ジェシーの選択

賢者テラ

短編


 ジェシーは、小さいころから損ばかりしていた。

 勉強も、ダメ。

 運動も、ダメ。

 親しい友達も、あまりいなかった。

 おとなしい性格が災いして、時折いじめられた。

 そんな時、彼女はだまって反抗もせずに、なされるがままであった。

 耐えている、というふうには見えない。

 むしろ、それが自然であるかのように。



 母親は、水商売の女で、がさつだった。

 ジェシーを生物的に生かす程度の子育てが、精一杯。

 触れ合いや躾よりも、店の売り上げと酒のほうが大事であった。

 父親は、何をして生きているのか分からない人物であった。

 少なくとも、父親の職業は? と聞かれたらジェシーは答えられない。

 さぁ? いったい何だろう?

 だた、この父親には困った趣味があった。

 ホラー映画が大好きなのだ。

 幼い子どもの前で配慮してくれるような良識を持ち合わせていなかった。

 飛び散る血。もげる手足。えぐられる内臓。

 急にけたたましい音を出すBGM。

 そのすべてが、ジェシーの魂に焼きついた。

 これで、情緒不安定にならないほうがおかしい。



 ジェシーには、たったひとつだけいい思い出があった。

 両親が、海へ連れて行ってくれた。

 母は、たまたま店の売り上げがよく上機嫌であった。

 父は競馬でひと山当てたらしく、これまた機嫌がよかった。

 アメリカ内陸部の田舎から、出たことのないジェシー。

 その時、初めて海というものを見た。



 彼女のボロボロの心にも、それは美しいもだと感じることができた。


 ……キレイ。


 なんだかよく分からないけど、泣けてきた。

 悲しくは、ない。

 嬉しいというのとも、少し違う。

 遠くから、めったに見せない機嫌のよさで母が言う。

「せっかく連れてきてやったんだからさ、もうちっと楽しそうにしな」

 彼女が最後まで覚えていたのは、くるぶしを優しく撫でる波の感触。

 これが、ジェシーが海を見た最初で、また最後であった。



 いじめられても、抵抗しない。

 それどころか、うすら笑いさえ浮かべる。

 あるいじめっ子は、あまりにもジェシーが平気そうにするので——

 手加減を誤って、本当に死なせかけた。

 これ以後、みな気味悪がって、ジェシーをいじめることはなくなった。

 怖かったのである。

 彼女はまだ子どものくせに、死を怖がっていなかった。

 むしろ、生きたいとも思っていないようだった。

 命を惜しまない者には、誰も勝てない。



 家へ帰れば、定職もないような父親がたいていいる。

 昼間っからゴロゴロして、酒をあおっている。

 もちろん、どこからか借りてきたホラー映画を見ながら。

 そんなものばっかり見る者の心がささくれ立つのは、自明の理だ。

「お前なんて、何の役にも立たねぇ」

 生んでおいて、ジェシーに優しい言葉のひとつもかけられない。

 それどころか、罵詈雑言を浴びせる始末。

 ジェシーは自分の部屋で、天井のシミを見つめる。

 それが、いろんな形に見えてくる。

 毎回、違うものを連想した。

 それが、彼女の娯楽であった。

 あと、もうひとつ。

 この前行った海を、思い出すこと。




 ジェシー、14歳の春。

 ある日、父親が部屋に入ってきた。

「お前は、役に立たねぇ」

 娘を床に押し倒し、スカートをはぎ取った。

 Tシャツは、腕をくぐらせて脱がせるのが面倒くさかったので——

 ビリビリに破いた。

「役に立たねぇが、これくらいは役に立つな」

 ジェシーに馬乗りになった父は、世にもおぞましいことをした。

 少女から大人への変化の途上にあったジェシーの女の部分は、破壊された。

 行為の間中、ジェシーはやっぱり天井のシミを見ていた。


 ……あれは、何の形かなぁ


 父がジェシーの中で精を放った時、思いついた。

「ああ、あれはお隣のよく吠える飼い犬に似ているんだ」

 ピッタリくる答えが出たので、ジェシーは笑い声を漏らした。




 奇行が目立つようになったジェシーは、ある日精神病院に入れられた。

 ヘラヘラ笑いながら、手首を切る。

 ためらいは、ない。

 よくありがちな、『相手の注意や関心を引くため』でもない。

 放っておけば、いつか何かの形で死んでしまう。

 しかし、誰が彼女を責め得るのか。

 生まれてから、誰からも大事にされなかった。

 誰からも、愛のある温かい言葉をかけてもらえなかった。

 他人から大事にされない者が、どうして自分を大切にできよう。



 担当の看護師になったリタは、おののいた。

 こんな救いようのない患者を、初めて見た。

 まだ高校生にもならないような少女がー

 地獄とは何かを、知ってしまった。

 ジェシーの成育歴と入院の経緯を知ったリタは、心に誓った。


 ……かならずこの子を、救う。


 しかし。

 親たちがジェシーを入院させる際にただひとつ、重要な事実を故意に病院側に隠した。それは、父親の性的虐待の事実である。

 皮肉なことにジェシー自身も、誰にもそのことは言わなかった。




 不思議な声が、最近聞こえるようになった。

 ジェシーはバランスを失った意識の中で、その声と対話した。


 聞こえるか。


 ええ。聞こえるわ。


 苦しいか?


 苦しい……のかしらね? こういうの。

 よくわかんない。

 これ、息をするみたいにいつものことだから。

 ということは、私はいつも苦しいのかなぁ。


 もう、自分を傷つけるな。


 あら、私ったら、そんなことしてる?


 している。お前は自分を傷つけている。

 誰も言わなかっただろうが、お前はいい子だ。

 私は、お前がいてくれるだけで、うれしい。

 だから、生きろ。

 


 その不思議な声は、毎日聞こえてくる。

 採血や検温にやってくるリタに、そのことを言ってみた。

「へぇぇ?」

 目をパチクリさせて、不思議そうにジェシーを見つめ返す。

「神様とでも、話をしているみたいだわね」

 その晩、ジェシーは声に聞いてみた。


 ……あなた、神様?


 そのことに関してだけ返事が、ない。

 否定もなく、返事がないことをとりあえず肯定と理解したジェシーは——

 とりあえず声の主はカミサマだと思うことにした。




 カミサマとの会話。

 献身的なリタの看護。

 その甲斐あって、ジェシーの精神異常は、ゆっくり回復へと向かった。

 しかし、それは結局よい結果を生まなかった。

 なぜかというと——

 ある日、医師がこう言ったのだ。

「このまま頑張れば、退院できるねぇ。家へ帰れるから、頑張ろうね」




 その瞬間、思い出した。


 ……そうだ。

 家へ帰れば、お父さんがいる。

 そしたら

 そしたら

 そしたら

 お父さんが

 お父さんが

 わたしのおっぱ●を

 おとうさんのお●んち●が

 わたしの

 わたしの

 わた

 わ

 …………

 イヤ

 イヤ

 帰りたくない

 帰らないといけないのなら

 私

 治らなくていい

 おかしくていい

 いつまでもここにいたい


 

 いやああああああ



 ジェシーはえびのように体を反らせて、痙攣した。

 口からは泡を噴き、白目をむいた。

 病棟は、一時騒然となった。




 ……どうしても死ぬのか


 もう、いいの。

 私、疲れちゃった。

 帰るのなら、死んだほうがいいって思うの。

 私、なんでこの世界に生きてるのか分からない。

 みんなの言ってることが正しければ、私は役に立たない子らしいし。

 自分でも、自分が大切に思えない。

 もー、どうでもいいや、って。

 死んだら、楽になるのかなぁ。

 そういうの、あなたのほうがよく知ってそう。

 ねぇ、死んだら楽になるかしら?



 これだけは、言わせてくれ。

 すまないと思っている。

 辛かったろう。

 悲しかったろう。

 でも悲しいとか辛いとか感じる心さえ、奪われてしまった。

 私はおまえに、何て詫びたらよいか、分からない。

 でも、どうしてやることもできない——



 ありがと。

 いいよ、別に。気にしなくても。

 楽しかったよ。

 話して楽しいなんて思ったの、あなたが初めて。

 人間じゃなかった、ってのがなんかヘンだけどさ

 いい思い出ができたよ、うん。



 お前は、世界でたった一人の子。

 私はお前が大事で、大事で……


 

 ジェシーがあることをしたので、その声はそれっきり聞こえなくなった。



 ジェシーは、テレビを消したようにプツンと意識を失った。

 最後に見えたのは、病院の天井のシミだった。



 私ってば、こんなところでも天井のシミなんか気になるのね。

 あの形は、そうね。

 カミサマの顔、かしらね?

 そんなものがあれば、の話だけど。



 30分後。

 回診に来たリタは、ジェシーの死体を見た。

 一面、血の海であった。

 刃物は絶対に渡らないようにしていたのだが。

 夕食時のフォークを、うまくくすねていたらしい。

 出血多量で死ぬまで、血管という血管を突き刺したようだ。

 脇の下の大動脈に達する刺し傷が、致命傷になった。



 リタは、服が赤に染まるのも構わず、ジェシーにすがりついた。

 そして、声の限り泣いた。

 泣きつかれた頃、ジェシーが白目をむいているのに気がついた。

「……おやすみなさい」

 そっと、手で死体のまぶたを閉じてやった。

 なぜ、そんな言葉が出てきたのか、リタにも意外だった。

 ジェシーとの付き合いが長いわけでもないのに、最後にこう声をかけた。



「あなた、最後の最後に初めて——

 自分の力で、意思で、大きなことを決断したのね。

 正しいことだろうと、間違っていることだろうと、他人の言葉に従うのではなく。

 よかったね」



 まぶたが閉じたら、ジェシーの表情が穏やかになった。

 ちょっと微笑んでいるように見えなくもなかった。


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ジェシーの選択 賢者テラ @eyeofgod

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