私の本棚に要らないもの
私の家に本が何冊あるか、数えたことはないけれど、おそらく寝室に百冊ほど、書斎に三百冊程度だろうと思う。
なんどもした転居のたびに売却したりして、本の数はつねに増減していた。
数年前にこの家を買って、いよいよこのさき転居をせずに済みそうだと思われたので、これまで泣く泣く手放してきた書籍を買い戻そうという気になった。
しかしそのころの私の収入では、家のローンと娘の養育費だけで月の収入の半分が消えるような状況で、本を買う余裕などまるでなかった。それが古書、絶版ともなれば、指をくわえてみてるだけだった。せいぜい中古の文庫本を数か月に一度何冊か買う程度が関の山だった。
独立して稼ぎがすこし増えた今年から、本をあさるように買いはじめた。
本棚を眺めるのは楽しい。
他人の本棚を眺めるのはまた別の楽しみがある。
本棚をみればその人がわかる、という言葉もあるほど、本の好みはその持ち主の性格をある一部分くらいは反映しているものなのかもしれない。
私の本棚はどうか。
まず三島の全集がある。太宰の文庫がだいたいそろっている。両者とも、私の文学への入口をつくってくれた作家で、思い入れがあるし、いまも好んで読んでいる。
それから宮沢賢治の詩集と「銀河鉄道の夜」があるが、彼の童話は一冊もない。
高村光太郎の「智恵子抄」がある。そのほか、数多のふるい詩人の名前が書かれた背表紙が並んでいる。
新しい詩集は一冊だけ。
岩倉文也という若い人の最近のもので、すでに埃をかぶっている。
これはそのうち売るか誰かに差し上げるつもりでいる。
「時代の寵児」というほどに評価されている彼の短歌のうち(上の句は忘れたが)「末路といえばすべて末路だ」という言葉が胸をうった記憶があったので買ってみたのだが、その一首以外はとくに感動もなにもおぼえなかった。
彼はTwitterを使って主に表現をしているらしく、「140字の定型詩」などといわれているらしいが、それらの拾遺集としての一冊なのだろうか。つまりそれはつぶやきの集まりでしかなく、私にとって、持っておきたい、また読みたい本ではない。タイムラインにながれてゆくもののひとつだ。本棚になくていい。
と、私は普段こうして他の作品や作家を批評するということがない。
批評とは、とてもむずかしいものだと思う。誰よりもその作品について知識を持ち、時間をかけて研究したものだけができる芸当ではないだろうかと私は思う。
それにしたがうならば、私は岩倉さんを云々する資格はない(実際そのつもりもない)。だって彼の作品をろくに知らない。だからただの好き嫌いの話であって、「好きではない」というだけのことであって、それならばあえて口にだす必要もない、というのが私の考えだ。
私は批評それ自体が、好きではない。
だから私の本棚に評論の類の本は一冊しかなく、文庫本の「花田清輝評論集」だけだ。(これは筆者の言葉遣いがおもしろくて読んでいるのであって、その評論の対象にとくに興味があるわけではない)
私は詩であれ、小説であれ、その「作品」が好きだ。
作家がどういう人間であるか、それが作品にまったく影響しないということはない。あたりまえだ。機械が作品をつくるのではないのだから。人間がつくる以上、その人間のあらゆるものが作品につめこまれるのだから。
けれど私は作家論にもやはり興味がない。どこまでも「作品」が一番だと言いたい。
そのなかで、いくつも好きな作品を生みだしている作家には興味がわいて、作家そのものを調べたりもする。でも作家論は読まない。
受けつけないものは受けつけない、わからないものはわからない、と言う。
おもしろいものはおもしろい、感動したものは感動したと言う。
べつに「評価」なんてしない。ひとの作品に点数をつけるような趣味はない。
自分がものを書くからそう思うのかもしれないが、少なくとも私は「より多くの人に読んでもらいたい」「よりよい評価がほしい」とは思わないから、頼みもしないのに点数をつけられたとすれば腹が立つだろうと思う。
だから私もそういうことをしない。『あの作品はよかったですよ』と、こういう一言をたまにいただく、それで充分なのだ。
この人に読んでいただいて意見を伺いたい、と私がみずから思うような方には、ありがたいことにめぐりあえているし、そういう方には恥を忍んでお願いもしている。
それでほんとうに充分なのであって、なにも評価批評されるために書いているわけではない。
そして私の見る限り、批評というのは「好評」とくらべると、いつもだいたい的外れだ。「好評」を語る人の熱量と、したりがおで批判する人の熱量はまるでちがう、と私は思う。周囲の評価はどうあれ、自分がよいと思う作品や作家をおすすめする人の顔が私は大好きだ。
それをわかったうえで批評をされている方はいい。そういう人には覚悟もあるように見える。
私が厭なのは、自分のかたよったものさしで作品を断じ、さらにはろくに知りもしない作家の生涯やその思想まで断じきってしまうような批評家もどきだ。こういう人は完全に「やりすぎ」だし、恥を知るべきだとさえ私は思う。
懸命にみずからの道を走っていく人に、わき道から現れて硫酸をぶっかけて去っていくような、気味の悪さをそこに感じる。
本や文章をどう読むかなんてそれぞれの自由だし、その読了の感想をどう話すかも個人の自由だろうから、うえに書いたような「批評家もどき」への批評もまた、的外れであるにはちがいない。
それではなぜわざわざ書いたのかというと、徒労は承知の上で、ひとつだけ言いたいがために書いたのだ。
「私はうえに書いたような、作品に寄生して喰い荒らし自分の賢さを顕示したがる批評家もどきが大きらいです」
つまり、ただの好き嫌いの話なのだ。
だから、私は自分の意見を「正しい」などと思っていない。
ただそういう人たちがきらいですよ、というだけの話。
これをどう読もうと、読む人の自由です。
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