Op.グレイゾオン

三津凛

第1話

まるで烏の雛だ。

不細工な雛鳥どもの大群だ。

着慣れないリクルートスーツが肩や背中に張り付く。会場の湿気が汗を誘って、これ以上なく不快だった。パンプスが踵の皮を削いでいく。それが気になってどうにも集中できない。

私は彷徨い歩く。まるで、方位磁針も持たずに広大な砂漠に投げ出されているようだ。

そう思うと、本当に砂丘が見えてくるようだ。

刺すような太陽に、体重を支えきれずに足を飲み込んでいく微細な砂たち。ところどころに、覗く白い頭は干上がった動物の死骸が朽ちた骨だ。その中に人骨もいくつかある。瑞々しい眼球のない暗い眼窩は思ったよりも大きい。私もいずれ、あんな風になるのだろうか……。

妄想はどこまでも膨らんでいく。私は自分が就職活動のために来ていることを忘れてしまいそうだった。

意識は始終落ち着くことがなく、あちこちを彷徨う。私は今、間違いなく遭難者だ。

思えば昔からそうだった。一つのことに集中できた試しがない。同時に並行して物事を進めることができないから、遅刻の常習犯だし忘れ物もトップクラスに多かった。

そして、微妙な人の心が分からない。だから、私に友達と呼べる人はいない。

ふと、私の真横に誰かが立った。典型的な就活生という佇まいな女の子だ。パンプスにやはり苦戦しているのか、踵のあたりを少し直している。髪を綺麗にひっつめて、控えめながらにしっかりと化粧を施された頰は緊張で幾分強張っている。だが一様に上向きに揃えて薄いマスカラの乗った睫毛は、暗に彼女の揺るがない自信の顕れでもあると、私は思う。

形態模写。

私は彼女をしげしげと眺めた後で、そっくり彼女の佇まいを真似する。目当てのブースが既にあるようで、パンフレット片手に迷うことなく歩いて行く。

砂漠が霧散していく。私は彼女を目印にして、ついて行った。

辿り着いたのは、とある大手の人材会社だった。彼女は昵懇の人事関係者がいるのか、誰かにはたと気がついて、すばしこい野うさぎのように人波を縫っていく。私もその後をついて、彼女のやりようを真似する。彼女は初老の担当者と何か言葉を交わした後で、並べられたパイプ椅子の列の一番前に座った。私も迷わず彼女の横のパイプ椅子に座る。

そこで初めて、彼女の方が私を見た。私も視線を逸らさず彼女を見つめる。

彼女の顔色に、訝しげな色が広がっていく。数秒見つめ合った後で、彼女はとても言いにくそうに私に声をかける。

「……あのう、ここの最前列って、3月のインターンに参加した参加者で埋められてるはずなんですけど……すみません、見憶えがなくて……。インターン、参加してましたっけ?そんなに参加者は多くなかったから、顔と名前は全員覚えてたはずなんですけど」

「え?」

彼女の顔色には、明らかな不信があった。

無数の学生でごった返すブースは黒色に膨らんでいく。

それが夕立前に立ち昇る夏の積乱雲のように見えてきて、今度は雨が私の視界に現れ始める。そうなると、もうあの典型的な就活生は立ち消えてしまう。でも再び立ち上がるのがどうにも面倒で、隣でいくら彼女がしつこく説明しようが私はそこから動かなかった。

終いには人事の関係者が来て、私を無理やり立たせてブースの一番後ろの席まで引っ張って行かれてしまった。



初日の就活フェアは散々で、閉会するまで居たもののやったことは目につく就活生の後をついて形態模写をやったくらいだ。

それも続かず、疲れ切ってからはずっと会場内のベンチに座って、ただ通り過ぎていく人波を眺めていた。そっちの方が、私にとってはずっと重要なことのように思えた。

例外なくみんな焦っていて、自信なさげだった。とりあえず船に乗ってみた……というような、難民地味た雰囲気がスーツから滲み出ている。彼らを待ち受ける企業の人事は悪徳ブローカーといったところか。

学生同士で固まってブースに飲み込まれていく人たちもいれば、一人で駆け回る学生もいる。彼らの観察に飽きると、私はつい欠伸をした。そこでたまたま歩いていた初老の企業人と目があった。彼は少し怒ったような視線を私に向けてきた。私はどうしてそんな視線を向けられるのか分からず、真っ直ぐに見返した。あまりにも長くそうしていると、今度は逆に彼の方が気まずそうになって視線を逸らして逃げていった。


変な人。


私は笑った。こそこそと私の視線をまだ感じているであろう背中が、とても滑稽で私はけたけたと笑い続けた。

私の周りにだけ、人波が避けるように円が広がっていく。

誰もが不謹慎なものを見るような目をしている。露骨に嫌そうな顔をする人たちもいる。私にはどうして彼らがそんな顔をしているのか、さっぱり分からない。

あまりにもみんなが一様に同じ視線を送るものだから、私も彼らに合わせて怒ったような表情を作って見せた。眉間に力を入れて、周囲を睨みつける。視界に薄い火花のようなものが散る。

すると、途端に周囲の視線は解けてみんな私と視線を合わせないようにしてばらけていく。

私はそれから、会場の関係者に連れ出されるまでずっとその顔をしていた。




夏休みも終わり、秋も深まる頃になっても私は一向に内定をもらえなかった。

「そこそこの大学に通ってるのに、一つの内定ももらえないなんて、やっぱりお前に問題があるんだよ」

母は臆面もなく言ってのける。

私はそれを聞き流す。底の方に味噌の溜まってしまった味噌汁を箸でそっとかき混ぜる。それが怪獣の口から吹き上がる煙のようで、面白い。

ゴジラを制作した監督が、ゴジラの口から吐き出される煙を食卓の何気ない仕草からヒントを得たことを思い出す。私はしばらくそれに夢中になって、ずっと同じことを繰り返した。

汁椀を置いたままにしておく、やがて味噌が溜まって味噌汁は綺麗な二層になっていく。それを箸の先でそっとかき混ぜる。

「もう、やめなさい!」

母が激昂して、汁椀を取り上げる。

「子どもじゃあるまいし、やっぱりどこかおかしいんじゃないの」

彼女は吐き捨てるように言う。

私は母を見上げて、どうしてこの人はこんなにいつも怒っているのだろう、と思った。




ゼミの中でも、内定が出ていないのは気がつけば私ともう一人の男の子だけになっていた。

その男の子はいつも不健康そうな顔色をしていた。男のくせに、筋肉の感じられない、腕よりもその関節の方が太く見える奴だった。そいつは内定のまだもらえていない私に対して、勝手な親近感を覚えたのか秋を過ぎた頃から馴れ馴れしくなった。

「なあ、お前は将来どうすんだよ」

「さあ、知らない」

私はそいつの顔をまともに見たことがない。足元に大きな蟻がいて、そいつがさっきから食べている菓子パンの残骸を一生懸命運んでた。

ふふ、と私は自然と笑ってしまう。

蟻はアスファルトの溝に足を取られて身動きが取れなくなっていた。

働くって、ちょうどこんな具合なのかもしれないなと思った。

「いつも独りで、つまんないんだ。なあ、映画でも見ようよ」

「は?」

私は蟻を見ながら、生返事をした。

そいつはなにを間違えたのか、私の返事を肯定だと捉えたらしい。

「じゃあ、俺ん家でな。迎えに行くよ」

私は半ば引き摺られるようにして、そいつの家に連れて行かれた。



そいつの部屋は意外なほど綺麗で、整頓されていた。窓際には皺一つないリクルートスーツがかけてあって、そいつはこれを片手で数えるほどしか袖を通していないに違いない。

本棚には漫画ばかりだったけれど、それに混じって四季報や業界地図の本が肩身の狭そうに収まっていた。

生意気なインテリアみたいだと私は思った。

私の視線を感じたのか、「なかなか、うまくいかねえよな」そいつは言い訳を素早くした。

その目には、お前も同じだから分かるだろうとでも言いたげな甘えが露骨に浮かんでいた。

私はそれを無視して、早く映画を見せるようにせがんだ。

そいつは手慣れた様子でDVDをつける。それは何年も前に見た洋画で、私はすぐに飽きて窓の外を行き過ぎる秋の雲を数え始めた。

気がつくと、そいつは私の肩にぴったりと自分の肩を合わせて何かを窺うような目をしていた。

「なにしてるの」

そいつに聞くと同時に押し倒されて、その場で犯された。

脇腹を思い切り蹴り上げても、そいつは異常な執拗さで迫ってくるのをやめなかった。揺れ続ける視界の中で、ふと天井の染みが目に入った。それが不意に大きく小さく、縦横に形を変えていく。うさぎになり、ふくろうになり、蛇になり、最後に原始人になった。

それを凝視しているうちに、すべてが終わった。

そいつは、こそこそと離れて、乱暴に私の股を拭いた。

避妊なんてしていなかったことを、私は帰り道で気がついた。そいつはその後すぐに大学を辞めた。

噂では自殺したとか、なんとかだったけれど本当のところは分からない。



年の瀬も迫った頃に母が匙を投げて遠い親戚が経営する小さな工場の事務員として、私を潜り込ませることを勝手に決めた。

「事務なんて、なにすればいいの」

「パソコンくらい、できるでしょう」

母は振り返らずに言う。

魚の焼き加減を頻りに気にしている。この人はいつもそうだった。食べ物の焼き加減に、異常にこだわる。

私は母が神経質に動かす菜箸の動きが面白くて、今朝はそればかり見ていた。

期末試験を受け終わった後で、G mailに企業の採用担当から案内が来ているのを見つけた。

こんな時期に、と訝しむこともなく私は機械的に指定された日時にリクルートスーツを着て向かった。

私はメールの文面を暗記するほど眺めながら、こんな企業にエントリーしたかしら、とだけ他人事のように思った。

よく分からない面接を少し受けた後で、人事の男から「……君、内定はあるの?」と聞かれた。

「いいえ」

「だろうね、じゃないとこんな時期にうちを受けにくる学生なんていないからな」

日頃の鬱憤が溜まっているのか、男は濁った顔色をしている。

「君に内定をあげるよ」

煙草やるよ、くらいの勢いで男が言った。

私はよく意味が掴めず、とりあえず笑っておいた。

男は少し不満そうだった。

「君ってさあ、大学はそこそこいいところなのに、今の時期までふらふらしてるなら、どこかおかしいんじゃない?」

「それ、母にもよく言われますね。お前はおかしいって……だから、いつも母は私に怒ってばかりです」

それから男は私と母との関係について、しつこく聞いてきた。私は聞かれるままに答える。

男は面白そうに目を見開く。

無駄に目ばかり大きな男で、張り付いたコンタクトのごく薄いブルーが見えた。

私はそれを綺麗だと思って、じっと見続けた。

男はそれを勘違いしたのか、次第に上機嫌になっていく。

「内定祝いに、2人で飲みに行こう」


あれ、この誘い文句前にも誰かが言ってたな。


似たような響きを、あの自殺したかもしれない同級生が発していたことを、私は遂に思い出せないままだった。



男はしきりに強い酒を勧めてきた。

私はそれをほいほい飲んだ。気がつくと引き摺られるようにして、男の部屋まで連れ込まれた。

半分眠いような意識の中で見上げた男の顔は、赤く膨らんでいた。それが興奮のためだと、私には分からないままだった。

無意識に脚が上がって、力なく男の脇腹を蹴る。

「そんなことしても無駄だよ」

男は満足気に呟く。

まるで追い剥ぎのように私は素っ裸にされて、無精髭のざらついた頰を胸に擦り付けられた。

「内定が欲しいんだろう?大人しくしとけよ、な?」

男は笑う。

なにがそんなに楽しいんだろう、と私は不思議に思う。

ここは、合わせて笑っておけばいいのだろうか。

「ふふふふ」

私が笑った途端、男の動きが止まって私を見下ろした。

「なにがおかしいんだ。内定が欲しくないのか?」

私は母の言葉を不意に思い出す。

「だって、年が明けたら私は親戚の工事で働くことになってるんだもの。それ以外なにも決まってないだけよ」

それから、先ほどの男の様子を思い出してまた笑った。

「ふっざけんな!」

男は激昂して、私の頰を叩いた。

私はそれでも、なんとなく笑っておいた。男は萎えるどころか更に興奮して、私にむしゃぶりつく。

「もう、知らねえからな」

私はふと天井を見上げた。

染みはなかった。あぁ、つまらない。

私は男が死人のように動かなくなるまで、ひたすら待った。

男は翌朝になると、一言も話さず最寄駅まで私を送った。

私も何も言わずに別れた。

それから、なにも思い出さなかった。





年が明けた頃から、体に異変を感じた。

食べ物の好みが変わって、急に気分が悪くなることがあった。

どうして、目敏い母がこのことに気がつかなったのか今では不思議でならない。

気がついた頃には、どうしようもできなくなっていた。

窓の外を眺めた。雪が降っている。

私は卒論を書くこともなく、家にこもって寝ていた。母はなにも言わない。

その日は朝から体調が良くなかった。吐き気が止まらず、水も飲めない。そして腹の奥が刺すように痛む。

私はなんとなく、アダムとイブの絵画を調べた。

たった2回だけなのに、男と女はちゃんと受精してしまうものなのだろうか。

無数に現れる絵画の一つをプリントアウトして、部屋の壁に貼った。林檎の実に手をのばすアダムとイブの間に、蜥蜴のような生き物がいる。

それを見ていると、次第に痛みが増してきて、私は反射的にトイレに駆け込んだ。


ヒトの妊娠期間は、9ヶ月のはずだ。


私は目眩を覚えながらうずくまる。



ただ、どうしていいのか分からなかった。


善いことも悪いことも、ここにはなかった。

ただ産まれてしまった、産んでしまった事実だけが私の股の間から墜っこちてしまった。

生命だとは思えなかった。

盆の水をひっくり返すように、それは墜っこちてもう二度と元には戻らなかった。その硬い事実だけが私にひたひたと押し寄せてくるだけだった。

泣くことも、笑うこともできずにそれは便器の中に浮かんでいた。排泄物となんら変わりないものだった。


ただ、どうしていいのか分からなかった。


iPhoneにたった一曲だけ入れた音楽を、無意識のうちにかけていた。左手の伴奏が、まるで心臓の鼓動のように聞こえてきた。

私は胎盤の浮いた血溜まりの中から、それを拾ってしばらく茫然とした。そして、iPhoneから流れる音楽にゆっくり頭を向けた。

「あぁ、ブラームスのワルツ」

ただ、どうしていいのか分からなかった。

天使も悪魔もいない、この狭い空間で私は何もできない。掌にあるものをとても生命だとは思えなかった。ただ、事実とはこんな姿をしているのだと思った。

なんて醜い、残酷な、知性も人格もない、ただ一つの事実だった。

「ブラームスのワルツってね、世界で一番美しいと思うの。誰も分かってくれないけどね」

それから、その肉塊をもう一度血溜まりの便器の中に捨てた。そして、なにものにも惑わされずに私は水洗レバーを引いた。


こんな時に、普通の人ならどんな顔をするのだろう。怒るだろうか、泣くだろうか、それとも底抜けに笑うのだろうか。

真似をするような、相手がいないからだ。

私にはどうしていいのか、分からなかった。



ブラームスが目を閉じた。音楽が絶えた。

血の匂いの中で、夜が明ける。


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Op.グレイゾオン 三津凛 @mitsurin12

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