「不立文字」私と詩

禅を集大成させたといわれる六祖慧能えのうという人物がいる。

貧しい母子家庭に生まれ、薪を売って暮らしていた。

ある日行人の唱えていた「金剛経」の一節にうたれたのを契機に、黄梅山の五祖弘忍ぐにん大師のもとに仏門をたたき、修業をはじめた。


数か月後、五祖が弟子たちを集めて言った。

「おのおの自らのたどりついた境地を詩としてあらわせ。

そのなかに悟る者があれば、その者に衣鉢をたくそう」

衣鉢を継ぐものとして、最も有力視されていた弟子に神秀じんしゅうというものがあり、これが弟子のうちの首席だった。

彼は得意げに壁にみずからの詩を書きしるした。


「身はこれ菩提樹 心は明鏡のうてなの如し

時時に勤めて払拭ほっしょくし 塵埃じんあいをして有らしむことなかれ」


みながその詩をくちずさんで称賛するなか、慧能は壁の前にたち、こう言った。

「このひとはまだ悟っていない」

慧能は読み書きができないため、かたわらの人に詩をうたい、それを壁に書かせた。


「菩提もとより樹無し 明鏡もまたうてなに非ず

本来無一物むいちもつ 何処いづくにか塵埃あらん」


五祖はその詩を見ると否定し、消してしまえ、と弟子たちに言った。

しかしその後、夜中にこっそり慧能を呼び出し、衣鉢を授けた。

衣鉢の相続後の争いからのがれるために、人目を忍んで法を授け、慧能を南方へと逃がした。

「無学の米つき男に衣鉢を継がせるとはなにごとか」と、弟子たちは慧能を追って南方へ散ったが、五祖の教えどおりにひそんだ慧能を探しだすことはかなわなかった。


十数年後、曹渓の地から慧能の活動がはじまり、それは南宗禅とよばれた。

それに対し、かつて詩によって慧能と競った神秀は時の権力者・則天武后に召されて北宗禅をひらき栄えた。が、その後の反乱を契機に支持基盤をうしない廃れていき、南宗禅がいよいよ発展した。


不立文字ふりゅうもんじ 教外別伝きょうげべつでん 直指人心じきしにんしん 見性成仏けんしょうじょうぶつ

とは面壁九年の逸話で有名な達磨だるまであるが、むしろ慧能をあらわすほうがふさわしいとまで言われた。


ある日慧能のところへ無尽蔵尼むじんぞうにという尼僧がおとずれてきて問うた。「長年経文を研究しているがわからないところがある」と。慧能は読み書きができないため、その経文を読み上げるように言うと、尼僧は「文字も知らないあなたがどうして真理をつかめるのか」と返した。

慧能はこたえた。

「真理は文字とは関係ありません。

真理というものは、夜空にかかる明月のようなものです。

それに対して、文字はわたしたちの指のようなものです。

指をこのようにさせば、明月のありかをしめすことはできます。

しかし指そのものが明月になるわけではないでしょう。

月を瞶めるとき、必ずしも指を通して見る必要がありますか」


これがつまり「不立文字」ということだろう。


ここから俗な話になるのだが、このところ詩について考えることにうんざりしていたとき、私はこのたとえを無意識につかった。

もちろん慧能の言葉だと知りながら、自分の言葉であるかのように使った。

(つまり、ここまで自分の足でやってきたということなのだと思う、「自分の言葉で話す」というのはそういうことだと思うのだ)

それをどういった場面で使ったかというと、現代詩を否定するというきわめて悪趣味で無益なことのためだった。

私にとって、拒否や否定の所作は「沈黙」が一番いい。てっとりばやいし、時間も労力も要らない。むやみに人を傷つけることもすくない。

けれど、このところの私のこころの動きは、むしろ積極的に否定したがっていた。

おそらく、自分は現代詩から否定されているという被害妄想のような感覚を身におぼえ、反撃のつもりでそうしたのだろうが、実際、現代詩というものは概念さえおぼろげで、存在もしていない。まるでドン・キホーテのようだと思う。


いくたりかの作家を否定し、その作品を拒絶した。とても詩として愛せないと思った。しかしそれが現代に「詩として」迎えられ、多くの読者がいることを知った。

そこで私は「詩」という概念と訣別するために、この「不立文字」を持ち出したのだろう。

いくら文字をこねくりまわし、その造形を競ったとしても、ゆびさし示すべき「月」がない。ただ言葉に洋服をきせ、その華美や豪華や瀟洒を競うのが現代詩の流行であり、それはのだということがわかった。

装飾もない、ごつごつした指でもいいから、私はこれからもずっと、あの月を指さすための言葉をこそ綴りたい。

文字や言葉はそれ自体がつねに誤解を孕んでいる。しかしそれでも発しなくてはいられない私である以上、誤解も批判もおそれずに発しつづけていくよりほかないだろう。けれど、ということがはっきりとわかったのだ。


私の言葉は、指である。

言いたいことは、示したいものは、つねにその先やすきまにある。

言葉と言葉のあいだに、あるいはそのさきに、それを読む者の体験や、体感があり、それこそが詩なのだと私は思う。

形式や、雰囲気ばかりではない。

それはこころの動きなのだ。

その動作をこそ私は詩と呼ぶのだ。

それはおおむねうまく伝わらない。

だから、何度も何度も発していく。

そういう決心があったことを、ここに書きたかっただけなのだ。

私の言葉は、指である。

言いたいことは、示したいものは、つねにその先やすきまにある。



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