【八】八月二十七日午後三時十九分

「秋葉、明日が来ればデートしよう」


 これは、今日の嘘だった。僕には明日なんてものは存在しないから。


「それと、今までの嘘は今日の為の伏線だったんだ」


 僕は秋葉にメッセージを送り、スマートフォンの電源を切った。午前十時、駅前で和花との待ち合わせに遅れないように、もう家を出なければならない。


 ついさっき書き上げて机の上に置いていた手紙を引き出しの奥に仕舞うと、僕は立ち上がった。


 秋葉のことは心配しなくてもいい。僕は昨日聞いた秋葉の気持ちを逆に利用して、秋葉が家から一歩も外に出ないように操ったから。


 今日和花とデートをすることをさも嬉しそうに伝えると、秋葉はあっそ、と今までで一番冷たい返信を返してくれた。秋葉は今日、僕達と会わないようにするために、絶対に外を出歩こうとはしないだろう。


 夏休み最後のデートは僕にとっては文字通り最後のデートとなる。和花と会って、話して、映画館に行って、お昼ご飯を食べて。


 何気ない日常のように思えるが、僕にとっては全て特別なものだった。砂時計を見るように、一秒一秒時間は確実に消えてゆく。


 そして、八月二十七日午後三時十九分は案外直ぐにやって来た。何度もシミュレーションをした光景だが、いざ目の前にすると躊躇い、踏み出す足がすくむ。


 和花と渡ろうとしていた横断歩道の信号が青に変わって、何十人もの人達が一斉に向こう側へ歩み出した。その時、人混みの隙間から僕の視界の端には見慣れたシルバーの大きな車が目に映った。その車はスピードを上げて僕へ一直線に突っ込んでくる。


 途端に世界がスローモーションの様に動き出した。僕に遅れて数秒、ようやく事態に気づき逃げようとする人々。しかし、人数が多くパニックに陥っている集団の中では思うように動けない。


 横にいる和花は、怖さで足が動かなくなってしまっていた。大丈夫、全部知っている、だから何も怖くはないさ。


 誰かの悲鳴、逃げ惑う人達の足音、場違いな信号機の音。全てが頭の中をこだまする。僕はこうなる事を知っていたが、実際に目にすると初めての体験のような気がしてならなかった。


 全てを冷静に受け止め、車が目の前に迫った時、……気づけば和花を思い切り突き飛ばしていた。


 夢の中の僕はいつも怖さで全身が震えて、何も出来なかった。夢は所詮夢だったのかもしれない。今日、車が近づいてくるまでの短い時間に冷静になれたのは、昨日秋葉に会えたからだ。蘇る秋葉の声が、僕に勇気をくれたんだ。


「さよなら」


 最後の最後で皮肉にも僕は、僕だけが犠牲になれるルートを開拓してしまった。夢では隣にいたのが秋葉だったから、体が強張ってしまって上手くいかなかったのか。


 ……最後に秋葉とデートしてみたかったな。


 それでも、隣にいるのは秋葉がよかった。そして、明日からも一緒に生きたかった。その僕の本音は誰にも届く事はない。けれど、これで君を助けられたのならば、僕に後悔はない。


 僕が夢に知らない振りをして僕たちが本来の運命を辿っていたら、どんな毎日を送っていたのだろう。どうせなら秋葉が消える夢じゃなくて、そっちの方をシミュレーションしたかったな。


 呆れるほどどうでもいいことを考えたのが最期だった。それでもその瞬間の僕の頭の中は、秋葉で溢れていた。僕を見て誰かが放ったけたたましい悲鳴が、すぐそばで聞こえた気がした。


 ……僕の目から涙が一滴溢れた瞬間、僕はこの世界と秋葉にさよならを告げた。


✴︎


「秋葉、いつまで寝てるの!」


 お母さんの声で目が覚めた。部屋の時計を見ると、時刻は十時前。さすがに寝過ぎてしまい、頭が少し痛かった。


 もう夏休みもあと数日で終わるというのに、生活リズムは崩れてしまったままだ。けれど、今日位は許して欲しい。今日は夏彦と和花が夏休み最後のデートをする日だから、昨日はモヤモヤして中々寝られなかったのだ。


 これから先もずっと、いつまでも夏彦への想いは捨てられずに夏彦と和花がデートをする度にこんな気持ちになるのだろうか。それとも、いつか慣れてしまって、どうでもいいと思ってしまうような日が来るのだろうか。


 そんなことを考えながら窓のカーテンを開けると、眩しいばかりの日差しが部屋に入り込んできた。それを見て、晴れて良かったねと素直に喜ぶことはできない。スマホをチェックすると、夏彦から謎のメッセージが届いていた。


 いや、デートってどの口が言うのよ。夏彦とデートっていう名目で出かけられるのは和花だけなんじゃないの? また和花と行けばいいじゃない。


 デートという言葉の意味を夏彦は理解しているのだろうか。それに、次の文は更に意味不明だ。今日の為の伏線って何。


「意味分かんないんだけど」


 少し怒りながらそれだけを返信すると、朝昼兼用のご飯を食べるために食卓へ向かった。


 生憎、夏休みの課題は全て終わらせてある。あとの三日こそは遊ぼうと思っていたが、今日はデートをしている二人とばったり会いたくなくて、一日外には出ない事にしていた。


✴︎


 ……しかしその日、夏彦から返信が来ることはなかった。


 おかしいと思ったのは昼過ぎだった。夏彦からなかなか返信が来ないと思って何度スマホを開いても、夏彦は既読すら付けていなかった。

 

 明らかに私に意味がわからないような文を送っていることは夏彦もわかっているはずで、だから返信が遅いな、とは思っていたのだ。


 けれど、彼女とのデート中に他の女子と連絡を取っているのもどうかと思い、私はさぞかし楽しんでいるんだろうなと和花に嫉妬していたのだった。


 しかし、夕方になって私の家に掛かってきた電話は、夏彦の訃報を知らせるものだった。信号無視をして横断歩道を渡る歩行者に猛スピードで突っ込んだ車に当たった夏彦は、即死だったらしい。


 一緒にいた和花は夏彦に突き飛ばされ、道に頭を打った時のショックで気を失っているらしいが、命に別状はないらしい。


 電話に出たお母さんが泣きながらそのことを私に伝えたとき、数時間前にテレビや検索サイトの速報で流れたニュースが頭をよぎった。ニュースに関心がない私でも耳にしたほどの大きな出来事。


 最近多い、悲しい事故がまた起こってしまったのだという印象しかなく、私の身近な場所で起こったことだけが私に少しだけの恐怖を与えていた。


 それでもまさかその事故に二人が巻き込まれたなんて想像すらしていなかった。事故が起きたのは大きな交差点だったにも関わらず、奇跡的に亡くなったのは夏彦一人だけだったという。


 その他大勢なんてどうでもよかったのに。死者一の表示の、その一がどうして夏彦なんだろう。


 たとえそれだけ奇跡的だと言われようと、夏彦が巻き込まれたのだけはやるせない。夏彦だけが生きていてくれれば、それだけで良かったのに。


 私は出来事の意味を受け止められずにただ茫然としていた。お通夜も、お葬式も何処か別の世界で起きている出来事のような気がしていた。


 同級生や夏彦の親戚が参列し、皆不幸な事故に涙を流していたが、私にはそれが理解できなかった。どうしてそんなに簡単に、夏彦の死を受け入れられるのか。しかし、拒否反応を起こす心とは反対に私もまた、目からは絶えず大粒の涙が溢れていた。


 夢なのではないかと何度も思い、どれほど願ったことだろう。けれど、夢にしては鮮明すぎる、正座をしたときの足の痺れが、私に現実を伝えていた。

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