逆行

私は自分を変わり者だとは思わない。

(変わっていると言われたことはある。が、逆に一度もそう言われたことがないという人がいるのなら、ぜひお目にかかってみたい。そのひとはきっとよほどの変わり者にちがいない)

変わり者だとは思わないが、いわゆる「時代遅れ」の「アナクロ」なのだろうな、と思うことはある。とはいえ、それもただの写し鏡で、自分では逆行しているつもりはまったくない。もうずいぶんと前から此処にいるのだ。


時代とはなにか、などと語るつもりはない。それはただの言葉だ。

私にとって、時代の流行にのるとか、時代にのりおくれるだとか、時代に逆行しているだとかいう言葉はなんの意味ももたない。

多数決をして自分が少数派にまわったところで、私が私であることに変わりがないように、時代に遅れていようが、逆行していようが、それは私の知ったことではない。


私は流行に興味がない。

盛り上がってはすぐに廃れていく、花火のような豪華絢爛な彩りの「はやり」を追いかける気にすらならない。

たとえば、知名度の低いあるものを私が愛しているとして、それがひょんなことから流行にのったりしてしまうと、もうだめだ。一気に興ざめてしまう。

とはいえ「はやり」は感冒のようにひろがってすぐに消えていくことを知っているので、その間はふれないようにするというだけのことだ。


大多数の人間が歓喜して一方向を見つめているときに、私はたいていそっぽを向いている。別にあえてそうしているのではなくて、たまたまそうなってしまうのだ。


文学にもはやりすたりがあるらしいが、私はそれを感じたことは一度もない。

出版社が書籍を売るために流行らせようとしているのだろう、と思ったことは何度かあった。


流行の思想や言葉にも惹かれない。

どんな馬鹿でもその言葉を使っていさえすれば、高い見識をもっているかのように振る舞えるだろうはやりの言葉がいくつか思いつく。

たとえばこのごろ耳に(目に)タコができて辟易している「ポストモダン」

この響きのもついやらしさ。

とくに「ポストモダン文学」とならべてみると、もはや気色が悪い。

そもそも私は「ポスト〇〇」というがきらいなのだけど、それに加えて、よりによって「モダン」がつくということには吐き気すら感じる。

1970年代に流行りだしたらしいその言葉は、半世紀たった今もなお「ポスト」のままなわけだが、そこに思想のなさを感じるのは私だけだろうか。

そんなものに足止めされている暇はない。

むしろそれらが躍起になって否定しようとしている(らしい)近代文学のなかにこそ、私の宝が眠っているのだし、それは今に伝えられているものばかりではないということを、もう知ってしまったのだから。


時のながれはさまざまな流行をうみだし、そのながれによって時代を洗い流す。

玉も石もいりまじって、轟々とながれていく。

流れにのったものはそのまま流されて、はるかさきまで消えてゆけばいい。

私は此処にとどまる。

此処にとどまって、時代に流されない時代だけを瞶めつづけていきたい。

そしてその流れの下に沈んだ、多くの書籍を拾い集める。

それは砂金のように、あるかないかわからない、見つけづらいものではあるが、だからこそ一生を託すに足ると私は確信している。


これは私の決意だから、決意としてここに記す。

誰を否定する気もないし、議論する気などさらさらない。

けれど決意である以上、曲げられはしないことだし、それで誰かを不愉快にするかもしれない。しかしそれはそれでかまわない。仕方のないことだ。


流されない言葉を。

水底にしずむ言葉を。

逆行なんかしていない。

私はずっと此処にいる。


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