……まあともかく」


 ちょっと怖くなった僕は、話を元に戻す。


「水中毒は危険だよって話」


「そうね。ありがとう、今後気をつけるわ」


「体調管理は大事だから」


「異論はないわ」


「いくら人間やめてる姉さんだって、いつまでだった身体が強いわけじゃないんだし」


「千まで生きる予定なの」


「そこまでやめてるとは思ってなかった」

 

 それは多分人……というか生き物ですらない。


「私、目標は高く持つタイプなの」


「実現不可能な予定は目標と言わない」

 無謀というんだ、それは。


「いいじゃない無謀。私のなかで結構好きな言葉よ」


「今日も変わらず僕の姉さんの頭はおかしい……と」


 見向きもせずにそんな台詞を適当に吐いて、僕は最後のパンに集中する。手を伸ばす。


 それでも。

 視界の端、横目で姉の頬が膨れているのを認めてしまったので触れないわけにはいかない。


「…………」


「なに、姉さん」


「……む〜」


「……別にちょっと可愛いとか思ってないけど」


「口に出てるわよ」


「おっと失礼」

 

 ツンデレみたいになっちゃったぜ。

 べ、別に狙ってなんかないんだからね!

  

 そんな僕のボケを無視して姉は続ける。


「いやね。今日の幸人がちょっと生意気だなって思ったの」


「……そう? 至極真っ当にごく普通な佐藤幸人だけれど」


「私、弟ってもっと姉に優しくなるべきだと思うの」


「世間一般から見ればもう僕って相当に優しい弟なはず」


「世間と私は違うから」


「あなたはどこの世捨て人ですか」

 千歳を目指すとかの一連に出てきた発言を鑑みるに、まさか仙人でも目指してんじゃないだろうな。

 

 僕はできうる限り冷たい視線を送るも、しかしそれに気づいていないのか、あるいはただ無視をしているのか。

 大きなため息を一つついて、姉は目を細める。


「本当、幸人は素直じゃないわね」


「今のところ本音しか言っていない件」


「もっと私に優しくなれば、いつだって私はあなたに構ってあげるというのに」


「今後の方針が正式に閣議決定しました」

 決定内容は言わずともがな。

 ちなみに全会一致だった。


 姉はやれやれと首を竦める。


「まったくいつからそんなひねくれた子になっちゃたのよ」


「割と昔から変わってないよ」


「一体誰があなたのオムツを替えたと思っているのやら」


「姉さんではないことだけは間違いないかな」


 歳の差的にもありえない。

 まさか一歳児の姉に、生後半年の僕の世話が務まるわけもあるまいし。


 しかし、姉は変わらないままの表情、変わらないままの口調で論を主張する。


「何を言ってるの。私はあなたのパンパーツを取り扱ったことのある人間よ」


 公明正大。雄気堂々。


 目を見開いて主張した姉である。

 その迫力に一瞬こちらが間違ったことを言っている気分になった。


「いや、んなわけねえ」

 まあ冷静に考えればあり得ない話だ。


 寝起き早々にこの姉は何を言っているのだろう。


 先あげた年の差一つが理由ではない。

 そもそも僕と彼女が出会ったのは、中学の時。

 パンパースどころか、大概のことはすべて自分でできるようになっている年齢で。

 まあ少なくとも、中学の頃に姉からオムツを取り替えてもらったことはないだろう。


 まさか、僕の預かり知らないところで幼少に彼女と出会っていたわけもないだろうし、だからパンパースの処理を処理してもらったわけもあるまい。


「ええ、もちろんそうよ」


 以上。

 僕の反論に深く頷いてみせた姉。


「あなたと私が出会ったのはせいぜい六年前。その時にはもうすでにブリーフ派だったわ」

 

 蛇足もあったが、それでも、言葉で肯定してみせた姉。


「あなたと出会ったあの瞬間、あの光景。私、今でもはっきり覚えている」


 それから。

 本当に何か。

 思い出すように目を細めて、姉は遠くを見る。

 

「あの日は、お互いにとって、とても特別な日だもの。一度だって忘れたことはないわ」


「全く、記憶にございません」


「ずっと欲しい欲しいといっていた弟が、まさかいきなり目の前に現れるなんて、本当、夢にも思ってもなかったわ」


「こんな地獄が始まるなんて僕もあの時はまったく夢にも思ってなかったよ」


「出会い頭もね。いきなり抱きしめあってさ」


「いきなり、腕で締め上げられたなぁ」


「愛を囁き合って」


「呪詛を耳元で囁かれて」


「チューまでしたじゃない」


「まさか酸欠になるまで口呼吸を封じられるとは思わなかった」


「そりゃたしかに最初はぎこちなかったし、お互い緊張ばっかしてたけどさ。今じゃほら、この通り」


「なかなかに関係悪化したもんね。当たり前の結果かな」


「そう。当たり前にラブラブになったもんね」


「ラブラブだと思うなら、少しでいいので僕の話を聞いてくれないでしょうか」


 切なる願いを口にして、事実を歪曲するメディアへの提言を続けるも、しかし、姉の次のセリフで真実への追求は止まった。


「まあ、昨日なんだけどね。パンパース」


「……?」


 いつものやりとり。

 いつもの会話を一通りこなして。

 姉の言葉に僕のパンを持つ手を止めた。

 いきなり……ふられた話題。


 ……昨日?


 なんか……あったか。

 パンパース?


 辿ろうとするも、しかし全く記憶が喚起されない。 

 酒のせいか。

 頭が痛いのもあって頭がうまく働いていない。


 姉は続ける。


「昨日の夜。私が家に帰ってきて。あなたがお酒でベロンベロンになっていたでしょ」


「あー、うん。昨日は確かに友達と飲んでたけど」


「その時、ね。帰ってきたばかりの私に無理やり迫ってあなたが言ったあのセリフ——私一生忘れないわ」


「ふむ」


「『一生のお願いで頼むから僕が履いたおむつを変えてくれ』——なんて、あんな情熱的なセリフ、忘れられそうにないもの」

 

「ちょっと待て誰だおいその変態」


 びっくりした。

 びっくりした。

 本当にびっくりして、思わずこうして立ち上がってしまったぐらいにはびっくりした。


「誰って……あなたのことでしょ?」


「嘘をつけ。僕はそんな奇天烈なプレイを姉に求めたりしない。そもそも姉にプレイを求めたりしない」


「別に恥ずかしがることないじゃない。思春期であれば誰だって通る道よ」


「そんな中二病と同じ系譜に語っていいレベルの惨状じゃないでしょ。間違いなく今後の人生を大きく左右しかねない大事件でしょ」


「別に私はいいわよ。あなたが変態でもドの付く変態でも」


「頼むから受け入れないで。そこで度量の広さを見せないで。しっかり拒否して」


「幸人は弟だけど、義理だからね。法律的には何の問題もないし」


「倫理的に全然アウトなんですね」


 倫理以外のどの要素を切り取っても問題しか見えないぐらい。

 具体的には社会的にも問題だし、常識的にも問題だし。

 つまりどの面から見ても問題しか見えない。伺えない。


「別に変態なことは悪いことじゃないのよ?」


「いや、悪いことだろ」


 変態が許されるほど、この世の中は寛容にできていないはず。

 少なくとも現行の法律はそこまでおおらかではないだろう。



 と、それに近い言葉を言った僕に、また、これ見よがしのため息をついた姉。

 今日一番のため息だ。


「はぁ〜。本当、あなたは相変わらずだめだめね。そんなんだからあなたはいつまでたっても彼女の一人もできないのよ」


「……いやこれは僕が正しいでしょ。変態ってそれだけで女子から嫌われるじゃん」

 つまりモテる上で。

 というか人として生きる上で。

 変態性の除去は重要だろう。


 社会という枠の中で暮らすのだから、一定の倫理に悖る趣味趣向は、当然人との距離を生んでしまう。

 確かに多様性は尊重されるべきだけれど、それでもやはり規律は大事で重要だろう。

 

 以上、僕の言葉、考え、意見。

 また、それらを聞いて、そして、一笑に付した姉である。


「ほらまた、そうやって決めつけてる。そんな思考してちゃ、人生すぐに生き詰まるわよ」

 今の世の中、多様性よ。

 ダイバーシティな、様々な、色々な。

 そんなたくさんの種類の人がたくさんいるんだから。


 そのまま立ち上がった姉は洗面台、その先にあるシャワールームへと向かっていった。


「あなたがそうやって変態変態と嬉しげに論って言葉を立てている間にね。周りにいる魅力的な女性はどんどんあなたから離れていっているのよ」

 

「離れる?」


「ええ」


 扉は閉めていないようで、姉の声は僕の耳にまだ届いた。

 僕は少し考えて、そしてわからないまま姉に声をかける。


「……え、なんで? 女ってのは変態が嫌いなもんだろ」 


「ほらまた。決めつけた」


「…………」


「別に女性だからって変態が嫌いなんてことはないわ。むしろ女性こそ、変態を隠しつつ、秘しつつ、人知らず、フェチズムを持っている子が多いもの」


「……そうなの?」


「ええ。私はそこまで頑なに隠してはいないけれど、それだって『下着のままシャワーを浴びる』なんていう結構な異常性を持っているわけだし、また別に『ブラコン』という立派な変態性を確立してもいるのよ?」


 その声とともにシャワーの音が耳に届いた。

 下着を脱いだ形跡はない。

 そういえば昔から姉は下着姿でシャワーを浴びる人間だった。

 わざわざ体と別に洗うのが面倒……らしいかららしいのだけれど、しかし僕がそれに慣れてしまっただけで、人から見れば、なかなかの変態に移る行為なのかもしれなかった。 

 変態以前に気持ち悪くないのかという話ではあるが。


「心底残念なことに、私はあなたが好きな女性像を正確に知ってはいないけれどね。それでも、あなたが相手に求める条件に『面白い』という項目があるなら、なおのこと。その子は変態性に富んでいた方が好ましいわね」

 変態でもなくて面白い子……なんて現実にはいないわよ。


「…………」

 それは……まあ確かに。

 言っている意味は理解できる、かもしれないけど。


 納得半分、不納得半分の僕を放ったままに姉は続ける。

 

「あなたが変態やフェチズムを毛嫌いするということは、つまりそれと同時に多くの人のことだって、同時に毛嫌いしていることを忘れちゃいけないわ」


 シャワーの音が止む。

 

「外国人だってそう。障害者だってそう。同性愛者だって、トランスジェンダーだってそう。左翼だって、右翼だって、みーんなそう。全員を受け入れ、話を聞き、耳を傾けることが大事なの。それを怠ったものに現代においての父性や愛が芽生えることはないわ」


 そして——


「そして、父性や愛のない人間というのはね。男性女性問わず、モテることはないものよ」


 顔を拭くタオルの音に覆われながらも、姉の言葉はとても通って、印象的に聞こえた。


 なんだろう。

 さすが、劇団一つをまとめている人間——ということなのだろうか。

 確か姉はその中でも役者というわけでもなかったと思うのだが、しかしその言葉の節々にセリフのような重みを僕は感じた。


 重み。


 というか主義というか。主張というか。

 僕には出せない重みが、その言葉に乗っているような気がした。

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