12:00am
風が顔にかかります。上がる限り精一杯地面を蹴り、少女は走り続けました。白い線がゆらゆらと浮かんでいます。肩を張り、最後の力を足に振り絞りました。ナイフの上を歩く様に燃えるその足を容赦なく前へと押し出します。息が喉に突っかかり、空気が薄まっていました。その中を突き進むのです。少女は青嵐の如く、追いつく者など誰一人いませんでした。
五メートル、三、二、一…テープが消えました。その代わりには終わり無き青空が広がっているのでした。
膝が折れ、ツンとする草の匂いがしました。誰かが笑っていました。それは、彼女でした。
「--瀬、おめでとう!」先生の声が遠く、水の中の様に響いてきました。「このまま行けば、一年でも全国大会に出れるかもしれないぞ。」
「ありがとうございます、先生」少女の様な声が息を吐きます。「本当に、ありがとうございます!」
「--瀬が頑張ったからな。」笑みを顔いっぱいに浮かべながら先生は遠ざかって行きました。
近づいてくる人影がありました。それは--「頑張ったりするなよ」
「--どういう事ですか--」
「第一、先輩に向かって礼儀が--」
「そんな…」
「お前は--」
「--がいます、許してくださ--」
「--聞こえな--」
パッ、ガシャン、グシャ、ゴトリ。誰かが叫びました。
誰だったのでしょう。思い出したくなんてありませんでした。あの少女は、一体全体誰だったのでしょう。
タタン、タン、タタン、タタン、タ、タン。電車は一つの暗闇から次へと進んで行きました。
◁◿◃◯◃⭙◿▽
「ハッピーバースデー…トゥー、ミー。」十二時の針を打った時、少女は小さな声で歌いました。震える手で取り出したのはひと夏前のくしゃくしゃになった写真でした。四人の人達の真ん中で彼女は笑っていました。
クラッシック音楽同好会。
先輩からもらったクラッシック全集第三アルバムは今でも聞いたりしていました。
「先輩、オーストリア、行けそうに無いです。約束したのに、ごめんなさい。嘘、つきました。覚えていたら許してください。」幾分か苦労しながら彼女は窓をこじ開けました。夜の空気がじわじわと広がって行きます。
「さようなら、
タタン、タン、タタン、タタン、タ、タン。もう列車には誰も残っていませんでした。カーヴで電車がくねる度に空席になった車両が見つめ返して来ます。皆、いないのでした。しかし、列車は忠実に走り続け、無人駅に止まり、ドアを開け、また閉めて暗闇を照らし続けるのでした。
「
タタン、タン、タタン、タタン、タ、タン。
タタン、タン、タタン、タタン、タ、タン。
「私の事、嫌いなのも分かっているよ。これからもずっと私の事嫌いでも良いよ。でも、私にとっては長月が永遠の親友だよ。永遠って途轍もなく長い期間。」
そして、私は永遠いなくなる…。
「失礼します。」
ソプラノの声が涙で顔が濡れた少女に声をかけました。
「はい⁉」何とか返事をし、少女は鞄をつかんで飛び上がりました。
「いや、ただ次の駅が終点だとお伝えしたかっただけです。」声の高さとは裏腹に男性の車掌さんは心配そうに彼女に顔を向けました。何かを言い始め、途中で止めると彼は歩き始めました。電車がゆっくりと揺れます。再び車掌さんはくるりと振り返りました。
私の家が何処だか聞かれないと良いのだけど…。
「あのう…もし良かったら運転席を見に来ませんか?僕の友達なんで…。」
少女は瞬きをしました。二回、しっかりと。変な事を言うものです。けれども、悪気がある訳では無いでしょう。小さく頷いて彼女は一歩踏み出しました。
終点へと蛇の如く這っている車両の中を二人は歩いて行きました。不安そうに速度を上げて歩くその車掌さんにつられて、少女も歩く足を速めました。いつしかの時の傷が鈍くこだまして痛みます。
電車が停車したのと同時に一番前の車両に二人はたどり着きました。車掌さんが運転席のドアを軽くノックすると、運転手さんが応答に扉を開けました。二人は何やらと聞き取れない小声で会話を交わすと、車掌さんの方が少女に手招きをしました。小さく会釈をし、彼女は運転席へと足を踏み入れました…。
最初の印象からすると、その空間は見た目以上に狭くて窮屈だと言う事でした。(それも、三人の人が押し込められていたからでしょうか?)運転手さんが軽く頷くと、車掌さんは運転席のコントロールの棒やらボタンやらとの名前と使い方の説明を始めました。聞きながら少女の脳裏を駆け巡るのは、何故男性なのにこんなに声が高いのか、何故こんなに自分に良くしてくれるのか、そんな事ばかりでした。
しかし、何事も発せずに黙って聞き続けました。
十分程経った後でしょうか。車掌さんは淡々とした説明をこう結論付けました。「人生ってさ、電車みたいだよね。走り続けなくちゃいけないレールがあって、大抵の人はそれを難無く走る事が出来る。でもさ、僕みたいに脱線しちゃう人もいるんだよね。でさ、クレーンとかジャッキとかを使って元通りにする。僕にとってはこの人がジャッキだったんだよね。彼がいなければ、今の僕はいない。本当に感謝しているよ。」
少女は改めて運転手さんの顔をまじまじと眺めました。昔、この人達はどんな人達だったのでしょう?返答かの様に、運転手さんは微かに笑いました。
「あ、何だか遅くなっちゃってごめんね。」車掌さんは軽く付け足しました。「僕さ、今日のシフトは終わりだから家まで送っていくよ。」
「でも…。」彼女は帰りたくなんぞなかったのです。あんな所、家なんかではありません。
「何かあるならさ、話してみると良いよ。難しく感じるかも知れないけれど、きっと上手く行く。必ず聞いてくれる人がいるよ。」
また涙が脅威的に視界を襲って来ました。「でも…本当に、無理なんです。」
運転手さんがプラットホームへと扉を開きました。今にも崩れ落ちそうな足取りで、彼女は手を貸してもらいながら地面へ降り立ちました。
「ちょっとここで待っていてね。」車掌さんはそう言ってコンクリートの階段を駆け上がって行きました。少女はその車掌さんを目で追って、姿が見えなくなると黄色い点字ブロックへと視線を落としました。
気まずい沈黙が残された二人の運転手さんと少女の間を覆いました。とても長い時間が経った気がした後、老人は口を開きました。
「あの子は、不良だった。家出して、学校も辞めて、悪さを重ねて生きていた。ある日--丁度この様な終電で、病に患い、泥酔し、一文無しの時に出会った。どうやら何処かの暴力団か何かから追い出されたらしい。電車の運転の仕方を説明してやった。」小さくため息をつくと、彼は続けました。「良き仕事仲間と友になった。あの子は、根はいい子だから。今は奥さんと息子が一人いる。本当に良かったと思う。」
「何だか、」少女はにっこりとしました。「あなたがとても素晴らしい方だと言う事が分かりました。」
「どうだか」老人は電気が消えて行く車両を見つめながら同じくにっこりとしました。
その時、車掌さんがカン、カン、カンと階段を駆け下りてきました。一緒に来た背の高い車掌さんは、一目その場を見渡すと、一日の務めを終えた電車に乗り、車庫入れに行きました。
「それでは、」元不良の車掌さんは言いました。「家へ帰る準備は出来たかな?」
「はい。」終電、終点のお客さんの少女は頷き歩き出しました。
終電、終点 椎須ルイ @goshichigo
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