【四】ソーダ缶
あの日から二週間程が経過した。夏彦が私に話しかける回数は格段に増え、学校で会う時はほぼ必ず話をするようになった。たった一言で関係が激変するのなら、もう少し早くに言っておけば良かった。
夏彦と会うのは専ら廊下ですれ違う時で、この二週間、廊下を歩くのに少しドキドキしている自分がいた。わざと夏彦の近くのクラスの子に教科書を借りに行ったり、少し遠回りをしてでも向こう側の階段を使って移動をしたり。
その行動を顧みると、私は完全に恋する乙女のようで恥ずかしくなる。黒歴史にでもなりそうだから、そうならないように頑張ろう。
そう意気込んだ日の次の日だった。昼休み、私と和花はいつも通り教室でお弁当を食べていた。私はお母さんに作ってもらっているけれど、和花は週に何回かは自分で作っているらしい。
今日はその和花の手作り弁当の日で、私は昨日の晩御飯の余りが詰められただけのお母さんの手抜き弁当と比べて少し不満げに煮物を口に運んでいた。
和花は「冷凍食品を詰めてるだけだよ」と謙遜して言うが、今食べている卵焼きは形がとても整っているし、横に入っている肉じゃがは見るだけで美味しい。毎回彩も良くて、美味しそうなお弁当だ。
作ってもらっている分際でお母さんに文句は言えないと諦めつつお弁当を食べ終えると、無性にジュースが飲みたい衝動に駆られた。
持ってきた水筒の中の緑茶はまだ半分程残っているけれど、どうしてもジュースが飲みたくなって、一階にある自販機に買いに行くことにした。和花はトイレに行きたいそうなので、別行動をとることにした。
教室を出ると、目の前にある階段はもちろんスルーして奥の階段へ向かった。するとナイスタイミングで夏彦が友達と一緒に教室から出てきた。夏彦が近づいてくる数秒間、周りのざわめきが消えて、夏彦と私の足音だけが響く。
一瞬にして胸が高鳴り、何の話をしようかと瞬時に考えて、話しかけられる気満々に構えた。それなのに、夏彦は私に視線をやると何もせず隣を通り過ぎていった。
私は期待していた分落胆も大きくて、思わず振り返っていた。振り返れば夏彦が何かしてくれる気がして。しかし夏彦は普通に友達と会話していて、普通に廊下を歩いて、普通に遠ざかっていった。
私はその光景を数秒見つめていて、気持ちがどこかに飛んでいた。
「秋葉、何してんの?」
という声は夏彦ではなく、友達の声だった。その声にふと我に返ると、
「自販機にジュース買いに行くんだ」
とだけ答えて笑って誤魔化した。昼休みに放送部が流す音楽や、生徒達の賑やかな声が途端に耳に入るようになった。
階段を下りて自販機まで早歩きで向かう。自販機まで約一分。中庭のベンチでお弁当を食べる上級生を見たり、食堂でおやつを買って嬉しそうにするクラスメイトとすれ違ったりすると、何かから遠ざかるように早足で歩く自分に、虚しさを感じた。
私は自分で自分に驚いていた。どうしてここまで傷ついているのだろうか、と。ほんの二週間前まではこれが普通だったのに。
もしかしたら友達と話していたからかもしれない、私と話す話題が思いつかなかっただけかもしれない。夏彦が私に話しかけなかった理由を考えれば考えるほど、馬鹿らしく思えてくる。
今は、ソーダの気分だ。自販機に百三十円を入れて、ソーダのボタンを押した。今すぐに、この飲み物に心を洗ってもらいたい。
プルタブを開けてその場で一口飲むと、鼻に抜ける爽やかな香りが、口の中でしゅわしゅわと消えていく炭酸が、私の気持ちまで気化してくれるように思えた。
元々夏彦は素っ気ない奴だったじゃん。この二週間がおかしかっただけで、気にする必要はないよね。さっき落ち込んだのは、そんな性格の夏彦が珍しく話しかけてくるから期待してしまっていただけ。きっとまた夏彦の気まぐれだったんだ。だから、次は私から話しかけるようにしよう。
冷たいソーダ缶を手に持って来た道を戻ると、さっきの気持ちは本当にどこかへ消えていた。頭を渦巻くのは、どうしてペットボトルじゃなくて缶を買ってしまったんだろうという後悔だった。
予鈴まであと十分強しかないのに、とか、ソーダは何でペットボトルに入っていないのだろう、とか。気持ちの切り替えが速いのが私の取り柄かもしれない。飲み切らないといけないから、歩きながらでも飲んでいいよね。私はソーダを飲みながら、さっきよりも幾分か軽い気持ちで階段を駆け上がった。
ソーダを片手に教室へ入ると、和花の姿が見られなかった。教室にいた子に和花の居場所を聞くと、私と一緒に教室を出てから戻って来ていないらしい。ということは、まだトイレの方にいるはずだ。
飲み物を置いて二教室分程離れたトイレへ向かおうとすると、和花は廊下に出ていて、誰かと話をしていた。和花が話している相手は、もしかしたら……。気づかれないように少しずつ近づくと、私の予感は確実なものとなった。
「夏彦……」
さっき夏彦と一緒に居た男の子はどこかへ行ったのだろう。夏彦と和花は二人で話に花を咲かせていた。夏彦の顔は私に向けるようなぶっきらぼうで無表情なものとは違って、よく笑うし細かに表情を変えていた。
その姿に、不思議と小さい頃の夏彦が重なって見えた。夏彦は年を追う毎に私への態度は素っ気なくなっていった。出会ってすぐの頃は無表情じゃなかった夏彦。きっと、私に興味が無くなっていったのだろう。
ソーダによって消したはずの虚しさが、また込み上げてきた。私のことはさっき完全にスルーしたくせに、どうして和花とは楽しく談笑しているの。いつの間に、二人は二人だけで話せるほど仲良くなっていたのだろう。
その時、校舎の騒めきを覆うように予鈴が鳴り響いた。その音を聞いて、廊下に出ていた生徒が各々の教室へ向かって歩き出す。私も二人には絶対に気づかれてはいけない気がして、競歩の大会に出られそうなほどのスピードで教室へ戻った。
小さな事で喜んで、何気ない態度に傷ついてしまう。親友にすら嫉妬して、私は自分の気持ちを改めて確認させられた。
私が席に着いた瞬間に、スカートのポケットに入れていたスマホが震えた。
「さっきはごめん」
「あと、志賀さんの連絡先知りたいんだ」
このタイミングで、夏彦からのメッセージだった。志賀という人物は、残念ながら私の知り合いには一人しかいない。この二文のどちらかは嘘、なのだろう。私の勘がそう言っていた。
そんなこと思いたくはなかったけれど、今見た光景が頭をよぎった。最初の一文だよね。私の一分後に教室に入ってきた和花に、夏彦に連絡先を伝えて良いかを尋ねた後で夏彦に送ってあげた。
『キーンコーンカーンコーン』
その時鳴った本鈴が、私の頭を無理やり勉強へと引きずり込んだ。後ろのロッカーに置いてあった参考書を取りに行くのもすっかり忘れていた。大好きな数学の授業すら聞くのが憂鬱で、一番前の席で堂々と寝てしまいたくなった。
今にも涙が出そうな私の机の横には、まだ三分の一ほど残ったソーダ缶が置かれてあった。時間が経つにつれて炭酸も、冷たさも、徐々に無くなっていったのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます