【三】心ここにあらず
僕は秋葉と別れて階段を一目散に駆け上がると、教室棟に入って一番奥に位置する自分の教室へ向かった。
帰りのホームルームはもう終わっているだろうか。それとも、僕一人の為に帰るのを待っているのだろうか。
教室のドアにそっと触れて、静かに開けると、答えは後者だとわかった。教室に入ってくる僕に一瞬だけ皆の視線が集まり、すぐに元通り前を向いて担任の長い話を聞き始めた。
先生がまだ連絡事項を伝え終わっていないところを見ると、答えは後者でもなかったらしい。ただただいつも通り先生の話が異様に長かっただけか。先生は途中で入ってきた僕に特に触れることもなく話を続けていた。
僕が自分の席に座って数分経ってようやく放課となった。早く帰らせてくれという教室の空気に、先生は果たして気づいているのだろうか。皆帰りの挨拶もそこそこに、部活へ、自宅へと一斉に教室を飛び出していく。
……今日は久々にあんなに大きな声を出して走ったな。
そんなことを考えながら、一人、また一人といなくなる教室で帰る用意をしていると、吉田が僕を心配するような様子で近づいてきた。
「お腹痛かったんだろ?大丈夫か?」
「ああ、トイレで長く居過ぎたかな。先生の話聞きたくなかったし」
「なんだ、サボりたかっただけかよ」
僕は笑いながらさらっと嘘を吐いた。掃除が終わり、帰りのホームルームが始まる前に僕は教室から抜け出した。吉田にお腹が痛いからトイレへ行くと伝えて、向かったのは
不器用だった僕はいつから、ここまで嘘が上手に言えるようになっていたんだろう。いや、秋葉の事になるとこうなんだな。
吉田はとても良い奴だ。クラス一人一人の事をよく気にかけていて、真面目で、何事にも一生懸命で、クラスの委員長もしてくれている。そんな吉田だから、僕を疑う素振りは微塵も見せなかった。
大それた嘘ではないけれど、一緒に生徒会室へ行こうと普通に言われると心が痛くなった。ああ、と言いつつリュックを背負うと、僕達は特に話すこともなく無言で歩き出した。
吉田との仲が悪い訳ではないが、僕は一人で考え事をしたかった。吉田もそんな僕の様子に気づいて、気を使ってくれていた。
秋葉は、きちんと自転車の点検をしてから学校を出たのだろうか。僕はちゃんと、秋葉が学校から出る時間を遅らせられただろうか。生徒会室へ向かう道すがら、下校する生徒達を横目に秋葉の事ばかり考えていた。
体育館やグラウンドから聞こえる運動部の声、友達と会話を楽しむ生徒、何処かで忙しなく閉開するドアの音、吹奏楽部や合唱部の音色。
放課後らしい音が入り混じる校内で、僕にはその音が遠く離れた場所から聞こえている。隣を歩く吉田も、たった今すれ違った名も知れぬ先輩も、自習に励んでいる同級生も、いつも全てが輝いて見える。
……あと何回だろう。
その答えは、正確にはまだ僕も知らない。
✴︎
「こんにちは」
生徒会室へ入るとそこにはいつも先輩達がいて、やっほーといった声が返ってくる。役員でもない僕達に毎日仕事があるわけではなくて、そんな時はすぐに帰るか適当に駄弁っているのだが、校舎の隅に配置されたここの、このアットホームな感じが大好きだ。ここにいる時だけは、僕も一高校生として存在出来ているような気がするんだ。
歴代の先輩方のよくわからない私物が置かれてあったり、書類が山積みにされていたり、はたまた奥の棚には休憩用のお茶セットが置かれてあったりする。僕にはその物たちでさえも、南向きの窓から入り込む陽の光を受けてキラキラして見えている。
「今日は仕事ありますか」
二人して荷物を床に置きながら、吉田が口を開いた。荷物を置く場所として設置されているであろう棚には、ダンボールや何が入っているかが分からない箱などが置かれてある。その為、僕達は荷物を床に並べるしかない。
「いや、今日は特に」
手前にある大きな机でパソコン作業をしていた会長が、パソコンから一時も目を離さずに答えた。真剣な表情で文化祭用のプリント類を作成する姿を見ると、会長に憧れる。たとえ僕がなる確率はゼロパーセントだとしても、格好良いと思うものは格好良いいのだ。
「わかりました」
吉田が、会長の動きをみて固まっている僕を見て、どうする? と言いたげな目で聞いてきた。今の時期は専ら九月の体育祭や文化祭の準備で忙しいのだが、今日は久々に仕事なしか。
他の先輩方も書類のチェックをしていたり、会話に花を咲かせていたりするし、今日は家に帰るのが少し怖いこともあって、時間つぶしにここで居ようか。きっと誰かと一緒に居た方が怖さが紛れるだろう。
僕は吉田に答えるように近くにあった椅子に手を掛けて座った。吉田もそれを見て僕の隣の、破れて中のスポンジが見えているパイプ椅子に座った。最初は先輩方のオーラのせいで、ここの椅子に気軽に座ることすらできなかったな。
そんなことを考えていると、吉田に話しかけられた。
「夏彦さ、たまに心ここにあらずって時あるよな。さっきもそうだったから話しかけなかったんだけど」
椅子に座ってもやることがない僕達は、自然と会話をするようになる。こういった時、話し出すのはいつも吉田の方だ。吉田が言うさっきというのは、ここへ来るまでの道中の話だろう。
「確かにぼーっとしてしまう時があるかもしれないな」
僕はいつも素っ気なくて、表情が変わらなくて、何を考えているのか分からないと言われる。そしてそれは自分でも自覚している。
まあ、そう僕に言ってくるのはたった一人なのだが。普通の友達の前では掴みどころがないということはないと思うんだ。
『ブブ』
シャツの胸ポケットに入れていたスマートフォンがバイブ音を鳴らして、メッセージアプリの受信を知らせた。その通知が、僕の心拍数を一気に上昇させた。最悪の事態を想像してしまい、僕の顔はおそらく一瞬凍りついただろう。
スマートフォンを見るのが怖くて、胸ポケットへ持っていく手がぎこちなくなる。やっとのことでスマートフォンを取り出すと、意を決して画面をタップした。
「今日、なんであんな嘘だったの?」
そのメッセージが僕の緊張を解した。ああ、噂をすれば影。秋葉本人からのメッセージだと分かり、安堵の溜息が溢れた。
「別に」
秋葉への返信はいつも素っ気なくなる。勿論、もっと送りたい内容は沢山あるのだ。これでは秋葉には絶対に好かれないことは分かっているが、そうせざるを得ないのだから、仕方がない。後々、結局返ってくるのは自分と秋葉なのだから。
「わざわざ言いに来る必要なかったでしょ」
「いや、あったよ」
秋葉は僕が意図することの一ミリも、いや、一ミクロンすらも汲み取れていないだろうけれど、あったんだよ。どうしても、友達に嘘をついてでも、直接伝える意味が。
「ふーん」
「あ、もう少し学校で話しかけてよね!」
その文面を見て、僕は困ってしまう。秋葉のお願いには極力応えたいと思うのだけれど、それは僕だって話しかけたいのは山々なんだけれど、けれど……。
『ガチャ』
その時、生徒会室のドアが開いて、また一人ここへやって来た。その人物を目にした瞬間、僕の中でもう一つのルートが思い浮かんだ。この日の僕は、自画自賛するくらいに天才だったよ。
「こんにちは」
僕達と同じように挨拶をしながら入ってきた秋葉の親友が、その日の僕には女神のように感じられた。彼女の後ろには後光すら見えていたかもしれない。そんな彼女を見ながら、
「分かった」
と、秋葉に返信したのだった。
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