最終章 2 『せめてこの命、果てるまで』
ツカサはメンテナンスハッチを開け、東塔の外壁に身を乗り出した。
そこには錆止めの塗料を新たに塗られてワイヤーを張り直されたゴンドラが佇んでいた。
繕い直した雨避けのシートをかぶせ、ツカサは凝り固まった肩を大きく伸ばすように動かす。
『裁縫仕事はもう絶対にやらんぞ。何が面白くて、二人がかりでちまちまとした作業をやらんといかんのだ………。だいたい、今はゴンドラなんぞ誰も使わんではないか。』
ツカサの視界の隅で人形の少女がぼやいている。
左腕を少女にとられてしまったので、あらゆる作業をするにも左右の手を少女とツカサで分担してやらなければならなくなっていた。
「メンテナンスを怠れば事故につながる。いつまでも同じことを繰り返したくないんだ。」
そう言って少女の方に視線を移したツカサは思わず赤面してしまった。
「な……なんだよ、まだその恰好なのか? この間、指摘したばかりだろう?」
少女が身に着けているはずのワンピースのような白い装いは宵闇との戦いでひどく破れ果てたまま……いやそれ以上に穴だらけの状態だ。やわらかな曲線を描く四肢や腰のくびれが露わになっている。
少女もツカサの視線が突然向いたので、慌ててツカサの死角に身を隠した。
『しし……仕方がないであろう! 見た目に力を割く余裕がないのだ。貴様が人を喰わんから悪いのだろう……?』
「……そう言うことか。……はは。喰わないって決めたんだよ。俺の強情さは知ってるだろ?」
言った後で、ツカサはしまったと思った。
そしてツカサの中にいるソラに話しかける。
「ソラ、こんな泥船みたいな体でごめんな。補給すればソラも体を作れるんだろう?」
その呼びかけに応じるように、ツカサの足元に小さな頭部が現れる。
ソラは精神世界で巡り合った時の姿のまま、頭部と右腕だけを残して体を失ったままだった。
今見えているソラの姿はツカサの精神世界にいるソラの投影でしかないのだが、それでも抱きしめたくてツカサは寄り添うように傍らに座った。ソラも穏やかにツカサを見つめる。
『いいよ。そういう所が兄さんらしさなんだから。それにこの体は僕の罪の証だもの……。』
そう。
ソラの罪は簡単に許される物ではない。
しかしその根底にあった想いを知るツカサは責めることなんてできなかった。
スラム街の復旧はソラの罪を雪ぐためだけにやっていることではないが、せめてこの行為が許しにつながればと祈らざるを得ない。
その時ツカサの背後から少女が顔を突き出した。
おそらく恥ずかしい姿を見られたくないので背中に張り付いているのだろう。
少女はツカサを横目で睨みつける。
『土壇場でさらに憑りつかせるなど、もうやるな。ああいう無茶が何度もできるほどに貴様の魂は特別でもなんでもない。二体がぶら下がっているだけで悲鳴を上げておるわ。』
「はいはい。分かってるよ。」
『いいや、きっと貴様は何度でもやるのだろう。今後は私が止める。……次は無いと思え!』
このやり取りは何度目かもわからなくなっていた。
そして実のところ、ツカサはこの奇妙な協力関係が楽しくなっているのも事実だった。
今が思い描いた最高の結果だとは決して言えなかったが、それでもソラがこうして存在できている限り、全てが救われる可能性はきっと途絶えていない。望んだ未来は待っていても訪れることは決してない。手繰り寄せるものだと、ツカサは心に刻みなおすのだった。
真昼の太陽は遠くに霞む《富士》を蒼く染めている。
その光景をツカサはぼんやりと見つめていた。
今までなら《富士》を望むこの方向には、左に伊豆半島、右にはかつて相模灘という名で呼ばれていた海が見えていたはずだ。「いつか海で泳ごう」なんてできもしない冗談をケイジと語り合っていたこともあった。
しかし今のツカサの目には、もう海は見えなくなっていた。
海だけではない。
地面自体を見ることができない。
高層都市の周囲にはヘドロのような黒い粘液が満ちていて、それは地平線の向こうまで果てしなく広がっていた。地球全体がヘドロに飲み込まれて、高層都市といくつかの山の頂だけが取り残されている。………そのようにしか見えなかった。
下方を埋め尽くすヘドロをよく見ると、それはうごめく異形の生物の群れでできていることが分かった。
「全部カルマ……なんだよな。確かにこれじゃあ、高い場所じゃないと住めないよなあ……。」
地球全土を襲った未曽有の大災害。
低地から始まり、徐々に異変発生の高度を高めてきたと言われる謎の汚染。
知識だけでは実感できなかったカルマの脅威が、圧倒的な存在感を放って眼前に広がっていた。
この惑星は、すでに地獄があふれていたのだ。
ソラに右目を渡したことで使えるようになったカルマの眼は遥か遠方のカルマの存在までも見通すことが出来るようになっていた。
ソラは《富士》から逃れる時からこの光景が見えていたらしい。
だとすればかつてのソラは、この圧倒的な存在を前にしながら人を守ろうと戦っていたということになる。とんでもない勇気を振り絞っていたのだろう。
「……あれが《防壁を無効化するカルマ》………ということでいいんだよな。」
『そうだ。』
ツカサが伸ばした指先の先には、崩れ落ちた《富士》全体に巻き付くような、あまりにも大きすぎるカルマの姿が微動だにせず佇んでいた。
霊峰富士の標高に匹敵するぐらいの長大なそれは、昔何かの物語で見たことのある《龍》の姿を思わせる。
「いやいやいや……、デカすぎるだろ。あんなのを動かす《鍵》をよく奪えたな……。」
『私は彼奴を《終焉》と呼んでいる。』
「しゅうえん………。終焉ねえ……。」
『あの体躯に違わぬ大喰いよ。彼奴がなぜ防壁を無効化できるかはわからんが、カルマとしても彼奴を放置できんのはわかるであろう?』
少女は憎々しげに吐き捨てる。
その横顔を見上げながら、ツカサはふと大切なことを思い出した。
「そう、《名前》だよ。……君、名前はなんていうんだ? 長い付き合いになるかもしれないだろう? 知っておきたいんだ。」
突然の問いに、少女は不意をつかれて驚いたように目を丸くした。
めったに目にすることのできない表情にツカサも驚いてしまう。
しばしの沈黙の後、人形の少女はツカサから目を逸らし、伏し目がちに小さくつぶやいた。
『…………。ない。……貴様の好きに呼べ。』
その表情はなぜなのか、ひどく切なくも見える。
ツカサはこの少女のことを何も知らない。
名前がないというのは本当なのだろうか。
名前はその存在を定義する重要な情報なのだと何かの本で読んだことがある。こんなにも存在感のある少女が名前を持たないというのは不自然で仕方がなかった。
「ないってことはないだろう?」
『……なんでもいい。貴様が思い浮かんだそのままでいい。』
その表情を見ると、目の前の人形が人を喰う化け物ということを忘れそうになる。
ツカサは言われるがままに少女の横顔を改めて見つめた。
白磁の陶器のような体。
絹糸のような髪。
そして純白の装いに結晶が舞う霊殻。
実は以前から、ツカサの中には彼女を見るたびに抱く一つの心象があった。
その言葉が口を突いて出る。
「……白雪。」
本当に見たままの単純なイメージ。
しかし高潔な人形の少女の振る舞いにはそれ以上にふさわしい言葉が見つからなかった。
『白雪……。しらゆき……。』
人形の少女はその言葉を反芻している。
『……悪くないな。なんだ? 私が白いからか? 安直な奴め。』
はにかみながら悪態をつくその表情は、まるで人間のように感じられた。
その表情に見惚れてしまい、ツカサはうろたえながら確認する。
「……えっと、その名前で問題はないか? ……その、白雪。」
『……ふふ。問題ない。』
静かに笑う白雪。
ソラも見上げながら微笑む。
『よろしくね。……白雪さん。……でも確かに服ぐらいはちゃんとしてほしいかな。僕の眼もあるんだしさ……。』
『む……。そうだな。……一考しよう。』
ソラと白雪のやり取りを見ながら、ツカサは記憶の中の一つの引っ掛かりを思い出す。
「ところで……白雪。《富士》で初めて出会った時、俺に細工をしただろ? 工場で君に憑りつかれる前から左手がおかしかった。……その刀に刺された記憶も確かにあるんだ。」
虫のカルマと戦った時に現れた左手の白いアザ。
そして保管容器から白雪が出現する直前に、先んじるように白雪の刀が左手を割って出たのは紛れもない事実だ。
どう考えても白雪の何らかの因子が《富士》の崩壊の日からすでにツカサの中に入り込んでいるとしか思えなかった。
白雪は伏し目がちにツカサを睨みつける。
『……忘れた。』
「とぼけないでくれ。」
ツカサが睨み返すと、白雪は大げさにため息をついて答えた。
『………貴様は《富士》ですでに宵闇に憑りつかれていたのだ。そこの小僧に追いつかれた時、痛みがあったであろう? しかし貴様を餌だと定めたのは私が先だった。邪魔な宵闇の霊殻を消し去るために私の霊殻を注ぎ込んだ。………それだけだ。』
確かにツカサは宵闇に浸食される痛みを《富士》でも感じていた。
「……じゃあ、あの頃から白雪の霊殻が俺の中に入っていたことになる。でも俺の体には大きな異常はなかった。どうして俺を乗っ取らなかったんだ?」
『餌に印をつけた程度の意味だ。《これは私の餌。盗るなら殺す》……とな。それに、私は私の分身を作る気はない。この口でいただくつもりでおっただけだ。………まあその後、玉っころに封じ込められはするし、まさかあの時の餌が私を解放するとは思いもよらなかったがな。』
そう言って白雪は高らかに笑い始めた。
ツカサは釈然としない気持ちで口を尖らせる。
「……まあ………いいけどよ。……いつが最初だったにせよ、結局は君に憑りつかれる結果になったわけだしさ………。」
ツカサはふっと息をついて、飛び跳ねるように立ち上がる。
そして
「俺を選んだのが運の尽きだったな! 俺は喰われるだけでは終わらせないぞ。俺の当面の目標は《富士》の再建なんだ。当然、《終焉》なんていうカルマもぶったおす! 俺と一蓮托生だって言うんなら、俺の戦いに付き合ってもらうぞ!」
豪快に笑うツカサ。
その横顔を眺めるソラは呆れるようにため息をつき、白雪は不敵に笑う。
『構わんよ。貴様の魂を食いつぶすまでの間だ。どこまで行けることか……楽しませてもらおうじゃないか。』
星を包むカルマの海。
そして龍の姿を象った終焉の怪物。
圧倒的な脅威を前にして、ツカサは声を轟かせた。
終
人喰いのカルマ ~悪霊に憑りつかれた俺は、君を食べても許されますか?~ 宮城こはく @TakehitoMiyagi
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